デジタルヘルスという言葉を目にすることが多くなったこの頃だが、イスラエルでは20年も前からヘルスケアデータをデジタル化し、利活用に向けた環境整備を進めてきた。現在、イスラエルでは蓄積されたヘルスケアデータの活用により、デジタルヘルス関連スタートアップが数多く生まれている。第1回となる本稿では、イスラエルでのヘルスケアシステム進化の歴史に触れながら、デジタルヘルススタートアップが急成長している背景について紹介する。

 イスラエルは第2のシリコンバレーとも呼ばれ革新的な技術ベンチャーが数多く生まれているが、一般的にはサイバーセキュリティや自動車関連技術あたりが盛んなのだろうというイメージが強いかもしれない。しかしながら、イスラエルには世界で最も先進的なヘルスケアシステムを持つ国の一つという側面もあり、この環境を背景にデジタルヘルス関連のビジネスも著しい成長を見せている。JETROのレポート1)によれば、イスラエルにおけるデジタルヘルスケア分野のスタートアップは2018年に76回の資金調達ラウンドで5億1150万米ドルを調達。2019年には8億2240万米ドル(64ラウンド、2019年12月末時点)と、前年の5割増の水準となっている。

 このイスラエルでの盛り上がりとは対照的に、日本企業によるイスラエルのデジタルヘルススタートアップとの提携事例はまだ多くはないが、筆者の肌感覚としてはイスラエル活用に取り組む日本企業の半分以上は関心領域としてヘルスケアを挙げている。もともとヘルスケアが本業の企業だけではなく、異業種参入による新規事業としてヘルスケアに挑戦する企業も含め幅広いセクターからイスラエルのデジタルヘルスに関心が寄せられている。

 また、日本政府もイスラエルのデジタルヘルスに注目している。「次世代ヘルスケア・システムの構築」や「健康寿命の延伸」を目指す政府方針に基づき、(日本の)経済産業省は2019年1月にイスラエル経済産業省との間でデジタルヘルス分野における協力覚書に署名した2)。日本政府がイスラエルとの間で何らかの技術分野で協力を交わした例としては、2018年11月のサイバーセキュリティ分野に次いでデジタルヘルス分野が二つ目となる。

20年以上前から医療記録のデジタル化進めシステムを構築

 イスラエルは国土の6割が砂漠であり、水や天然資源が無い“持たざる国”であった。そんな地理的背景から、限られたアセット・大きな制約の中でいかに知恵を使って価値を生み出していくかを考える起業家精神が根付いている。

図1●イスラエルの各HMOのマーケットシェア(2018年末時点)
(出所:国民保険局[National Insurance Institute of Israel]よりデロイト トーマツ グループ作成)

 他のエコシステムと比べてイスラエルのデジタルヘルスがなぜ強いのかを考えたとき、この起業家精神に加えて、活用可能なアセットであるヘルスケアデータの充実が大きな要因を占めているといえる。この環境はどのようにして作られてきたのだろうか。

 イスラエルにおけるデジタルヘルスへの取り組みをご理解いただくために、イスラエルの健康保険制度について軽く触れる。イスラエルにはHMO(Healthcare Maintenance Organization)と呼ばれる健康維持機構が四つあり、すべての国民の保険をカバーしている。各HMOは保険組合機能を持つだけでなく、医師をはじめ医療スタッフを雇用して実際に病院3)やクリニック、薬局などを運営している。

 各HMOのマーケットシェアは図1の通り。イスラエル最大のHMOであるClalitは5割を超え、第2位のMaccabiと合わせると全体の約8割を占める。

 この最大のHMOであるClalitが2001年頃から医療記録等に関するデジタル化の取り組みを始めた。紙を廃止し、診察や治療等の過程で生まれるヘルスケアデータをデジタル化した上で、これらのデータをClalitグループに属するクリニックや病院の間で共有できる環境を構築。この環境を実現するための技術として、イスラエルのスタートアップであるdbMotion社のシステムを採用した。このClalitの運用がうまくいったため、2011年末にはイスラエル保健省が他のHMOでも同じシステムを共通プラットフォームとして横展開することを決定した。このようにイスラエルでは世界中でデジタルヘルスというバズワードが叫ばれるようになる20年ほど前からデジタルヘルスシステムの整備に尽力してきた。

