2020年7月、政府の観光戦略実行推進会議で、議長の菅義偉官房長官(当時)が「国としてワーケーションに取り組む」趣旨を述べ、産業界で話題になった。施策の中身は、コロナ禍に苦しむ観光地支援の色合いが強い。その一方で、オフィスや家に続く「第三の場所」として田舎やリゾート地に世間が注目する流れには、一種の必然性を感じさせる。

実際、感染を抑えるべく国を挙げて「三密回避」が推奨され、都市部のビジネスパーソンからは「リモートワーク疲れ」の声も聞こえている。感染リスクを抑えつつ、気持ちよく働き続けるためのオプションとして、ワーケーションを考える向きが増えてもおかしくない。

翻って、産業界では「健康経営」に注目が集まっている。経済産業省では社員の健康増進に取り組む企業を表彰する「健康経営優良法人」制度を進めている。2014年にスタートしたこの制度は今年6年目に突入。例えば大規模法人部門の認定法人数は2017年は235だったが、2020年には1476へと増加。健康経営のコンセプトが産業界で受け入れられつつあることを示している。この「ワーケーション」と「健康経営」の組み合わせについて考える事例を、2回に分けて追う。

 ワーケーションと健康経営に絡んだ文脈で、参考になるデータがある。「森林環境下でのリモートワークはワーカーの生産性を高める可能性がある」ことを示唆したものだ。データを示した実証実験の名称は、「脳波測定による、自然体験が寄与する企業経営課題解決への実証実験」。NPO法人Nature Serviceが長野県信濃町の委託を受けて、2016年度から2年半をかけて実施した。2019年2月に結果を公開している。

 森林が人の心身に与える効果は、感覚的には多くの人が同意するところだろう。海外では複数の研究結果があるものの、国内では科学的に検証されたデータが十分ではなかった。医療専門家と協力して見出したエビデンスは、健康経営に取り組む企業にとって参考になりそうだ(実証実験とのその結果の概要は次回記事に掲載)。

 「森林の効果を産業界に広く訴えていくためには、科学的なエビデンスが必要だった」と語るのは、Nature Service共同代表理事の赤堀哲也氏。Nature Serviceは企業や団体向けに自然体験のコンサルティングサービスやイベントの企画・開催などを手がけている。

施設の外観。施設内のどの場所からも緑を眺められるように、壁一面のガラス窓を設けた(写真提供:Nature Service)
施設の外観。施設内のどの場所からも緑を眺められるように、壁一面のガラス窓を設けた(写真提供:Nature Service)
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 主要事業の一つが、長野県の高原でワーケーションが実践できる施設「信濃町ノマドワークセンター」の運営だ。信濃町ノマドワークセンターは地元・長野県信濃町と共同で開設した。法人向けに貸し切り型で提供するリモートオフィスで、利用したいタイミングで利用したい期間を契約して使う「FaaS(Facility as a Service)」を打ち出す。

森と一体化した施設でワーケーション

 設備の特徴はいくつかあるが、最大のポイントは壁一面のガラス窓。「施設内のどこからでも、施設を囲む森林がよく見えるようにした」(赤堀氏)。セミナーも行える大部屋は40人が収容可能な広さ。無線LAN、コピー機、スキャナーなど、仕事に必要な基本的なスペックも備えており、「ノートPCを持ち込めばすぐに仕事ができるような体制が整っている」(同氏)とする。

ノマドワークセンターの内観(写真提供:Nature Service)
ノマドワークセンターの内観(写真提供:Nature Service)
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 ハードウエア分野の企業の利用も想定し、3Dプリンターや工作機械が利用できるメイクラボも併設した。敷地内にある森、傾斜地、草原、池、畑、道路は、ロボットのテストフィールドとしても利用できる。「ハードウエア系のハッカソンなどにも使っていただける」(赤堀氏)。

 もう一つの特徴は、法人向けの貸し切り施設であること。「新商品の企画など、セキュリティ性が求められる業務も安心してこなせる」(赤堀氏)。地方でも自然環境や景色を打ち出したリモートワークやコワーキングスペースが存在するが、貸し切り施設ではないことが多いという。第三者が出入りする余地があると、業務の中身は限定せざるを得ない。

 ノマドワークセンターでは、滞在プランに自然体験プログラムを盛り込むことを提案している。Nature Serviceでは基本的に週単位での利用を推奨しているが、例えば平日5日間のうち2日間、午後の一部時間帯を、ネイチャーガイドによる森林セラピーや近隣にある野尻湖でのウォータースポーツ体験に充てるといった格好だ。施設自体はもちろん自然の中に建っているが、より深く自然の中に身を投じることで「ワーケーションならではの滞在体験をしていただく」(赤堀氏)ことが狙いである。

 このようなコンセプトの法人向けワーケーション施設はまだ珍しい。そのためNature Serviceはこの5月、小泉進次郎環境大臣からの要請を受け、ワーケーションに関する意見交換をしたという。

 ノマドワークセンターのオープン期間は、冬以外の5月から11月。企業や団体からの利用予約が複数入っていたが、この4月における政府の緊急事態宣言、そして東京都による移動自粛要請を受けてキャンセルが相次いだ。

 しかし、コロナが流行る前に利用した企業や、三密を避けつつ見学に来た企業や省庁・団体職員からの反響は上々で、コロナ感染拡大が落ち着けば利用したいという声が相次いでいるという。赤堀氏は「見学に来られた方はおしなべて目をハートにして帰っていく。コロナ禍で厳しい状況ではあるが、森林というコンテンツの威力を改めて実感した」と語る。

