香港は、食生活など日常の生活に「漢方」こと「中医学」(漢方とは、中国から伝来した中医学が日本独自の発展を遂げた医学を指す、日本にしかない呼称。本稿では医学の名称としては使用しないが、薬については「漢方薬」と呼ぶ)の考え方が浸透しながら、西洋医学の水準も国際的に高い。医学においても東西の文化が独特なバランスで共存する土地柄だ。2019年に登録された西洋医は1万4651人、中医(中医学医師)1万54人と、ほぼ3:2の割合になっている。

昨今、東西の両文化を知る香港人の若者が、中医学を貴重な優良コンテンツと捉え、様々な最先端技術や外来のコンセプトと組み合わせて新ビジネスを生み出していることは、本連載でも取り上げてきた。東西医学の融合をうたう新公立病院も2024年に香港に設立される予定だとも聞く。

一方で、特に欧米の医学界では「中医学は偽科学」と断定する偏見もまだまだある。国際的に微妙な位置づけにある中医学にあって、東西融合の現状を知りたいと訪ねたのが、香港を代表する理系大学であるHKUST(香港科技大学)生命科学部のカール・ツィム教授だ。

HKUSTの実験室で漢方薬のメカニズム解析を続けるカール・ツィム教授(写真:筆者が撮影)

 ツィム教授は英国ケンブリッジ大学で分子神経生物学博士号を取得後、ケンブリッジと米国スタンフォード大学で博士研究員を務めた。その後、中医学の研究者の道を選び、中医学のグローバライゼーションを目指して、効能分析から臨床試験までを積極的に推進。その知見を生かした様々な共同開発やプロジェクトにも着手している。

 東西融合について知る以前に、ツィム教授の視点から繰り出される内容は、ジャーナリストでもつい「中国4000年の歴史に育まれた」などの枕詞で終わらせてしまいがちなところに、中医学を理解する上で重要なポイントが多数隠れていることに気づかされた。

 中医学の現在・過去・未来を考えるシリーズ第1回目は、中医学の基本と西洋医学との根本的な違いを踏まえた上で、東西医学の融合に対するツィム教授の知見をご紹介しよう。

圧倒的な歴史に魅了される

 西洋医学界のエリートであるツィム教授が、中医学の専門家へと方向転換したきっかけとは何だったのか。

 「1989年、香港返還時の行政長官が、香港を中医学のハブにしようという計画を立て、その調査研究チームに私も招聘された。元々、歴史に強い興味を持っていたこともあり、西洋薬の発明よりも遙か昔から存在する中医学医療の奥深さを目の当たりにして、大きな衝撃を受けた」

 例えば、12世紀に北宋の市街地の様子を描いた、6mを超える有名な都市風俗絵巻「清明上河図」には、小児科、内科、薬局、診療所など6カ所が描かれている。飲食店の10カ所に次ぐ多さで、中医学医療が当時からいかに生活と密接に関わっていたかを教えてくれる。

現在は台湾の故宮博物館に所蔵されている、北宋の宮廷画家・張択端が描いた「清明上河図」。黄色の円部分に中医の診療所や薬局などが描かれている(資料提供:Centre for Chinese Medicine)

古代の医学書は原石の宝庫

 西洋医学を学んできたツィム教授にとって、2000年近く前の古代の医学書に記された製薬方法や処方箋が示す正確性は驚異だった。

 「中医学のグローバライゼーションのためには、西洋医学の方法論を用いて、これらのメカニズムを解析していかなければ」と自らの使命を悟ったという。

 歴史に裏打ちされた処方の水準の高さを示す最高の例が、2015年にマラリア特効薬となるアルテミシニンの抽出により、中国人として初めてノーベル医学・生理学賞を受賞したトゥ・ヨウヨウ氏だ。

 「ヨモギの一種である漢方薬の青蒿(クソニンジン)から抽出されるアルテミニシンが、マラリアに効く可能性があることは長く語られていたが、非常に不安定で有効成分の抽出が困難なため、実現できなかった。ヨウヨウ氏が着目したのは、約1700年前に医学者の葛洪が記したマラリアを治す16種の方法の1つだった」

 「葛洪(283~343年)は、道教思想、医学、化学など多方面で名を成した天才で、中国のダ・ヴィンチ的存在」とツィム教授。「西洋医学では、有効成分抽出にはエタノールを使い、原料を高温で扱うのが一般的。ところが青蒿はアルコールと高温に弱い。葛洪が勧める冷水を使った古代の抽出方法に忠実に従うことで、ヨウヨウ氏はマラリア特効薬の開発に成功した」

