「百薬の長」と言われたり「万病の元」と言われたり、酒が健康に与える利害は古くから議論されている。けれども、酒に含まれる「香り」についてはどうだろう。

その香りをいかに表現するかは日本酒好きの腕の見せ所。例えば「梅の花のような」「松葉のような」と描写され、時にはバニラやカラメル、ナッツにも例えられるように、日本酒の香りはさまざまな物や色、風景を想起させる。このことからも、香りは生理的・心理的に何らかの影響を及ぼすと推測できる。

月桂冠(京都市)の社内研究機関である月桂冠総合研究所は、主に吟醸酒に含まれる成分で代表的な「カプロン酸エチル」や「酢酸イソアミル」がヒトの心身に与える効果を検証し、これらの香りがリラックス効果(鎮静効果)をもたらすことを確認した。同社はこの研究成果を、香り高い日本酒の開発に生かす他、日常生活に“癒し”を与える手段としても応用していく。

吟醸香研究のパイオニアが香りの機能性解明に挑む

 1909年設立の「大倉酒造研究所」を前身とする月桂冠総合研究所は、酒造りの基礎研究やバイオテクノロジーによる新規技術の開発などに取り組む。日本酒の香りについても30年以上前から研究を続けており、1980年代後半、カプロン酸エチルや酢酸イソアミルなどの生成機構の解明に成功。この成果を基に、それらの香り成分を多く生産する酵母を選抜(育種)する技術とノウハウを蓄積してきた。

 同研究所が育種した菌株の中には、吟醸香を多く生産する酵母として日本醸造協会を通じて頒布され、全国の蔵元で活用されているものもある。最近では、香りの成分を多く生産する従来の酵母と比べて、さらに約2倍の生産能力を持つ酵母も育種するなど、研究成果は社内外でさまざまに活かされているという。

 ところが、この香りがヒトの心身にどのような作用を及ぼすのか、という具体的な働きについては「これまで研究されていなかった」(月桂冠総合研究所 副主任研究員の鈴木佐知子氏)。「香り高いお酒が支持されるのは、香りに人を惹きつける何かがあるからだろう」と考えた鈴木氏らは、香りが持つ機能を解明し「日本酒の香りの新たな魅力を明らかにする」ことを目指して、2016年に今回の研究に着手した。

写真1●月桂冠総合研究所による有効性評価試験。香りがもたらす心理的・生理的な効果を検証した。用意した質問に答えてもらう他、皮膚温度や瞳孔の収縮度合いの測定から自律神経活動への影響を調べた。右が月桂冠総合研究所 副主任研究員の鈴木佐知子氏(出所:月桂冠)

 その結果、カプロン酸エチルと酢酸イソアミルにストレスや不安などの感情を抑える心理的な効果と、副交感神経の活動を優位にする生理的な効果があることを確認した(写真1)。

吟醸香のリラックス効果を統合生理学の手法で検証

 日本酒の香りを構成する成分のうち、酵母が発酵する際に作り出す果物や花のような香りを「吟醸香」(ぎんじょうか)と呼ぶ。その主要な成分が、清酒酵母の脂肪酸合成経路において生合成されるカプロン酸エチルと、アミノ酸生合成経路から分岐して生合成される酢酸イソアミルで、それぞれ「リンゴのような華やかな香り」「バナナのような芳醇な香り」と表現される。

 今回の研究では、それらがヒトの心身にどのような影響を与えるのかを有効性評価試験で検証した。検証に当たっては、筑波大学大学院グローバル教育院教授の矢田幸博氏の技術指導の下、統合生理学の手法を用いた。

 被験者は、30・40代の女性18人。サンプルとして、空気と濃度15%のエタノール、カプロン酸エチルまたは酢酸イソアミル8mg/Lを15%エタノールに添加した溶液を用意した(写真2)。被験者にサンプルを嗅いでもらい、嗜好性(香りの好き嫌い)と心理的効果、生理的効果の3つの観点から評価した。

写真2●評価に用いたサンプルのイメージ。8mg/Lのカプロン酸エチルと酢酸イソアミルを15%エタノールに添加したサンプルを被験者に嗅いでもらった(写真:松田千穂)

 まず嗜好性は、Visual Analogue Scale(VAS)による評点尺度法で調べた。カプロン酸エチルと酢酸イソアミルは「香りの好ましさ」「癒される香り」「優雅な香り」「リラックスする香り」の評価点がほぼ同じ値だったが、カプロン酸エチルの方が全体的に強い反応が示され、「華やかな香り」「フルーティな香り」「甘い香り」の3項目では、評価点が高いことが分かった。

