ここ数年、東京・日本橋が、医療系のスタートアップが集う「産業クラスター」として、注目を集めるようになっているのをご存じだろうか。人呼んで「日本橋バレー」。仕掛け人は、創業の地である日本橋で新たな街づくりに取り組む三井不動産だ。

日本のライフサイエンスにおける研究開発環境への貢献を通じて「産業創造」を目指す同社は、ライフサイエンスの東西の集積拠点である東京・日本橋と大阪・道修町を中心とする一帯で、ヘルスケア関係の企業・団体向けに「場」を整備する一方、これらプレーヤーの「コミュニティ」の構築に力を入れ、イノベーションの創出と産業創造に向けたエコシステムの構築に挑んでいる。取り組み開始から約5年半。プロジェクトの経緯と今後の事業展開を追った。

日本橋エリアに多数のスタートアップを誘致

 三井不動産がライフサイエンスの産業創造に取り組み始めたのは、創業の地として街づくりを進める東京・日本橋で産業の活性化を支援できないかという発想からだ。日本橋は多くの医薬品会社が立地する街。江戸時代には薬種商が集まり、関東の薬品取引の中心だった地の利もあり、テーマには自然とライフサイエンス分野での産業創造が据えられた。

 まず手掛けたのが、不動産会社の本業と言える「場」の整備。日本橋一帯では2021年9月現在、「ライフサイエンスビルシリーズ」と名付けた賃貸オフィスビルやカンファレンスルームなど15拠点を展開し、企業・団体の集積を促す。ライフサイエンス・イノベーション推進部長の三枝寛氏は「当社保有ビルを主軸としたリノベーション工事により、需要に応じた拠点展開が可能」と、同社の強みを訴える。

 これらの「場」には、オフィス家具をはじめとする備品を備えたサービスオフィスと一般的な賃貸オフィスの2タイプの他、オープンイノベーションには欠かせないカンファレンスルームやコミュニケーションラウンジが用意されている。

 拠点ビルに入居する企業にはライフサイエンス分野のベンチャーが多くを占め、その数は81社(2021年10月末現在)。このようなライフサイエンス系ベンチャー企業を対象に、ベンチャーキャピタル(VC)が組成するファンドへの投資を通じ「資金」の提供も行っている。「ベンチャー育成・支援の環境を整えるVCを支援するのが狙いで、投資対象の成長は将来的に当社で提供する拠点の利用にもつながる」(三枝氏)。

2020年、日本橋10カ所目の拠点として開設された、日本橋室町三井タワーの「GLOBAL LIFESCIENCE HUB」
2020年、日本橋10カ所目の拠点として開設された、日本橋室町三井タワーの「GLOBAL LIFESCIENCE HUB」
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事業の鍵を握る「コミュニティ」の構築

 ライフサイエンスのプレーヤーを集めることができた一番のポイントは、企業・団体同士の「コミュニティ」構築を伴ったことだ。同社ライフサイエンス・イノベーション推進事業では、(1)「場」の整備と、(2)「資金」の提供に加え、(3)「コミュニティ」の構築を事業の推進エンジンと位置付けている(下図)。(3)の役割は、ライフサイエンス・イノベーション・ネットワーク・ジャパン(LINK-J)が担っている。

 LINK-Jは2016年3月、三井不動産と産学の有志が中心になって立ち上げられた一般社団法人。日本橋エリアを拠点として、産官学連携によるライフサイエンスのオープンイノベーションを促進し、新産業の創造を支援することを目的としてつくられた。LINK-Jに参加している企業・団体・個人は2021年11月現在、497に上る。冒頭紹介した15拠点にオフィスを置く企業や団体はLINK-J特別会員である。

 LINK-Jが提供するのは、ライフサイエンス領域のプレーヤーの「交流・連携」を目的としたイベントや、「育成・支援」を目的としたプログラムの企画・運営である。イベントについて言えば、2021年こそオンライン開催が中心だったが、新型コロナウイルス感染症の感染拡大が始まる前は、リアルな場でのイベントが1日1回以上開催され、会員のネットワークづくりが活性化していた。イベントや交流における集まりやすさも、日本橋の活況につながったわけだ。

 取り組みの成果として、日本橋発の有力スタートアップも生まれてきている。例えば、2017年5月に日本橋で創業したヘルステック企業のUbie(ユビー)。同社は、医療機関向け人工知能による問診システム「ユビーAI問診」や、一般ユーザー向けの受診相談アプリ「ユビーAI受診相談」などを提供している。LINK-Jが提供する育成・支援プログラムの参加企業で、本社オフィスは現在も、「15拠点」の1つに置いている。

ライフサイエンス・イノベーション推進事業の骨子。三井不動産は「場」の整備と「資金」の提供を手掛け、LINK-Jは「コミュニティ」の構築を担う
ライフサイエンス・イノベーション推進事業の骨子。三井不動産は「場」の整備と「資金」の提供を手掛け、LINK-Jは「コミュニティ」の構築を担う
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三井不動産ライフサイエンス・イノベーション推進部長の三枝寛氏とLINK-Jプロデューサーの境夢見氏
三井不動産ライフサイエンス・イノベーション推進部長の三枝寛氏とLINK-Jプロデューサーの境夢見氏
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幅広いネットワークによるオープンイノベーション

