11億米ドル。日本円に換算すると1300億円。医療機器大手のSiemens Healthineers社がカテーテル施術ロボットを開発・販売するCorindus Vascular Robotics社を買収するにあたって支払う金額だ。

 2019年8月8日に発表されたディール(売買取引)は、直近12カ月の売上が1524万米ドルのCorindus社に対して、その72倍の評価をしたことになる。あるレポートによると、米国で上場している中堅医療機器メーカーの売上に対する時価総額の倍率の中央値は4.1倍。それに比べると本件は圧倒的なアウトライアー(外れ値)に見えるが、実はそうでもない。

 あまり知られてないかもしれないが、実はこの5~6年、手術ロボット系の企業の買収が多発している(表1)。しかも超絶バリュエーション(事業評価)で、だ。

表1●2016年以降の手術ロボット系の企業の買収例
買収金額順。色を付けたのがビリオン=10億米ドル越えのM&A。金額は、マイルストン・アーンアウト(分割)支払いを含む(表:筆者が作成)

 表1の通り、ビリオン=10億米ドル(約1070億円)越えのM&Aが4件、そのうち3件は直近12カ月に起きている。日本国内発のヘルスケアベンチャー企業が歴史上経験したことのないレベルのM&Aが多発している事実は、見過ごすわけにはいかないだろう。

大手企業が目指す未来

 前述のビリオンM&AがSiemens社、Stryker社、Medtronic社、Johnson & Johnson社と超大手医療機器メーカーによるものであるのは、資金力面で当然といえば当然だ。そして今回のCorindus社のM&A時のプレスリリースを読み解くと、大手医療機器メーカーが目指す医療現場の将来の方向性が見えてくる。

 Corindus社のCEOは今回のM&Aに関して、「デジタルと人工知能(AI)ツール(digital and artificial intelligence tools)」「精密ロボットプラットフォーム(Precision robotics platform)」「遠隔機能(Remote capabilities)」という言葉を用いている。当然、M&A時のプレスリリースには買収者の意向が大きく反映されるので、Siemens社が「デジタル、AI、ロボットの融合が実現する遠隔精密医療プラットフォーム」の可能性に対して11億米ドルの価値を見いだしたということが読み取れる(当然競合の動向も多大に影響しているであろうが)。

 「AI」が「遠隔」「ロボット」で手術をする。大手企業が目指している世界はそんな未来であり、それを実現するために必要なピースは出そろい始めている。

 ちなみにIT大手であるGoogle社は、手術ロボット事業にいち早く参入している。しかもヘルスケアの超大手、Johnson & Johnson社と組み、Google社が得意とするオープンイノベーションスタイルで、だ。両社は2015年3月に手術ロボット領域でのJoint Ventureを発表し、2015年8月にVerb Surgical社を設立した。約5億米ドルの資金が投資されることも発表されている。

GoogleとJ&Jが仕掛ける壮大なプロジェクトとは…

 Verb Surgical社設立の背景について、「Johnson & JohnsonとGoogleは手術において新しいパラダイムを創りたいと考え、Verb Surgicalを設立した。そのアイディアとしては、Verb Surgicalは十分に資金が提供されたスタートアップで、資金調達のことを考える必要はない。世界を変える事だけを考えればいい」とSVP of Marketing & Business DevelopmentのDave Herrmann氏がコメントしている。「Digital Surgery」(デジタル手術)というカテゴリーを実現し、パラダイムシフトを起こすための壮大なプロジェクトだ。ITの巨頭が医療の最大手とタッグを組んだ同プロジェクトに、筆者は大きな期待感を持ったことをよく覚えている。

Verb Surgical社は2018年に「既にフルに機能しているシステムを親会社(Johnson & JohnsonとVerily)に実証し、2020年の製品リリースを予定している」とツイートしている(出所:Verb Surgical社のTwitter)

 ちなみに、この立ち上げ時期はGoogleの親会社であるAlphabet社がライフサイエンス子会社であるVerily Life Sciences社を設立する以前である。Verb Surgical社の取り組みが、Alphabet社がVerily社を通じて本格的にライフサイエンス事業に参入する基盤の一つとなったのかもしれない。

 Verily社は創設以降、大手医療機器メーカーや製薬企業と数多くのパートナーシップを発表し、医療とITの融合は目に見える形で加速化している。そう考えると、Siemens社がCorindus社の買収を通じて「AI」「遠隔」「ロボット」が融合された手術ソリューションに取り組むのも必然といえるであろう。

洗練されたビルだが内部はまだ空っぽ、でも…

 一方で、Google社とJohnson & Johnson社によるVerb Surgical社のその後の進捗は順調ではないとの見方もある。そもそもプロジェクトの内容がほとんど公表されていない。

 さらに2019年2月にCEOが辞任し、同時期にJohnson & Johnson社が別の手術ロボットスタートアップであるAuris Health社の買収を発表したことも憶測に拍車をかけた。Google社とJohnson & Johnson社が巨額のリソースをつぎ込んでも、誰がやっても、新規事業創出はなかなか思い通りに物事が進まないものなのだろうか。

 あまりに公にされている情報がないので、百聞は一見に如かず、筆者はVerb Surgical社が2018年6月にリースしたカリフォルニア州サンタクララ市にあるオフィスを実際に見に行ってみた。

駐車場に向かう途中に見えた会社名(写真:筆者が撮影、以下同)
いかにもハイテク企業っぽい建物。全面ガラス張り

 高速道路からも見える看板に、近辺のオフィスビルと比較しても洗練されたビルだ。全面ガラス張りの、勤務環境の良さそうな建物の中をよく見ると、まだデスクなどはほとんど設置されていない。駐車場には作業用のトラックも多い。

高速道路からも見られる立派な看板

 オフィスをリースしてから1年以上経つが、まだ正式にはオープンしていないようだ。しかし改装作業はほとんど終わり、テナントを受け入れる最終準備段階の様子だ。近いうちに拠点をここに移して医療にイノベーションを起こしていく雰囲気は感じられた。

外で仕事できるスペースもある
駐車場からの写真。車は多数あるが、まだ工事中らしく、作業用トラックや建築関連の方たちが多い

 Google社とJohnson & Johnson社という各業界のリーダーが生んだVerb Surgical社が、満を持して実現を目指す「Digital Surgery」。洗練されたビルだが内部はまだ空っぽの同社オフィスを、「Digital Surgery」の実情を反映していると揶揄することは簡単である。時間はかかっているが、ようやく晴れの舞台に立つ準備が整ったと筆者は捉えている。

 そしてこれは欧米だけのトレンドではなく、日本ではA-Tractionやリバーフィールドなどのロボット手術ベンチャーが開発を進めている。「AI」「遠隔」「ロボット」「デジタル」と「医療」の融合が生み出す新しいパラダイムが楽しみでしょうがない。

(タイトル部のImage:Wendy Yu)