口によるパソコンの操作でデジタルアートを描くイラストレーターがいる。千葉県市原市に在住の前田健司さんだ。前田さんは頸髄損傷(C4完全麻痺)の障害がある。大分県別府市の専門施設でリハビリ中、「文書作成ソフトのWordで絵が描ける」ことを知り、独学で勉強を開始。それがライフワークとなった。写真の対象物に見える影に着目し、そこを単純図形を積み重ねながら色の層で描いていくという独特な方法を編み出した。作品はSNSを中心に「躍動感がある」と話題を呼んでいる。
「パラアスリートたちの活躍に心惹かれた」と語る前田氏。大手レコード会社・エイベックスの所属アーティストとして、同社所属のパラアスリートたちの公式イラストを描いたこともある。前田氏が描いたパラアスリートたちのイラスト群は、東京・有楽町マルイの「インクルージョンフェス in 有楽町マルイ 2021」(3月12~14日)でも展示され、好評を博したという。今は主に動画配信サイトを中心に、アートの喜び、そして障害の社会認知を広げるべく活動中だ。
日本が迎えつつある超高齢社会においては、身体に不自由さを抱えながらも生命を持続させ、生きがいを追求しようとする人々が増えるはず。前田氏の活動を通じて、近未来における人の生き方、やりがいの見つけ方、社会とのつながり方のモデルを見る。
「影の層」を積み重ねていく
前田さんの作品は口による特殊なマウスの操作、そしてWordの図形描画機能を使って描いているそうですね。特に近年の作品は、独特の色使いと描画線が特徴です。同じ系統の色が組み合わさり、それが独特の奥行き感を醸しているように感じます。
私がイラストを描く際に着目しているのは影です。典型的なやり方としては、まず絵を描くモデルの写真をパソコンに取り込みます。そしてコントラストなど画像調整の機能を使って、「この影はいいな」と思うような描きたい影を見つけます。その上で、単純な図形を組み合わせながら、「影の層」を積み重ねるように描いていきます。
影の層の輪郭はどのように決めているのですか。
写真を見ながら5つから7つくらいの影の層を見つけて、それぞれの層について図形を重ねるようにして描いていきます。層の数は対象物などによって変わってきます。例えば私は今、フィギュアコレクターの方のご同意を受けてフィギュアをモデルにした作品を作っているのですが、これは対象物の特性もあって、層の数は少なめです。
影を描く際には、「リアルだけれどちょっとリアルじゃない」といった雰囲気のイラストになるように意図しています。以前は曲線を使って描いていたこともあったのですが、(口によるマウス操作だと)時間がかかりすぎるので、あえて粗くするようにしているのです。描く対象や規模感にもよるので一概には言えませんが、完成させるにはやはり結構な時間がかかりますね。
Wordは口による操作がしやすい一方、画像専用ソフトのようにレイヤー分けの機能がありません。そこで、影の層はオブジェクトのグループ機能を使って分けています。動画配信サイトでは「Wordで描いているんですか」と驚きのコメントをもらうこともあります。
作品としての完成度を高める上で、意識しているポイントはありますか。
いくつかありますが、1つは対象物の特徴がうまく出るように意識しています。先にも触れましたように、私は対象物の影に着目しているのですが、その影の描写を通じて例えば、その対象物がより格好よく見えるように影の形や大きさを調整したり、モデルが女性であれば、その人の女性らしさが伝わる影のラインになるよう調整したりしています。
SNSで話題を呼ぶ
公開した作品がSNSで話題を呼び、そこから大手レコード会社であるエイベックスとの契約、商業施設の「有楽町マルイ」での作品展開催などにつながったそうですね。
最初はリハビリの一環として始めました。私は以前、妻が探して見つけてくれた大分県別府市の国立別府重度障害者センター(筆者注:厚生労働省の指定障害者支援施設)に入所して、リハビリに取り組んでいました。そこで口でも操作できるマウスの使い方を教わって、WordやExcelのスキル認定資格を取ったのです。
その時、施設に来ていたパソコン講座のスタッフの1人が、「Wordで絵が描けますよ」と教えてくれて。そこから、少しずつ絵を描き始めたんです。
