超高齢化が進む日本。元気で活動できる“健康寿命”の延伸が求められている。病気の早期発見や重症化予防のため、「特定健康診査(特定健診)・特定保健指導」や各種がん検診事業が行なわれているが、せっかくの取り組みも、受診率の低さが課題となっている。そうした現状に対し、ソーシャルマーケティングと行動経済学の手法を使い対象者の行動変容を促し、受診率を大幅にアップさせる取り組みをしているのがキャンサースキャンだ。

 「この3〜4年で予防への注目度は増している。というのも、高齢化が進む中で、医療費は増加の一途をたどり、もはや国の社会保障を持続させるには、医療費低減効果が期待できる予防を推進するしかない、との考えが主流になってきたからだ」と、予防医療ビジネスを行うキャンサースキャン社長の福吉潤氏は話す。

キャンサースキャン社長の福吉潤氏。慶応大学総合政策学部卒業、ハーバード大学経営大学院修了。P&Gでブランドマネージャとしてマーケティングを実践、2008年に同社を創業(出所:キャンサースキャン)

 実際、2018年11月に未来投資会議や経済財政諮問会議などが発表した「経済政策の方向性に関する中間整理」でも、成長戦略の方向性として「人生100年時代をさらに進化させ、寿命と健康寿命の差を限りなく縮めることを目指す。現役時代から自らの健康状態を把握し、主体的に健康維持や疾病・介護予防に取り組み、現役であり続けることができる仕組みを検討する」と記された。これは「これまで厚生労働行政の政策の一つだった予防が、国の経済政策のど真ん中になったことを端的に表している」と福吉氏。

 創業者の福吉氏がキャンサースキャンを立ち上げた2008年には、まだ予防はそれほど脚光を浴びていなかった。「日本人の死因にトップであるがんの多くは早期発見により助かるにもかかわらず、検診の受診率が著しく低い事実を知り、私の専門分野であるソーシャルマーケティングと行動科学を結びつけることで行動変容を促し、検診を受ける人を増やしたいとの思いから、会社を創った」と福吉氏は話す。

 現在、キャンサースキャンが行っているのは、自治体が行う生活習慣病予防のための「特定健診・特定保健指導」の受診率や実施率向上事業や、糖尿病などの重症化予防事業、適正受診・適正服薬介入事業、国保データベースを活用した医療費分析事業など。いずれもAIを用いた分析とマーケティングの手法を用いた介入や分析を行っているのが特徴で、それにより対象者の行動変容を促す。

 では、実際にはどのように行動変容させるのか。その柱となるのが、「ナッジ理論」。ナッジとは、そっと後押しする(nudge)ことを意味する。人の行動は不合理だという前提のもとに、選択の余地を残しながらより良い方向に誘導したり、最適な選択ができない人だけをより良い方向に導いたりするものだ。

 自治体では、特定健診やがん検診の受診率を上げるため、受診勧奨のハガキや文書を対象者に送付している。しかし、多くの自治体が行っている従来の勧奨方法では、なかなか受診率が上がらなかった。それを改善するためにキャンサースキャンが行った実際のケースは、次のようなものだ。

【Case 1】分かりやすいメッセージに変えただけで受診率が130倍に

 東京都内のある自治体では、過去5年間に乳がん検診を受けていなかった人に対する乳がん検診のお知らせの資材の表現を変えたことで、変更前のお知らせを送付したグループでは1500人中1人しか受診しなかったのに対し、変更したお知らせを送付したグループでは1489人中131人が受診し、受診率は約130倍にアップした。

 変更前のお知らせの特徴は次の通り。

①「マンモグラフィー検査とはどのような検査か」を説明すべきところが検査の方法になっていた。

②「乳房を圧迫」や「しこりの影がはっきり写る」など、ネガティブなイメージを想起させる言葉が並んでいた。

③申し込み方法や受診時期が強調されていないために分かりにくかった。

④発信者が自治体であることもわかりにくかった。

⑤検診を促すメッセージは「受けましょう」と弱い表現だった。

 これを、キャンサースキャンでは次のように変更した。

①マンモグラフィーは1万1000円と高価な検査であることを明記した上で、検診では1万円の補助が使えることを強調して記載。「高額な検査」=「正確な診断」との印象を与えるようにした。

②申し込み方法、受診時期を記載。

③発信者である自治体名をわかりやすく記載。

④文字の大きさやフォント、色や囲みなどで、最も伝えたいことを強調。

⑤検診へ促すメッセージを「受けてください」と強い表現にした。

 こうした結果、冒頭のような効果を得られた。「自治体が送るお知らせは、正確性を期そうとするために、情報を盛り込みすぎる傾向がある。そのため、受け取った人は何が重要なのか、必要な情報がどこに書かれているかが分からなくなる面がある」と副社長の米倉章夫氏。必要なメッセージを絞り、さらに強弱をつけることで行動変容を促した。

