2000年に始まった介護保険制度だが、ペットの世話は介護保険サービスには含まれていない。ヘルパーさんに来てもらって犬の散歩はお願いできないのだ。また、グループホームや特別養護老人ホームなど介護サービスを提供する住居タイプの施設では動物を連れ込むことを禁止している事業所がほとんどだ。おかげでペットがいることで行き場を失う高齢者が多く存在する。こうした問題は、昨今のペットブームを鑑みるにつけ今後さらに深刻化することは間違いない。

 「文ちゃん、こっちおいで」

 車椅子を使う高齢女性が満面に笑みを浮かべて中型犬に手を伸ばす。呼ばれた当の文ちゃん、声の方向を確かめて寄っていき、頭を撫でられてご満悦の表情だ。

 神奈川県横須賀市にある特別養護老人ホーム「さくらの里山科」での日常風景だ。文ちゃんの愛称で呼ばれるのは柴犬まじりの雑種。本名は文福、施設の人気者である。

犬10匹、猫9匹がいる老人ホーム

 さくらの里山科にいるのる動物は文福だけではない。犬が10匹に猫が9匹の大所帯だ。

 施設長の若山三千彦氏に話を聞いた。

さくらの里山科施設長の若山三千彦氏(写真:末並 俊司)
さくらの里山科施設長の若山三千彦氏(写真:末並 俊司)
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 「さくらの里山科は立ち上げの当初(2012年)からペット同伴での入居が可能です。運営するのは社会福祉法人心の会です。同法人ができたのは約20年前。障害者の就労支援や高齢者の訪問介護、デイサービスの事業所を運営してきました。並行して8年前、法人としては初めての特別養護老人ホームの運営を計画。当初からペットの問題に着目していました」(若山三千彦氏、以下「」内はすべて若山氏)

ペットと住める特別養護老人ホーム さくらの里山科(写真:末並 俊司)
ペットと住める特別養護老人ホーム さくらの里山科(写真:末並 俊司)
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 施設は三浦半島の中程、自然豊かな環境にある4階建て、120床のユニット型特別養護老人ホームだ。

 ユニット型とは、10室ほどの個室がリビングやキッチンを取り囲むように配置した造りの施設だ。10室を1ユニットとして家族的な環境を意識しながらケアを行う。同施設は4階建ての各フロアに4つずつのユニットが配され、2階の4つが犬や猫と暮らせるユニットだ。

引き金になった悲しい出来事

 若山氏には忘れられない出来事がある。それはさくらの里山科がスタートする1年ほど前のこと。

 「うちの法人の訪問介護とデイサービスを利用して在宅で暮らしていた方がいらっしゃいました。80代後半の男性で、おひとり暮らしでした」

猫も9匹いる(写真提供:さくらの里山科)
猫も9匹いる(写真提供:さくらの里山科)
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 この男性には少なくとも10年以上生活を共にする飼い犬がいた。ひとりと一匹の生活は、男性にとってかけがえのないものだった。

 男性は認知症を患っており、介護サービスの助けがないと生活はできない状態だ。認知症が悪化すれば、いつかは自宅での生活に限界がくる。若山氏をはじめ、サービスを提供するスタッフの全員がそう考えていた。

 ただ、そのためにはペットの存在がネックとなる。男性は犬と離れて生活することを頑として承服しない。私企業の高級な介護付き有料老人ホームであればそうしたニーズに応えることも考えられるが、件の男性にはそんなお金はない。選択肢は比較的安価に利用できる特別養護老人ホームとなる。ただ、当時は動物といっしょに住むことができる特別養護老人ホームはなかった。

 「男性は、だんだんと認知症が悪化し、自宅の独り暮らしが難しくなってきました。ても、ペットのことだけは分かるんです。離れたくないと最後までおっしゃっていましたが、ついにおひとりでの生活が限界となり、泣く泣くペットを保健所に託したのです」

 とはいえ10歳以上の老犬だ。引き取り手が現れることはまずないだろう。となれば殺処分だ。男性は当時かなり重度の認知症になっていたが、飼い犬を手放すことがその子の死につながることだけは理解していた。伴侶とも言えるペットと別れ、施設に入居した男性は毎日を泣いてくらしたという。

 「結局、それから半年ほどで亡くなってしまいました。人生の最晩年をそんなふうに過ごすなんて、こんな辛いことはありません」

 こうした経験がペットと暮らすことのできる「さくらの里山科」の運営に生かされているのだ。同施設がオープンしたのは今から8年前、2012年4月のことである。

死を察知する看取り犬・文福

 19匹いる動物たちの中でも、ひときわ目立つのが冒頭でも紹介した雑種犬の文福だ。施設がオープンした当初からここで飼われている。動物保護のボランティア団体から紹介されて迎え入れたのだが、文福は殺処分の寸前に保健所から引き取られたという過去を持つ犬である。

