解剖学の発達前に体の仕組みを陰陽五行で分析

 中医学の核になる思想と言えば、相反する2つの特性「陰陽」と、五行と呼ばれる「火、水、木、金、土」のバランスを正しく保つことで、心身の健康が保たれ病気を予防するということ。

 これらが道教の思想書『易経』に記されたのは3000年以上前のことで、もちろん西洋での解剖学発達より遙か昔のことである。

 「当時の医者に内臓の知識はないものの、その観察は非常に正確」とツィム教授。「例えば人体で『火』を司るのは『心臓』に当たる部分で、常に脈打ってエネルギーを循環させており、人体のエンジンに当たる重要な役割を果たすと考えられていた。一方『脳』という概念が西洋から伝わったのは17世紀なので、かつては火が精神を司り、火のバランスを保てば心も安定すると考えられていたことから、日本語にもなった『心臓』という名称の由来になっている」

 その他、水が腎臓、木は肺、金は肝臓、土が胃を表しているとされ、「例えば胃という内臓が存在することは知らなかったが、土が体に栄養を吸収する庭のようなものであると理解していた。土が足りないときには、土の属性に分類されるナツメを食べるとバランスが良くなるとして、更年期の女性などに勧めるというのがセオリーになっている」。

 それぞれの知識が記録された時代背景を知ることは、中医学を理解する上で非常に重要だという。

 「例えば同じ婦人科系に効く『当帰補血湯』も、かつては4種類の食材と一緒に処方されていたのが、13世紀の元朝時代には2種類になっている。それはなぜか? 当時、モンゴル人に支配されて中国人が極貧だったため、最小限の食材で効果を発揮させなければならないニーズに迫られたからという時代背景があるからだ。こうした歴史的な変化は、前述の指揮者である成分を絞り込むのに役立つ」

 一方で、「当帰補血湯」の製法自体は不変だという。「当帰6gと黄耆(オウギ)30gの分量比は1:5で、約500mlの水を加えて沸騰させ、250mlまで煮詰めて、1日1回飲む、と定められている。これは医師が先代から学び、多数の患者に施しながら代々受け継いできた最高の製法であると、私の実験でも科学的に証明できている。西洋医学とは異なる方法論だが、実際に臨床で長年使用された結果が反映されていることは確かだ」

 とはいえ、様々な古代の医学書を研究してきたツィム教授にとっても、解明できないミステリーも数え切れないほどある。

香港郊外にあるHKUSTのキャンバスは、広々として美しい(写真:筆者が撮影)

 「例えば前述のノーベル賞受賞をもたらした葛洪の16種類のマラリアの治療法の1つには『生きた蜘蛛をご飯に載せて丸ごと食べる』という奇想天外な記載もある。葛洪は根拠のないことを書く人ではない。では、なぜこれが記載されているのか。中医学の歴史には、現代の常識では理解できないことも多数あるのは事実だ」

 医学、歴史、哲学、文化など多彩な要素が絡み合いながら、迷宮のような一面も織り交ぜられた中医学の世界は奥深い。ツィム教授は、そのグローバリゼーションの下地をつくる実験や研究、調査を続けながら得た知見を、新たな領域に活用している。

 次回は、ツィム教授とアロマセラピストが共同開発した新型コロナウィルス感染予防パッチを始めとする、新たな中医学活用の取り組みについて紹介しよう。

(タイトル部のImage:筆者が撮影)