最初に描いたのは、ネットで描き方が載っていたチューリップの絵です。次に、妻の誕生日に向けて絵を描こうと思って、単純な図形を組み合わせて、こんな感じで花束を描いたんです(筆者注:パソコンを操作し当時のイラストを示す)。娘には「アンパンマン」を描きました。ほかにも、アニメ映画「となりのトトロ」のトトロを描いてプレゼントしたら、娘はすごく喜んでくれましたね。
さらには妻と娘を題材にしたイラストっぽい絵にも挑戦してみました。こちらは、髪の毛の雰囲気が出るように工夫しながら描きました。家族を喜ばせたくて。本格的にデジタルアートに取り組み始めたのは、そこからですね。まったく独学です。
パラアスリートをモチーフにした作品は、前田さんの代表作ですね。有楽町マルイでの作品展には、パラアスリートの作品が数多く飾られていました。
パラアスリートを描き始めたきっかけはいくつかありますが、1つは、車いすバスケの大会ポスターの公募に応募してみたことでした。また、特に大きく心を動かされたのは、2012年に開催されたロンドンパラリンピックでした。車いすテニス選手である国枝慎吾選手など、多くの選手たちの活躍を見て、勇気づけられました。そこからパラスポーツ選手のイラストを描いていこうと思いました。
しばらくの間は公開することもなく、ただ描きたいという理由でパラスポーツ選手を描いていました。いくつも描いていたら、それを見た介護士さんの1人が「SNSで発信したらいいんじゃないか」とアドバイスしてくれました。そこからSNSのアカウントを作って作品を公開するようになりました。
パラスポーツ選手の姿を描いてSNSに投稿する際には、大丈夫かなと心配しながらも(笑)、ご本人のお名前をタグ付けして。また、併せてそのパラスポーツ種目の紹介を添えることも心がけました。たくさんの種目があるパラスポーツの認知度向上に、少しでも貢献したいという理由からです。
そうしたら徐々に反響の声をいただくようになりました。パラスポーツ関係者の方々とも少しずつご縁ができまして、アスリートご本人からもご連絡をいただくようになりました。SNSのプロフィール画像として使わせてほしいというご要望も複数いただきまして、これはうれしかったですね。
また、パラスポーツのコーチの方々からご依頼を受け、コーチの姿をモデルにした作品を制作したこともあります。そのうちのお1人が、パラノルディックスキーのコーチである荒井秀樹さんです。荒井さんの書籍『情熱は磁石だ パラリンピックスキー20年の軌跡、そして未来へ』(旬報社)の裏表紙にも使っていただきました。
パラスポーツ分野のご縁を通じて各所にご紹介をいただいた結果、エイベックスさんと契約することになりました。2017年11月から2020年9月末までの契約期間中は、同社所属アスリートの公式イラストを制作していました。
今はライブ動画配信サイト「Mildom(ミルダム)」(運営はDouYo Japan)で、制作風景を公開していらっしゃいますね。私が視聴した時、視聴者のチャットに対する前田さんの軽快な返答が印象的でした。
エイベックスとの契約が終了した後、これも人とのつながりでお声がけいただきました(筆者注:Mildomでの配信のスタートは2020年12月から)。今の活動の中心は、こちらですね。1日当たり約4時間、約3回に分けて動画の制作風景などを配信しています。
フォロアーも1000人(筆者注:2021年4月末時点)を超えました。応援の声をいただくと制作意欲がわきますね。コメントしてくださる人には私と同じ車いすユーザーの方もいらっしゃいます。皆さんのお悩みなども受けつつ、最近はチャット人生相談所みたいな雰囲気にもなっていますが(笑)。
アスリートたちの活動を伝えたい
今後はどんな活動をしていきたいですか。
動画配信に取り組むほか、引き続きパラスポーツを題材にした作品を描いていきたいという気持ちは大きいですね。制作活動を通じて、身体の制限を超えて可能性を広げていこうとしているアスリートたちの活動を、世の中に広く伝えていきたい。
ただ、モデルの写真集めをどうするかが課題となっています。写真家の方々がお持ちの権利のこともありますので、こちらは今は休止しています。私個人では分からないところもあり、何らかの良いやり方を見いだせればと思っています。
