長寿世界一で高齢社会の香港。その医療レベルは世界最高水準で、住民であれば公立病院で非常に手ごろな価格で高度医療を受けることが可能だ。しかし、香港全体の40%に過ぎない公立病院の医師が、香港全体の入院患者の90%を担当しているという不均衡から、公立病院の慢性的な混雑が社会問題になっていることは、前回お伝えした通り。

たたみかけるように増額が続く

 特に高齢者ほど、ちょっとした風邪でも少し離れた公立病院の緊急救命室を訪ねる習慣があるという。近所にある私立クリニックを掛かりつけの医師として利用するように促すことで、公立病院の負担を軽減できると同時に、高齢者自身の通院や待ち時間の負担が減り、よりきめ細やかなプライマリーケアも受けられるようになる。これが大病の予防となれば、高齢者の生活の質も向上できる。また、糖尿病や高血圧、透析など、定期的な通院が必要な持病を持つ高齢者の診療を公立病院から切り離すことができれば、相当な負担軽減になることが見込まれる。

 そんな目標を達成するインセンティブとして発案され、2009年に3年間の試行が始まったのが、私立クリニックを使用する際の補助金となる高齢者向けの「医療券」。70歳以上の香港ID所持者、つまり香港への居住登録者であれば対象になり、年間250香港ドル(約3500円)分が支給されていた。

医療券が使用できる施設は、外から見える場所に「医療券」のサインが必ず貼ってあるので一目瞭然(写真:筆者が撮影)

 2012年に金額が500香港ドル(約7000円)となった後は、毎年倍増を繰り返し、現在は年間3000香港ドル(約4万2000円)。2014年からは、正式な継続的プログラムになり、2017年には対象年齢が65歳に引き下げられた。

先送りも可能に、コメディドラマ風の広報も

 2014年からは、支給年に使い切らなかった金額の先送りが可能になり、その上限金額は同年の4000香港ドル(約4万8000円)から始まり、2019年には8000香港ドル(約8万4000円)となるなど、たたみかけるように増額を続けている(表)。

対象年齢 年額 次年度
繰り越し上限
2009-2011 70歳以上 250HKD
2012   500HKD
2013   1,000HKD
2014   2,000HKD 4,000HKD
2015   2,000HKD 4,000HKD
2016   2,000HKD 4,000HKD
2017 65歳以上 2,000HKD 4,000HKD
2018   3,000HKD 5,000HKD
2019   3,000HKD 8,000HKD
表:医療券制度の変遷(出典:https://www.hcv.gov.hk/eng/pub_target_group.htm)

 インセンティブとしての効果を発揮させるために、まずは医療券自体の認知度を高める必要がある。一般的で真面目な政府広報CMの他に、コメディドラマ風の広報番組も製作しているところが香港らしい。

広東語と英語の二言語対応による政府広報ビデオ(YouTubeより)

Information Services Department, HKSARG


香港のテレビ局RTHKとのコラボレーションによるコメディタッチの広報ビデオ(YouTubeより)

Elderly Health Service

 この医療券を使用できる施設は非常に幅広く、一般的な西洋医学のクリニックはもちろん、中医学と呼ばれる漢方クリニック、歯科医院、カイロプラクティス、物理治療、X線、健康診断、検眼などまで含まれている。

医療券はこう使う!高齢者ユーザーの実例

 夫との死別をきっかけに、30年暮らした米国から娘の住む香港へと、2006年に移住した譚金愛さん(84歳)は、「車社会の米国と違って、香港では徒歩で気軽に近所の診療所に行けるし、薬代も、米国での1日分(約600円)が香港の半年分と圧倒的に安くてありがたいです。夫を失ってからの孤独感で鬱になりかかっていたのが、手厚いケアですっかり回復して元気になりました。香港に来て寿命が延びた気がします」と喜んでいる。

譚金愛さんの行きつけの中医学クリニック。近所に多数のクリニックがある中、こちらを選んだ決め手は「先生が親切で、必要以上のものを売ろうという態度がまったくなかったから」(写真:筆者が撮影、以下同)

 そんな譚さんは、もちろん医療券も有効活用している。週に1回は必ず訪れるというのが、自宅から徒歩3分ほどにある林棟樑先生の中医学クリニック。

 香港では、たとえば高熱などはっきりした不調で対処療法が必要な場合は西洋医学のクリニックに向かうが、不定愁訴や軽い不調、病気の予防と体質改善には東洋医学と、自分の状態に合わせて東西のクリニックを使い分ける人がとても多い。2018年時点で、医療券を利用できる登録施設の34%が中医学クリニックで、西洋医学クリニックの32%を上回り、最多となっている(※1)。