 心理的効果については、香りを嗅ぐ前後での感情の変化を多面的感情尺度の計測で、気分の変化をVASで調べた。抑うつ・不安、敵意、感情の昂り、緊張感(集中)、ストレス、欲求(意欲)といった感情や心理状態が、カプロン酸エチルまたは酢酸イソアミルを嗅いだ後には有意に低下していた(図1)。

図1●吟醸香成分を嗅いだ前後の感情・心理状態の変化。カプロン酸エチルまたは酢酸イソアミルを嗅いだ後は、気分が安らぐことが分かった(出所:月桂冠)

 生理的効果は、瞳孔の対光反応と皮膚温度で測定した。このうち瞳孔対光反応は、光に反応して瞳孔が一過性に収縮する反応。眼球の筋肉は自律神経の活動に支配され、リラックス状態では副交感神経が優位になるため、縮瞳率が大きくなるという*1。皮膚温も自律神経活動に支配され、リラックス状態では抹消血管網が拡張。血流量が増えるのに伴い、皮膚温も上昇する。

*1 縮瞳率=〔光照射前の初期状態の瞳孔径(D1)-光照射後の最小瞳孔径(D2)〕/D1

 測定の結果、吟醸香成分を嗅ぐと、空気やエタノールだけを嗅いだときに比べて縮瞳率が高まり、副交感神経の活動が優位になっていることが分かった。また、サンプルのうち酢酸イソアミルを嗅ぐと、空気やエタノールを嗅いだときに比べて皮膚温が上昇(図2)。

 一方で、カプロン酸エチルを嗅いでも皮膚温の変化は認められなかった。これらの結果から、酢酸イソアミルには交感神経活動を抑えることで副交感神経活動を高める作用があり、カプロン酸エチルは直接的に副交感神経活動を亢進させている可能性があると推測される。

図2●酢酸イソアミルを嗅いだ後の皮膚温度の上昇。エタノールのみを嗅いだ後に比べて皮膚温度が上昇した。一方、カプロン酸エチルを嗅いだ後には同様な傾向は認められなかったことから、酢酸イソアミルには交感神経活動を抑える効果があるとみられる(出所:月桂冠)

 こうした結果から、吟醸香がヒトの心身に高い鎮静効果をもたらしていることが明らかになった。同研究所は、香りによって心身のリラックスを得られることが、香り高い日本酒が好まれる理由の1つだとみる。

リラックス効果を付加価値にしてファン層を拡大へ

 では、月桂冠は、これらの研究成果をどのように活用・展開していくのか。1つは、新製品の開発だ。同社が持つ育種・生産技術によってカプロン酸エチルや酢酸イソアミルの濃度にバリエーションを持たせれば、消費者は香りの好みに合わせて製品を選べるようになるかもしれない。

 さらに、リラックス効果という吟醸香の機能性を情報として提供できれば、製品の付加価値が高まる。インターネット調査によると、自宅で飲酒するときの気分で最も多いのは「リラックスしたい」だという*2。このことからも、家で飲酒する人に向けてはリラックス効果が訴求材料になると考えられる。

*2 2018年、マイボイスコム「お酒の飲用に関するアンケート調査」

 既に同研究所は、カプロン酸エチルを大量に生産する酵母を育種し、従来の約2倍の濃度でカプロン酸エチルを含む日本酒を量産することに成功している*3。カプロン酸エチルを多く生産する酵母は通常、「カプロン酸エチルの生産を促す遺伝子」と「通常の遺伝子」が対になっているが、同研究所は「カプロン酸エチルの生産を促す遺伝子」同士が対になった菌株を見出し、選抜した。

*3 2020年3月26日付、月桂冠のニュースリリース

 この成果を活かしたのが、同社が2020年4月にリニューアルして発売した「THE SHOT」シリーズの「華やぐドライ 大吟醸」だ(写真3)。カプロン酸エチルが増えたことで、青リンゴや洋ナシのような「フレッシュでフルーティな香り」(月桂冠)が高まったとする。

 加えて、できあがった酒が熱に触れる時間を縮めるなど製法も見直し、香味の保持にも配慮した。同時にリニューアルした「艶めくリッチ 本醸造」も、「完熟果実のような甘くとろける香り」(同社)を特徴とする。甘みと酸味のバランスを工夫して「果汁感」を実現した他、通常よりも仕込みを多く重ねることで甘みを引き出したという。

写真3●「THE SHOT」シリーズの「艶めくリッチ 本醸造」(左)と「華やぐドライ 大吟醸」(右)。気軽に持ち運べて自分のペースで気軽に楽しめる」をコンセプトに、手のひらに収まるサイズのボトルと再度の閉栓が可能なスクリューキャップを採用している。リニューアルでは、香りの進化に加えて甘味と酸味のバランスなども見直した(出所:月桂冠)