 これまで述べたシステムという“箱”の進化だけでなく、“箱”の中に入れるデータの質についてもイスラエルにはユニークな特徴があった。まず、イスラエルはユダヤ教を中心とする移民国家であり、150カ国を越える国々から移民を受け入れている。これによって他の国では考えられない水準の遺伝学的データセットのバラエティが生まれた。加えて、イスラエルでは米国と異なり生涯を通じてHMO間の移動が少なく、基本的には生まれてから亡くなるまでの長い時系列のデータが同一のHMO内で取得できている。HMO間の差別化が少ないこと、そして、所属しているHMOを変えると利用できる病院やホームドクターを変更せざるを得なくなるため、子供が生まれると利便性の観点から両親は自分と同じHMOに子供を加入させ、成人後にも他に移動する積極的な理由がない。

 以上まとめると、イスラエルでデジタルヘルススタートアップが急成長を遂げた背景は図2の通りで、起業家精神、ヘルスケアシステム、質の高いデータセットの三つがそろって今に至る。

図2●イスラエルでデジタルヘルススタートアップが急成長している三つの背景

3) HMOによって運営している病院の数は異なっており、Clalitは8、Maccabiは2、Meuhedetは1、Leumitは0となっている。Meuhedetが持つ1病院も小さなものであることから、日本企業が研究開発を目的としてHMOと提携し病院のデータを活用しようと思えば、提携先の選択肢が自然とClalitかMaccabiのどちらかに絞られることになる。

目的が治療か研究開発かで異なるデータ活用のアプローチ

 ヘルスケアデータの“共有”を語るときには情報管理の視点が欠かせないが、イスラエルでヘルスケアデータを活用する際には、その目的が治療なのか、研究開発なのかで“共有”のレベルが変わってくる。スタートアップやグローバル企業がプロダクト開発のために使用する場合は研究開発の扱いとなる。

 現在、イスラエルにある全てのクリニック・病院には、OFEKと呼ばれるヘルスケアデータの閲覧システムが導入されており、どの医師でも、HMOの垣根を超えて患者の過去の医療記録にアクセスが可能である。例えば、OFEKを使うことでClalitグループの病院で実施した血液検査の結果が、Maccabiグループの病院でも閲覧可能となる。このOFEKのポイントとしては、あくまで医師が治療目的のために使用し、閲覧したデータは治療後には自動的に削除され手元に残らないという点が挙げられる。現在は、OFEKの次世代版となるEITANの開発が行われているが、EITANでは人工知能の搭載により、過去の診断履歴等から今後注意した方が良いと思われる病気を自動で推定し、「早めにこの検査を受けて下さいね」などといったアラートを出すことも可能になる予定だという。

 一方、研究開発としてヘルスケアデータを利用する場合には閲覧のみではなく、分析可能なデータを入手しなければならない。これを行うためには、データを所有する機関との間で研究開発に関する協定を結び、個人が特定されない形でのデータ提供を受ける4)。データを提供する機関は、提供の対価としてライセンス料などを受けることが多いようだ5)

 ところで、研究開発目的でイスラエルのヘルスケアデータを活用する際にやっていいこと・やってはならないことはどのように定められているのだろうか。実は、現時点ではヘルスケアデータの扱いに関して制度化されたものはなく、2018年1月にイスラエル保健省から出されたメモ(ガイドライン)に基づく暫定的な方針が示されている状況である。正式な制度は数年以内に決定されるとのことだが、それまでの間はルールをガチガチには決めず、運用する中で適宜検討していくという“リーンスタートアップ”的なアプローチで制度づくりを行っている過程である。つまり、現時点では協定を結ぶ相手となるクリニックや病院などと個別に検討が可能という自由度がある。