これとは別に、従来とは異なる題材で制作してみないかというご提案もいただいています。私の制作スタイルで対応可能なのかどうか、どのように進めればよいかといった点も含めて、検討している最中です。
人は皆、年齢を重ねれば身体の制約条件が増えてきます。日本は超高齢社会を迎えつつある中、人それぞれがどう喜びを見いだし、どう社会との関わりを持って生きるかというテーマに、焦点がより強く当たるようになると思います。障害がありつつイラストレーターとして日々の制作活動や暮らしを続ける中、人と社会の関わりについて何かご意見や感じるところはありますか。
皆様から私の作品や制作活動に注目していただいている要因の1つには、私が身体上の制約を持っているということは間違いなくあるでしょう。しかし私としてはそれもOKでして、作品づくりを通して障害や福祉・介護のことをもっと知っていただきたいと思っています。
私は以前、別府のセンターでリハビリ生活を続けていたのですが、この土地での生活はある意味カルチャーショックでしたね。車いすユーザーが当たり前のようにそばにいる感覚の土地なのです。
センターでのリハビリを終えるくらいの時期に、入所している人たちなど複数人で、センターの近くにある飲食店に行きました。私のような車いすユーザーは事前にお店に連絡しなきゃいけないと言ったのですが、結局、予約もせず普通にみんなでお店に行くことになったのです。するとお店の人は戸惑いもせず迎え入れて、固定イスをすぽっと外して席を用意してくれました。さらには「これ使いますか?」と介護向けの食器までも用意してくれました。
また、センターで出された最後のリハビリの課題が印象的でした。それは「1人でデパートに買い物に行って帰ってくる」というものです。1人でなんて無理でしょうと思ったのですが、スタッフは大丈夫だからやってみてくれと言いました。意を決して、私は自分で電話して介護タクシーを呼んで、デパートに行きました。心臓バクバクものでしたね。
デパートに入ると普通に店員が対応してくれて、私がこれとこれを買いたいのですがと依頼すると、普通に店内を案内してくれました。その時買ったのは、妻のネックレスと、娘のおもちゃでした。今、妻(筆者注:取材時に付き添った千佳子氏を見やりながら)が付けているのがそのネックレスです。
今でこそ施設などのバリアフリー化やユニバーサル対応は進んでいますが、人口の多い東京圏でも、そこまで普通に対応されることは少なそうですね。
私がいつも思うのは、まずは「心のバリアフリー化」が大事なんじゃないかということです。私もたまに買い物などで外出するのですが、スーパーマーケットに行くと、子どもたちが私のところに寄ってきて、車いすをじっと見て「ガンダムみたい」と言うのです。
私が乗っている車いすは、機能性はもちろんですが、最終的には格好いいという基準で選びました。だから私にとって子どもたちのそういう反応はすごくうれしいことなのですが、親御さんが変に気を回して、子どもの行動を抑えてしまう。
映画やドラマを観ていて気がついたことがあります。海外の映画やドラマだと、車いすユーザーが脇役やエキストラとして普通に映像に登場するのです。日本の映画やドラマだと、障害をテーマにしたストーリーであれば車いすユーザーが出てきますが、脇役などで普通に登場することは、まずないのではないでしょうか。
ただ、こうした介護や福祉にまつわる様々な事情や雰囲気は、私も当事者になって初めて知ることになりました。介護や福祉のことにもっと気軽に触れられる環境があると、この辺りの雰囲気が変わってきて、良い方向に進むのではないかと思います。
私は海でサーフィンをしている時に事故に遭って障害を持つことになりました。私はポジティブに物事をとらえる方ですが、事故から2年くらいの間はずっと「死にたい」とばかり言っていました。
けれども家族の支えもあり、イラストの制作活動を通じて従来は考えられなかったような人の縁ができました。作品づくりを通じて、いろいろな立場の人たちを応援していきたいですね。
(タイトル部のImage:patpitchaya -stock.adobe.com)