 「野良犬として保健所に届けられ、ガス室に送り込まれる前日にお付き合いのあるボランティア団体の方が知らせてくれて、うちで引き取ることになったのです。そういう意味では、文福は死の淵を覗き込んだ経験のある犬なんです」

ユニット内でわがもの顔の文福(写真提供:さくらの里山科)
ユニット内でわがもの顔の文福(写真提供:さくらの里山科)
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 そうした過去を背負っているからなのか、文福は他にはない不思議な能力を持っている。

 「文福は、お看取りが近い方のことがわかるのです」

 特別養護老人ホームは原則として要介護3からでしか入居することができない。入居者は必然的に高齢で認知症や生活習慣病など様々な病気を抱えている場合が多い。そうしたこともあり、施設での看取りは珍しくない。

 先にも記したとおり、さくらの里山科の2階にある4ユニットは、猫や犬といっしょに暮らすことができる。同施設がオープンして2年ほど経過した頃、職員の一人こんなことをつぶやいた。

 ──文ちゃん、ご利用者が亡くなる寸前になるとそのベッドから離れないのよね──

 注意して見ていると確かに文福は人の死を察知することができるとしか思えないような行動を取ることがわかってきた。

 「亡くなる3日くらい前になると、その方のドアの前に陣取るようになり、1、2日前になるとベッドに上がって寄り添うようになるのです。誰が教えたわけでもないのに、本当に不思議なことです」

利用者のベッドに上がり込む文福。これはお看取りではなくただ甘えているだけ(写真提供:さくらの里山科)
利用者のベッドに上がり込む文福。これはお看取りではなくただ甘えているだけ(写真提供:さくらの里山科)
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 文福自身、保健所で死の間際を経験し、殺処分になる仲間たちの最期の叫びを間近に聞いたという経験があるからこそ、死に臨む者のことがわかるのだろう。施設のスタッフたちはそう口を揃える。

ケアの理念は「あきらめない福祉」

 介護施設を運営する若山氏のケアの理念は「あきらめない福祉」だ。

 高齢だから、認知症があるから、体力が落ちて日々の暮らしが不自由になったから。人は様々な理由で様々なことを諦める。これが重なれば生きている意味まで見失ってしまうことになりかねない。

 ペットは家族、またそれ以上の存在であることもしばしばだ。ペットロスが生きる気力を奪い去ることすらある。そうした不幸をひとつでも減らしたいと、若山氏はいう。

(写真:末並 俊司)
(写真:末並 俊司)
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 「動物たちの存在はご利用者さんにだけプラスなわけではありません。スタッフのやる気にもつながっている面があるのです」

 通常、ユニットタイプの施設は各ユニットに専任のスタッフをつける。毎日同じ人が家族的なケアをすることで利用者の安心感も増す。

 動物がいるユニットのスタッフはそこを希望して就職する人がほとんどだ。勢い定着率も高い。また、排泄物の処理や散歩などの日常業務が増えるのだが、これに不満を漏らすスタッフはいない。逆に楽しんでいる様子さえあるという。

 「負担は増えるのですが、負担感は増えない。そんなふうに言ってくれるので、こっちとしても助かっています」

動物と暮らす施設の必要性

 動物と一緒に暮らせる施設。いい事ずくめのように思えるが、公の施設である特別養護老人ホームでは全国でも珍しい。

 認可する側の自治体としては「なにかあると困る」というのが本音だろう。考えられるのは噛みつきなどの事故と衛生面の対応だ。だが、さくらの里山科ではそのどちらも問題になったことはないという。

 「ペットたちは適切に接していれば攻撃することはないし、排泄物の処理などはきちんと躾けをすればさほど手間ではありません。衛生面に関しては、清掃、消毒など介護施設としては日常業務です。こちらもあまり問題ではない。餌やりや散歩もボランティアさんなどの力を借りてやっています」

若山氏に散歩に連れて行ってもらう文福(写真:末並 俊司)
若山氏に散歩に連れて行ってもらう文福(写真:末並 俊司)
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 同施設のある神奈川県横須賀市は、動物の殺処分ゼロを掲げて努力を重ねてきた自治体だ。そうした背景もあってペットと暮らせる特別養護老人ホームの存在を見守っている。

 さくらの里山科の成功は大きな第一歩といえる。ペットと離れることで生活を質を下げる例を減らすため。飼い主と離れて行き場を失う動物たちを減らすため。同様の取り組みが広がることを願いたい。

(タイトル部のImage:出所はさくらの里山科)