イスラエルスタートアップによるヘルスケアデータ活用事例

 ヘルスケアデータが活用可能な形で整備されていることがイスラエルにおけるデジタルヘルスケアスタートアップ成長の背景だとすると、現在伸びているイスラエルのスタートアップは具体的にどこのデータを使っているのだろうか。CB Insightsが毎年発表している「世界で最も期待されているヘルスケア関連スタートアップ150選」の最新版6)によると、イスラエルのヘルスケアスタートアップは150社中4社ランクインしていた7)。この4社がヘルスケアデータの活用のためにどこと提携したのかを図3にまとめた。

図3●イスラエルを代表するデジタルヘルスケアスタートアップのヘルスケアデータにおける提携内容(出所:各種資料によりデロイト トーマツ グループ作成)

 例えば、Zebra Medical Visionは機械学習により医療画像から早期に異常を発見するソリューションを開発するスタートアップだが、開発に使用するデータはイスラエル最大のHMOであるClalitから医療画像の提供を受けている。

 これらの事例からも、各スタートアップはHMOあるいは大規模な政府系病院と個別にデータの活用に関する協定を結び、プロダクト開発に活用していることがわかる。

4) 個人情報をどのように捉えるかではあるが、個人が特定されなければ生データでも提供可能な場合はあると思われる。例えば、画像データの種類によっては画像だけから個人を特定が不可能という場合もあり、利用目的等が明確であれば生データを提供してもよいと考える機関もあるだろう。実際、後述するZebra Medical Visionの事例では、HMOから生の画像データの提供を受けている。

5) ここでは深堀りしないが、機関がデータを提供しその対価を受けることついて、ヘルスケアデータは誰のものかという議論が継続して行われている。基本的には患者側にはオプトアウトする権利が与えられているが、能動的にオプトアウトしない限りはデータが生成された機関(クリニック、病院など)がデータの所有権を持つという整理になっている。一次データ自体はデータが生成された機関(クリニック、病院など)にあり、HMOオフィスは中央管理的にその一次データのコピーを持っているわけではない。

6) Digital Health 150: The Digital Health Startups Redefining The Healthcare Industry

7) 正確にはイスラエル生まれのスタートアップは5社ランクインしているが、TytoCareは既に本社を米国に移しているためかCB Insightsの分析ではイスラエルのスタートアップとしてカウントされていなかった。

日本企業がイスラエルのヘルスケアデータを活用するには

 以上を踏まえ、日本企業がイスラエルのヘルスケアデータを活用したい場合は、実際、どのようなアクションを取り得るのか。アプローチは大きく分けて二つある。

(1) 既にイスラエルのヘルスケアデータを活用しているイスラエルのデジタルヘルスケアスタートアップと提携する

(2) 直接、HMO(の中でも特にシェアが大きいClalitかMaccabi)、あるいは政府系病院にコンタクトし、研究開発を目的としたデータ活用の協定を結ぶ

 上記の中でどちらを選ぶかは何を目的とするかによるが、一般的にはいわゆるオープンイノベーションの形である (1)が多いと思う。イスラエルには既に370を越えるグローバル企業の拠点があるとされており、これらの拠点の主なミッションは現地イスラエルスタートアップの探索となっている。

 日本企業は、多くの場合、研究開発行為をイスラエル現地ではなく、日本側で行うことがほとんどなので(2)のアプローチは取りづらいかもしれない。研究開発目的のためとはいえ、イスラエルのヘルスケアデータをイスラエルの国外に持ち出すのは許容されないためである。その一方で、先ほど述べた370を超えるグローバル企業の拠点の中にはスタートアップ探索に加えてR&Dチームをイスラエル国内に持ち、イスラエルのヘルスケアデータを活用したPoC(Proof of Concept/概念実証)をイスラエル国内で行っているグローバル企業も複数存在している。これらの企業はイスラエル国内でPoCを行う理由として、データセットとして質が高いデジタルヘルスデータがあることはもとより、データ解析に強い優秀な現地人材を活用できることもメリットとして挙げていた。