中医学クリニックでの問診は、患者の脈を測り、舌の状態を見ることから始まる

 譚さんは、主に慢性的な消化不良の症状緩和を目的に、このクリニックを訪れている。「とはいっても、母の場合、とても優しい林先生やクリニックのスタッフと、定期的におしゃべりしに行くのが楽しみというのも大きいのですけどね」と笑う娘の譚艷光さん。

すべてバーチャル、何の事前登録も必要なし

 実際にこの医療券をどのように使うのか、譚さんに見せていただいた。まず驚いたのが、頭で想像していた「高齢者の自宅に印刷した券やカードが郵送されてくる」というものでもなく、すべて対象者の香港IDにひも付けされていて、すべてバーチャル、そして何の事前登録も必要ではないこと。

問診の結果から、処方箋を書く林先生と譚金愛さん

 「これから診療に行くけれども、カードが見つからない」「医療券というのがあるらしいけれども、登録の仕方が良く分からない/億劫だから使っていない」などという、とてもありそうな事態が起きないようによく考えられている。

 医療券の使用や残高確認には「e Health System」というオンラインプラットフォームが使用されている。これには使用者の登録が必要だが、未登録のままクリニックに行っても、そこのスタッフが代わりに登録してくれる仕組になっているので、高齢者はとにかく自分の香港IDさえ持っていれば良い。

医療券を使っての受診の場合、必ず患者にコンセントフォームが提示され、署名をすることになっている
ICカードリーダーに患者の香港IDを挿入して(写真左下)、eHealth Systemにアクセスする仕組み

 医療券の残高確認は、専用電話か、このe Health SystemのモバイルアプリかPCサイトで確認できるし、親族が代わりに確認することも可能になっている。

 試行段階から、たたみかけるような増額に加えて、当初は50香港ドル単位で、端数は切り捨てられていたのが、途中から1香港ドル単位になったため、無駄なく使い切ることができる。

 さまざまな変更を即決し、システムを作ったけれども形骸化してしまうという事態を避けるために、利便性を最大限に高めていく歯切れの良さは、まさに香港らしいところだ。

高級眼鏡に乾物まで。用途には問題山積

 2009年の28%から2018年には94%と認知度を高め、対象者の84%が実際に使用している(※2)という医療券制度だが、開始から10年目にして大きな問題点が明らかになっている。実は中文大学の調査によると、医療券の認知と利用率が高まっているにも関わらず、高齢者による公立病院の利用率が、医療券導入前の73%から78%へと上がったという結果が出てしまっている。

 その大きな要因として医療券の本来の目的ではない形での利用が増えていることが議論されている。

 2019年に新たに加わった制限の1つが「眼鏡を作るための検眼は2年に1回、2000香港ドル(約2万8000円)が上限」。つまり、繰り越しにより最大8000香港ドル(約11万2000円)まで一度に使用が可能になったことで、最大金額を費やして、高価な眼鏡を購入する高齢者が増えてしまったのだという。

 もう一つ、繰り返し書かれている注意書きが「高価な海産乾物の購入には使用不可」。つまり、滋養豊かで健康増進に役立つと考えられている鮑や燕の巣などの最高級乾物は、一部の中医学クリニックでも販売されているため、その購入に医療券を使用するケースも多いらしいのも、香港らしいと笑って済まされない事態になっている。

香港の乾物屋街では、高価な乾物が当たり前に販売されている。左は最近人気の高い魚の浮き袋で、この店では1斤(約600g)で1万円~4万5000円程度。右の鮑専門店では、貴重な超巨大干し鮑には1斤130万円以上の価格がついていた

 使い勝手の良さが光る「医療券」システムは制度として定着しているが、本来の目的である「近所の私立クリニックに小まめに通って健康維持してもらい、公立病院の負担を同時に軽減する」ことに役立つために、軌道修正が必要だ。現在、議論が活発になっているので、今後の動向に注目していきたい。


[出典]

※1  https://www.hcv.gov.hk “Key Statistics on the Elderly Health Care Voucher Scheme for 2015-2018”

※2 https://www.news.gov.hk/eng/2018/05/20180518/20180518_234310_338.html

(タイトル部のImage:筆者が撮影)