【Case 2】「失う痛み」が「得る喜び」を上回る心理を利用

 人は、「無料でもらえる、安く手に入る」ことよりも「自分が持っているものや一度手にしたものを失う」ことを回避する傾向がある。これは行動経済学のプロスペクト理論によるものだ。大腸がん予防では、毎年継続して検診を受けるのが望ましいが、この理論を利用した受診勧奨のお知らせにより、大腸がんリピート検診受診率が7.2%上昇した。

左は利得を強調、右は損失を強調したメッセージ。東京・八王子市の事例では、損失メッセージを受け取った人のほうが受診率が高かった(出所:キャンサースキャン)

 具体的には、大腸がん検診キットを送付後、受診していない人を2グループに分け、一方には「今年度大腸がん検診を受診された方には、来年度『大腸がん検診キット』をご自宅へお送りします」、もう一方には「今年度、大腸がん検診を受診されないと、来年度、ご自宅へ『大腸がん検査キット』をお送りすることができません」と記したお知らせを送付した。その結果、前者の受診率22.7%に対し、後者の受診率は29.9%だった。これは、「今まで無料でもらえていたはずのものがもらえなくなるのは」と思わせることで行動変容を促したケースだ。

【Case3】ビッグデータを解析、高効果期待できる対象者をターゲットに勧奨

 受診勧奨は有効だが、限られた自治体の財源の中では、費用対効果の高い勧奨が必要だ。そのため、キャンサースキャンでは過去の受診履歴データをもとに、より効果的に勧奨できる人を選定する方法も開発した。

 同社では、八王子市で大腸がん検診の過去の受診履歴データを分析。大腸がん検診の定期受診者、不定期受診者、未受診者の3グループに分け、さらにそれぞれのグループを検診のクーポンを送るグループ(勧奨あり)と、送らないグループ(勧奨なし)とに分けて、その後の行動を分析した。結果、定期受診のグループでは、勧奨のなし、ありでの受診率はそれぞれ87%と92%だったのに対し、不定期受診者では30%と54%、未受診者では2%と11%だった。これらの結果から、受診率の伸びが高く最も勧奨効果が高いのは不定期受診者だということが分かった。未受診者は対象者数が多く勧奨送付の費用が大きく、定期受診者は対象人数が少なく受診者数の増加が見込めないためだ。

 さらに、同様の手法を特定健診の不定期受診者対策にも応用している。自治体が持っている過去の受診歴や、性別、年齢など受診者属性のビッグデータから、AIで翌年の「受診確率」と「受診勧奨に対する反応確率」を算出。受診勧奨による効果が高い人たちをターゲットにお知らせを送るシステムも考案した。

 このほか、「各個人のリスク状況を分かりやすく伝えることで、受診率アップを図る試みもしている」(福吉氏)。八王子市の事例では、特定健診受診時の問診結果から、大腸がんのリスクを各人ごとに表示。「60歳以上」、「飲酒」、「BMI高い」、「運動不足」、「喫煙」、「検診の未受診」といった項目を表示し、当てはまるところにチェックをつけた上で、各項目のがん罹患に対する危険度も示している。これにより、受診率は9%から27%とアップしたという。

これからの健康管理ではデジタル化が必須、インフラ整備が急務

 こうした成功事例の積み重ねにより、自治体からの受注はここ数年で倍々で伸びているという。「2019年9月現在、全都道府県の計400自治体以上で事業を行っている」と福吉氏。

2016年2月に厚生労働省発行の『今すぐできる受診率向上施策ハンドブック」として、弊社の手法や実績がまとめられ、全国1741市町村に配布された(出所:キャンサースキャン)

 その背景の一つは、これまで各自治体がなんとか受診率を上げようと努力してきたのだが、なかなか成果が上がらず、「打つ手なし」と閉塞感が漂っていたこと。また、2017年から始まった保険者努力制度により、特定健診・特定保健指導の受診率やがん健診受診率などが公表されるとともに、それらが低い自治体(保険者)は後期高齢者支援金の供出金額を上乗せしなければならなくなったことも大きい。そのため、「キャンサースキャンが事業を行った自治体での成功事例を見た他の自治体が、自分たちも遅れを取りたくないと導入するケースが増えている」と福吉氏。

 今後、健診や検診の受診率を上げるだけでなく、その結果、精密検査や治療が必要になった時の適切な行動を促すには、より個別的なアプローチも必要だ。また、「今は紙ベースで行っている受診勧奨も、コストや効率を考えると今後はデジタル化が不可欠だろう。スマホのアプリを使えば、検診の予約や検診結果に基づくフォローアップなど、より低コストできめ細やかなマネジメントが可能になる。その試みの一つとして、約20自治体とLINEを使った健康管理の事業を始めている。今後はこうしたインフラ作りも進めて行きたい」と福吉氏は展望する。

(タイトル部のImage:patpitchaya -stock.adobe.com)