 「中医学と西洋医学の融合は、実は最近始まったことではない。アルテミニシンの他にも、抗アルツハイマー薬のガランタミンや、乳がん、子宮がん、肺がんに処方されるパクリテキセルは、漢方薬として使われてきた薬草由来の成分だ。最近では癌患者への化学療法での副作用緩和に芍薬甘草湯が使用されている。西洋医学では、1970年代頃に多数の人工的な化学物質を開発したものの、自然に存在しない成分は人体への有毒性が強く、肝臓に害が及ぶ副作用が問題になった。それ以降、天然植物を薬の原料として考える傾向が強まり、中医学由来成分にも注目が集まってきた」

ツィム教授の実験室で研究に使われている漢方薬剤。現在ほとんどの薬剤は、原産地も購入者も中国本土だが、香港での品質管理を通してパッケージングされることで信頼が高まるとして、香港は漢方薬の輸出入貿易で重要な地位を保っている(写真:筆者が撮影)

 「1つの成分に集中する西洋薬は、バイオリニストやピアニストなど、1人の音楽家によるソロ演奏。成分の効能や副作用がはっきりと分かる。一方、漢方薬には1000以上の化学成分が含まれることもあり、まさにオーケストラのようなもの。全体として効能があることは科学的に証明できても、1成分を除いた全体への効能の変化は明確にはならず、どの成分がどう作用するかというメカニズムを説明するのが難しい。これを西洋医学と同じ枠組みで証明するには、1000以上ある成分の中で唯一、無くなると成り立たなくなる『オーケストラの指揮者』となる主成分を特定しなければならない」

 まったく成り立ちが違う東西医学をすり合わせるのは、想像以上に難しい作業だということに気づかされた。

解剖学の発達前に体の仕組みを陰陽五行で分析

 中医学の核になる思想と言えば、相反する2つの特性「陰陽」と、五行と呼ばれる「火、水、木、金、土」のバランスを正しく保つことで、心身の健康が保たれ病気を予防するということ。

 これらが道教の思想書『易経』に記されたのは3000年以上前のことで、もちろん西洋での解剖学発達より遙か昔のことである。

 「当時の医者に内臓の知識はないものの、その観察は非常に正確」とツィム教授。「例えば人体で『火』を司るのは『心臓』に当たる部分で、常に脈打ってエネルギーを循環させており、人体のエンジンに当たる重要な役割を果たすと考えられていた。一方『脳』という概念が西洋から伝わったのは17世紀なので、かつては火が精神を司り、火のバランスを保てば心も安定すると考えられていたことから、日本語にもなった『心臓』という名称の由来になっている」

 その他、水が腎臓、木は肺、金は肝臓、土が胃を表しているとされ、「例えば胃という内臓が存在することは知らなかったが、土が体に栄養を吸収する庭のようなものであると理解していた。土が足りないときには、土の属性に分類されるナツメを食べるとバランスが良くなるとして、更年期の女性などに勧めるというのがセオリーになっている」。

 それぞれの知識が記録された時代背景を知ることは、中医学を理解する上で非常に重要だという。

 「例えば同じ婦人科系に効く『当帰補血湯』も、かつては4種類の食材と一緒に処方されていたのが、13世紀の元朝時代には2種類になっている。それはなぜか? 当時、モンゴル人に支配されて中国人が極貧だったため、最小限の食材で効果を発揮させなければならないニーズに迫られたからという時代背景があるからだ。こうした歴史的な変化は、前述の指揮者である成分を絞り込むのに役立つ」

 一方で、「当帰補血湯」の製法自体は不変だという。「当帰6gと黄耆(オウギ)30gの分量比は1:5で、約500mlの水を加えて沸騰させ、250mlまで煮詰めて、1日1回飲む、と定められている。これは医師が先代から学び、多数の患者に施しながら代々受け継いできた最高の製法であると、私の実験でも科学的に証明できている。西洋医学とは異なる方法論だが、実際に臨床で長年使用された結果が反映されていることは確かだ」

 とはいえ、様々な古代の医学書を研究してきたツィム教授にとっても、解明できないミステリーも数え切れないほどある。

香港郊外にあるHKUSTのキャンバスは、広々として美しい(写真:筆者が撮影)

 「例えば前述のノーベル賞受賞をもたらした葛洪の16種類のマラリアの治療法の1つには『生きた蜘蛛をご飯に載せて丸ごと食べる』という奇想天外な記載もある。葛洪は根拠のないことを書く人ではない。では、なぜこれが記載されているのか。中医学の歴史には、現代の常識では理解できないことも多数あるのは事実だ」

 医学、歴史、哲学、文化など多彩な要素が絡み合いながら、迷宮のような一面も織り交ぜられた中医学の世界は奥深い。ツィム教授は、そのグローバリゼーションの下地をつくる実験や研究、調査を続けながら得た知見を、新たな領域に活用している。

 次回は、ツィム教授とアロマセラピストが共同開発した新型コロナウィルス感染予防パッチを始めとする、新たな中医学活用の取り組みについて紹介しよう。

(タイトル部のImage:筆者が撮影)