(5)新型コロナ現象後も「公園を使い倒す」発想に変化はない

 公園は、公共事業の中で「不要不急」という扱いを受けてきた、と感じている。全体の公共事業費が伸びる時には、図体が小さいので、全体の伸び率を上回って伸びていくが、全体が削減されるときには、いち早く削られてきた。

公共事業の伸びと公園事業の伸び(資料:国土交通省のデータを基に筆者作成)
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 事業別(道路、河川、港湾など)の中期計画(五箇年計画)が束ねられて社会資本整備重点計画となった時、政策上の4つの柱(観点)として「活力」「安全」「暮らし・環境」「ストック型社会への対応」が示された。公園事業も全方位的に「活力」「安全」などのカテゴリーにも多く位置付けられるように努力したが、なかなか思い通りにはならなかった。機能や効果がエビデンスとともに示しづらい特性を持つ公園事業の宿命を感じた。

 では、税を原資として整備し、管理する公園という社会サービスは、このままでいいのか。

 まず言えるのは、新型コロナ現象の中で公園に人が集まる現象を受けて、花を刈り取ったり、駐車場を閉鎖したり、遊具の使用禁止を行い、公園全体を閉鎖せずに来訪行動に制限をかけていくことは、致し方なく、適切な対応策である、ということである。「3つの密」を回避する公園利用が求められる状況下だからである。

 しかし、新型コロナ現象後、「にぎわい」へのこだわり、「公園を使い倒す」発想そのものに変化があるかと問われれば、私は「ない」と答える。むしろ、日常生活全方位的に公園という空間を使いこなすということをさらに強く目指すべきだと主張したい。

 これからの公園の在り方を、本質的な公園の在り方論として考えようとするとき、新型コロナ現象の中で言われる「新型コロナウイルスとの闘い」「大規模(自然)災害と同じ」という言葉にとらわれるべきではない。

 新型コロナウイルスは、天然痘のような根絶(1980年WHO天然痘根絶宣言)に向かう対策を全世界的に打つことが可能なようには思われず、致命的な健康被害を回避する共存・共生ということになるのだと思う。根絶を目指す「闘い」と致命的な健康被害を回避する「共存・共生」では、打つべき政策、もっと言えば、具体的な対応策(特に現場レベルでの)が違ってくると思うのだ。

 また、新型コロナ現象は、大規模(自然)災害と同じでもない。情緒的・感覚的な物言いで申し訳ないが、大規模(自然)災害は「大きな怪我」であって、感染症による社会的被害は文字通り「深刻な病気」である。これも違う政策、違う現場対応が求められる。持続的、本質的で根気のいる「根本的な改め」が必要なのは、むしろ、感染症による社会的被害への対応のように思う。そうしたことを含めて、これからの公園の在り方を、本質的な公園の在り方論として考える必要がある。

 新型コロナ現象下で、公園における問題点として「見ごろを迎える花」や「遊具」ばかりが取り立てて一般に認識され話題に上ったということは、何を意味するのか。それは、公園という空間が、いかに人々の生活活動・時間の断片しか受け入れていないか、ということの裏返しと言える。今回の新型コロナ現象で、現在の公園は、限定的な目的において、局所的ににぎわいをつくり出している存在であることが確認できたと見るべきだ。

 だが本来、公園は、もっと全方位的に生活活動・時間を受け入れるポテンシャルを備えているはずだ。

 私が、10年以上も前から説明してきた公園という社会資本の量、すなわち1人当たり10m2を達成している意味、「国民全員一人ひとりが同時に10m2のレジャーシートを重なりなく敷いて真ん中に座った時、公園は初めて埋め尽くされ、家、オフィス、商業施設、交通施設、ありとあらゆる公園以外の場所から人は居なくなる」という量的充足を果たしている(偏在という問題はあるにしても)事実――。こうした前提に立てば、公園は、「密」を回避しつつもっと多くの人を迎える底力を持っている空間であることは明白だ。一方で、この社会資本をこれから永劫、税を原資とした資金で管理していくことは極めて難しい。民間との連携は不可欠といえるだろう。

 では、「全方位的に生活活動・時間を受け入れる」とはどういうことか。公園に本を読みに行く、公園に昼寝しに行く、公園でノートパソコンを開く、公園へ女子会に行く、ということが、現在において社会的に、普通にイメージできるのか。特定の目的が無くても、今日は1日公園に行く、ということに公園という社会装置は耐えるのか。そのレベルにはるかに到達しないのが実態なのではないか。公園にキャッチボールに行く、犬の散歩に行く、公園でMTBのトレイルをする、テントを張ってピクニックをする――これらは公園側が拒絶してしまっている行為である。

 公園の造りということで端的な例を挙げれば、公園のベンチは限られた場所に固定され、わずかに設えられているだけである。地面から切り離されて、移動可能なチェアやベッドがたくさんあるだけでどれだけ多くのアクティビティー、時間を公園が担うことができるか。

愛知県岡崎市の籠田公園。同市が実施する公民連携プロジェクト「QURUWA戦略」の一環として、暮らしの質の向上やエリアの価値を高める公園として昨年再整備された(写真:岡崎市)
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 「管理が大変そう」――。預かった税金でつくって税金で管理している公園が、オーナーでありクライアントである市民へのサービスを最大化するための苦労をすることは当たり前ではないのか。雨を避けるだけの屋根空間があるだけでも、公園の使いこなしは全然違ってくる。これまでの施設の設えや、使い方を常識としないアプローチ。空間的に、時間的に分割して、プライベートな使用を可能にするようなシェアリングする社会資本としての在り方も、おそらくこれからもっと成熟させるべきソーシャル・キャピタルの概念形成を促す社会資本として、公園は進歩的な役割を果たすのではないか。

 「余暇」時間ではなく、生活時間のできる限り多くの部分を公園中に切り出して存在させることが大事であり、有している空間(全国に9万カ所もある街区公園など小さな公園もすべて)をフルに使うための公園の在り方、公園の運営の仕方を真剣に考えるべきである。目指すのは公園の日常的生活空間化である。特定のユーザー層が高頻度に利用する公園、もしくは、特定のヘビーなコミットメントに応じる中で禁止行為の看板が増えていくような公園から、より多くの、すべての人が訪れ時間を消費し、信頼関係にベースを置いたコミュニティーの協調行動を促すような公園を目指すべきであり、「時間消費社会資本」としての全方位性を高めるべきだ。

東京都豊島区の南池袋公園。公園は進歩的な社会協調を創り出していく社会資本になれるはずだ(写真:日経BP 総合研究所)
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