 リニューアル後の販売に当たって同社は、華やぐドライにはチョコレートと、艶めくリッチはチーズケーキと相性が良いと紹介し、日常の生活だけでなくスイーツやフルーツと組み合わせて楽しむことを提案(写真4)。「夜のリラックスタイムでの飲用におすすめです」とアピールする。

写真4●「THE SHOT 艶めくリッチ 本醸造」とチーズケーキのペアリング。リラックスタイムでの飲用を想定し、チーズケーキとの組み合わせを提案する(出所:月桂冠)

 併せて同社は、吟醸香の機能性を広く伝えるために、「日本酒の香りで癒しのひとときを」と題したスペシャルサイトをホームページ上に開設(写真5)。研究成果と共に、吟醸香の楽しみ方を掲載した。

 例えば、ドライフルーツやアイスクリームなどスイーツと組み合わせる、白身魚や豆腐と組み合わせる、入浴時に湯に入れる、といった具体的な楽しみ方を挙げ、酒器選びのコツも紹介している。同社が実施したアンケートによると、アルコール飲料を飲む時間は夕食中や夕食後が多く「シーンやタイミングが限定されている」(同社)。新たなペアリングや活用シーンの提案を通して、日本酒を飲む機会と消費者層の拡大を図る。

写真5●スペシャルサイト「日本酒の香りで癒しのひとときを」のトップページ。研究成果や食べ物とのペアリング、製品情報などをまとめている(月桂冠のホームページのスクリーンショット)

社外とのコラボで新たな用途も探る

 国税庁の統計では、成人1人当たりの酒類消費数量や課税移出数量(国内出荷数量)は減少傾向にある*4。日本酒(清酒)も同様で、その国内出荷数量は、2008年度(約65万kL)から2018年度(約49万kL)の10年間で25%減少している。その一方で、純米酒や純米吟醸酒の国内出荷量は、2008年度(約8万2000kL)から2018年度(約11万3000kL)で37.8%増加。清酒製造業における出荷金額の単価も上昇しており、国税庁は「高付加価値商品の需要の高まりを表す」と分析している。

*4 2020年3月、国税庁「酒のしおり」

 さらに海外に目を向けると、日本酒を含めて日本産の酒類は評価を高めており、日本酒の輸出金額は10年連続で過去最高を更新してきた。政府も、制度でこの動きを支援。2019年に発効した日本・欧州連合(EU)の経済連携協定(EPA)では、EU側が清酒の関税を即時撤廃した。国際的なプロモーションや訪日外国人向け「酒蔵ツーリズム」の支援など、認知度の向上やブランディングによる輸出促進も進んでいる。

 月桂冠も当然、海外市場の開拓を強化することになるが、その際、吟醸香がリラックス効果をもたらすという科学的な裏付けが武器になりそうだ。例えば、アロマテラピーが根付く欧州では吟醸香の機能性が理解されやすく、香りの良さと心理的・生理的な機能性が付加価値になると推測できる。

 社内や業界内で研究を活かす他に、異業種とのコラボレーションの可能性もある。参考になりそうなのは、花王との共同研究により染毛料の原料を開発した経験だ。

 麹菌の有用遺伝子を解析する中で同研究所は、酒粕に黒い斑点を生じさせる「黒粕現象」の原因の解明に取り組み、米麹などで特異的に発現する遺伝子「チロシナーゼ遺伝子」が作り出す着色成分「ジヒドロキシインドール」を見つけ出した。日本酒の醸造においては“悪者”だったこの麹菌チロシナーゼを、同研究所と花王は白髪ケアに応用。麹菌チロシナーゼ遺伝子を用いてジヒドロキシインドールを工業的に生産する技術を開発し、染毛料の原料として安定して利用できる方法を検討した。

 共同研究を基に花王は、ジヒドロキシインドールで徐々に白髪を黒く色付ける「サクセス ステップカラー」(2009年)や「リライズ 白髪用髪色サーバー」(2018年)を製品化している。低分子化合物であるジヒドロキシインドールは、毛髪の表面付近で集合体を形成しながら、表層に定着する。そのため毛髪には直接作用せず、毛髪や頭皮に与えるダメージが少ないという特徴を持つ。さらにこれらの製品は、無香性でツンとしたにおいがしない、頭皮に付いても着色しにくいのも利点だとする。

 発想の転換により“悪者”をうまく活かしたこの例のように、異業種との連携は「思いがけない用途に気づかせてくれる」(鈴木氏)。カプロン酸エチルや酢酸イソアミルがもたらすリラックス効果についての発表は、日本農芸化学会の2020年度大会で「優秀発表」に選ばれるなど注目を集めている。地元行政も興味を持ち、ある産業と協業できないかとアイデアを寄せたという。「我々の手(酒造分野)を離れた所で、意外な役立ち方があるかもしれない」と、鈴木氏らは異業種との出会いに期待を寄せる。

(タイトル部のImage:Beyond Healthが撮影)