 同施設の利用者の声を聞くことができた(Nature Serviceが9月10日に開催したオンライセミナーでの発言の主旨を筆者がまとめた)。

 企業向けのITサービスを提供しているHENNGEに勤務する水谷博明氏(Digital Intelligence Section / Section Manager)は、「自然の中に身を置くと、その後仕事の生産性が上がるという実感は前からあった。ここ(ノマドワークセンター)を体験すると、それを改めて感じさせる」と語る。「窓から外の山を見るだけで思考がリセットされ、思考の整理を促している感じがある。仕事場から遠くを見るなんてことは、都会ではめったにない。これは貴重だ」(水谷氏)。

 IT企業・Bizerの創業者で代表取締役を務める畠山友一氏は、「ノマドワークセンターに来て営業企画を考えている時に気がついたことなのだが、おおらかな気持ちでポジティブに発想している自分を発見した。気持ちのゆとりは、仕事のアウトプットの質に大きく関わるように思う」と語る(なお同社は2019年1月にパーソル プロセス&テクノロジーに株式譲渡、畠山氏は同社のワークスイッチ事業部営業統括部部長を兼務している)。

 環境省の三宅悠介氏(健康自然環境局国立公園課課長補佐)は、推奨プログラムの1つである森林セラピーを高く評価する。「当然、プロのネイチャーガイドに料金を支払うことになるが、それに見合う価値が十分にあると感じた」(三宅氏)。赤堀氏は「ガイドは相手の状態を推察しながら紹介するポイントを選択する。森や林の各部それぞれにリアリティがある。理解が深まれば、自然の中にいることがより楽しくなるはずだ」と添える。

発端は社員のメンタルヘルス問題

 Nature Serviceの赤堀氏はWebマーケティング企業やロボティクス分野の企業も経営している。その経営者の立場からも、自然体験は重要だと語る。

 「社員たちと一緒に自然に遊びに行ったとき、帰りの車内でしゃべる雑談の内容が明らかにポジティブに変わったのを感じた。社員の雇用と健康を預かる経営者としても、自然の有用性は常々感じている」(赤堀氏)。

 信濃町ノマドワークセンターに至る源流は、社員のメンタルヘルス問題だったという。赤堀氏は「過去の一時期、社員がメンタルヘルスにかかり、経営者としてどうしたら良いかと悩んだ」と打ち明ける。

 その一方、赤堀氏は心身の調子を崩すことはなかった。別の社員から「社長(赤堀氏)が忙しくてプレッシャーにさらされていても健康なのは、時間を作っては自然の中に足を運んでリフレッシュしているからではないか」と指摘され、一理あると調べ始めた。すると、海外では自然環境と人間の健康に関する研究事例が複数存在し、森林浴などの効果を測定したデータが公開されていることを発見した。

 そこで、都内のビジネスパーソンを対象に気軽な自然体験を提供する事業を手がけようと、2013年に仲間と共にNPO法人Nature Serviceを設立した。当時はアウトドアに対するハードル感が今よりも高く、知識がある人だけが行くというニュアンスが強かった。

 自然体験サービスやイベントの開催を進める中で、信濃町が所有するキャンプ場の再生に携わることになった。集客にはWebマーケティングのノウハウを、東京ドーム1.8個分の敷地内にある施設管理にはIoT(モノのインターネット)のノウハウを適用し、2019年のゴールデンウィークは累計で1600人泊以上を集客した。

 森林環境下における脳波測定の実証実験は、自らが感じている自然体験の効果を検証したいという思いと、「経営層に提案するためにエビデンスがほしい」という企業の担当者の声を受けて実施したものだ。「経営者は、いくら社員の心身の健康に良さそうだと感じても、やはり投資対効果を気にするものだ。そのため企業の現場担当者としては、科学的に検証されたデータがあれば説得しやすい」(赤堀氏)ためである。

「コロナの時代」に合ったプランを検討

 課題はコロナ感染のリスクが残る中で、どのように利用を進めていくか。Nature Serviceは地元の長野県信濃町や企業と協力しながら新しいプランを検討しプロモーションしていくという。一例が、1カ月間施設を契約し、その間に社員が入れ替わり訪問して利用するという「お試しサテライトオフィス」プランだ。社員同士が密にならないようタイミングをずらしながら来訪し、ワークスペースを使うという利用形態を想定している。

 食事は地元の飲食店から届けられるケータリングとなる。宿泊機能はノマドワークセンターにはないので、地元の宿泊施設を使う。いずれも業界団体などの感染防止ガイドラインに沿って準備されているという。「しかるべく対策を講じながら、引き続き森林という強力なコンテンツを押し出していく」(赤堀氏)。

 一方、企業側の就業規則などの問題もある。政府も注目し始めたものの、日本全体で見ればワーケーション自体は極めて新しい就業スタイルである。「企業によっては、仕事と休暇を同じ日に組み合わせることが就業規則と相容れないケースもある」(赤堀氏)という。こちらは企業側の制度拡充が待たれるところだ。

 新型コロナウイルスは、産業界に期せずしてリモートワークを促すことになった。だが、急場しのぎで始まったテレワークが長く続き、いわゆる「テレワークうつ」の問題も指摘されている。かと言って十分な感染対策をしないまま、従来型のオフィスを使うわけにもいかない。内外様々な課題が噴出する中、働き方についてこれほどに問題意識が高まった時代はなかったはずだ。

 新型コロナ、観光地支援、在宅ワーク疲れなど、様々な要素が絡み合って玉突き式に注目が集まっているワーケーション。森林などと絡めば健康経営にも通じるものがある。この健康経営とワーケーションの組み合わせがどのように発展していくのか、月並みな言い方ではあるが注目に値するトピックだ。 

(タイトル部のImage:patpitchaya -stock.adobe.com)