 筆者が勤めるDeloitte Israelではグローバル企業のニーズに合わせて上記二つのアプローチを含め、総合的な支援を行ってきた。特に最初の一歩を踏み出すのにハードルが高い日本企業には、日本とイスラエルをつなぐエージェントして柔軟な対応をさせていただいている。ちなみに、Deloitte Israel内にはイスラエルのヘルスケアデータを分析するチームもおり、政府系病院などに対して収益性改善や安全性向上をテーマとした支援プロジェクトを数多く提供している。

政府によるDigital Health Strategy策定でさらなる進化へ

 2001年から先行してデジタル化を進めてきたイスラエルだが、2016年に政府はヘルスケアシステムの刷新、および、イスラエルがデジタルヘルスケア改革のリーダーとなることを目指すDigital Health Strategyを発表し、2018年には約USD260Mの予算が承認された。5年間で実施予定のプロジェクトは省庁を横断する形で全25項目にわたる。

 中でも、大きな予算が当てられている項目はPsefas Initiativeと呼ばれる遺伝子データ解析を目的としたインフラ整備である。これは上述の整理でいうと、治療ではなく研究開発を目的としたものに当たる。政府はデータを所有しているHMOに任意でのデータ提供を依頼している。だが、HMOとしては、提出を求められているデータの種類が遺伝子データという取り扱いが繊細なものである上に、蓄積してきたデータを政府に提供するインセンティブが弱いこともあり、データの提供に消極的で、Psefas Initiativeへのデータ集約は現状ではまだ不十分のようだ。

 イスラエル政府はDigital Health Strategyを弾みとして、イスラエル全体のヘルスケアデータを集約・管理し、さらに次のステージへ進化させようとしている。それに伴い、スタートアップやグローバル企業として取り得るヘルスケアデータ活用のアプローチは日を追うごとに変わってくるだろう。ただ、現時点においてはあくまでデータを保有しているのは各HMOや病院であり、ヘルスケアデータの利用を希望する企業の目的に応じて組むべき機関を選ぶという形はしばらく続きそうに思われる。

 現時点では日本企業によるイスラエルのデジタルヘルススタートアップとの提携事例はまだ多くはないと書いたが、イスラエルのヘルスケアに関心を持つ日本企業は日を追うごとに増えている。長寿国日本とはヘルスケア領域における補完関係が期待できることもあり、イスラエル政府としても日本企業とのパートナーシップに大きな期待を寄せている(別掲記事参照)。

 連載2回目となる次回は、日本企業によるイスラエルのデジタルヘルススタートアップとの提携事例について、インタビューを交えながらご紹介する。


日本は最も重要なビジネスパートナーの一つ

イスラエル経済産業省 イスラエル投資促進局 ライフサイエンス部 部長 アヴィアッド・タミール氏

 イスラエル政府による「National Digital Health initiative(2018年3月)」、日本-イスラエル両政府による「デジタルヘルス分野における協力覚書(2019年1月)」などを受けて、日本企業によるイスラエルのデジタルヘルス分野における協業や投資への関心が増えつつあることを嬉しく思います。イスラエルへの理解の高まりとともに、日系企業がイスラエルをデジタルヘルス分野におけるグローバルリーダーの一つだと捉えていただける機会が増えているように実感しております。

 イスラエルのデジタルヘルスにおける強みとしてヘルスケアデータは重要な1要素ではありますが、イスラエルはただ単にデータを販売する相手を探しているのではなく、そのデータを活用して共にビジネスを創っていくビジネスパートナーを求めています。イスラエルは日本を最も重要なビジネスパートナーの一つと考えており、日本にとどまらずアジアへのゲートウェイとして、そして、ヘルスケアセクターだけでなくあらゆるセクターで協業させていただけることを期待しております。

 日系企業がイスラエルのデジタルヘルスと協業を行える余地は多く存在しています。イスラエル政府は、イスラエルのデジタルヘルスに関心をお持ちの日本企業をエスコートし、協業や投資機会をご紹介します。また、イスラエルにはグローバル企業に活用いただける助成プログラムが数多くあり、我々は日系企業が迷路に迷わないようその道案内として適切な政府支援策のご提案を行います。

(タイトル部のImage:筆者が撮影)