 LINK‐Jについて、もう少し詳しく見ていこう。LINK-J事務局長を兼務する三枝氏は「ライフサイエンス分野でオープンイノベーションを目的に集う『コミュニティ』はこれまでなかった。LINK-Jではそうした『コミュニティ』を構築できている。会員数は500程度だが、情報発信用メーリングリストの登録者は桁違いに多く、海外の学界や団体ともネットワークを結んでいる」と胸を張る。

 今は勧誘なしに会員が入会している状況。「LINK-Jの立ち上げ2年目から、『コミュニティ』の持続性に自信を深めた」(三枝氏)。

 そのことは、イベントの主催者にも表れている。例えば2020年の1年間で実施されたイベントは357あるが、LINK-J主催・共催のものは56にすぎない。イベントの多くは会員主催で240。それに次ぐのがLINK-J協賛・協力で61を数える。つまり、イベントの8割超は「コミュニティ」側から自発的に実施されているものだ。

 LINK-Jが主催共催するイベントの多くは、LINK-J側への相談というアプローチから開催に向けて動き出す。プロデューサーを務める境夢見氏は「LINK-Jにイベントの企画を持ち込めば、多岐にわたる『コミュニティ』に情報発信してもらえるという期待を持っていただいている。今では良いイベント案があれば、まず事務局に相談してみよう、という理解が広まっている」と説明する。

 境氏の所属母体は、事務局長の三枝氏同様、三井不動産ライフサイエンス・イノベーション推進部となる。しかし同社にもともとライフサイエンス分野の産業創造に向けたノウハウがあったかと言えば、決してそうではない。

 三枝氏は「『コミュニティ』の構築には、LINK-Jの立ち上げ当初から苦労を重ねてきた」と明かす。それでもここまで実績を築くことができたポイントは、ベンチャーの育成・支援を直接、手掛けようとしてこなかった点にあると言う。

 「私たちの取り組みは、育成・支援そのものをビジネスとするVCなどを応援するものという位置付け。だから、他社と競合しない。むしろ、応援する存在と捉えてもらうことができた。その結果、スタートアップの育成・支援に向けたノウハウを持つVCなどとも協業することができた」(三枝氏)。

 「コミュニティ」の構築でLINK-Jの事務局が心掛けているのは、気軽にネットワークを築くための「楽しさ」の演出だ。境氏は「日本人はパーティーで交流を図るにも苦手意識を持たれる方が多い印象があるからこそ、雰囲気づくりには気を配る。著名な登壇者によるシンポジウムでも、気軽で楽しい雰囲気は忘れないようにしている」と話す。

LINK‐Jが行ったイベント例。2020年の開催実績は357件(オンラインは218件)で、2021年はオンラインに注力してきた
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LINK‐Jが行ったイベント例。2020年の開催実績は357件(オンラインは218件)で、2021年はオンラインに注力してきた
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LINK‐Jが行ったイベント例。2020年の開催実績は357件(オンラインは218件)で、2021年はオンラインに注力してきた

「ラボ&オフィス」は、日本でもビジネスに

 三井不動産のライフサイエンス事業の歩みをビジネスという視点で振り返ると、大きく2度の転換点があったと言う。

 最初は、企業・団体の活動拠点になる「場」を整備し始め、1棟目のビルを供給し終えた段階だ。「最初の拠点ビルは、テナントの誘致も賃料設定を含め、探り探りの状態だった。ところが、一定の手応えを得られLINK-Jの活動も活性化し始めたことから、2棟目以降は相場賃料で貸し出す方針が定まった」(三枝氏)。三井不動産ではここで手応えを得られたからこそ、「場」の整備に弾みを付けることを決めたと言う。

 次は、整備する「場」として「賃貸ラボ&オフィス」と呼ばれる施設を加えた段階だ。この施設は、創薬や再生医療等の研究者が実験を行う、いわゆるウエットラボ仕様を備えた賃貸オフィス。貸し出す区画単位で、給排水、吸排気、都市ガスなどの配管が事前に整備されている。2020年1月には東京・葛西に第一号「三井リンクラボ葛西」を、翌2021年3月には東京・新木場に第二号「三井リンクラボ新木場1」を立て続けに完成させた(下写真)。新木場では、2023年春完成予定で2棟目の施設を計画中だ。

 賃貸ラボ&オフィスの整備のきっかけは、LINK-J会員からの要望だ。「賃貸ラボがほしいという声が上がったが、支払える賃料には限界がある。そこで、日本橋には近いものの賃料水準は都心に比べ抑えられる葛西や新木場という都心近接地に物件を確保した。葛西では第一三共葛西研究開発センター内の一部を賃借し、リノベーション工事を施した上で転貸している。新木場では専用のビルを新しく建設した上で貸し出している。

 入居率は、例えば「三井リンクラボ新木場1」の場合、賃貸借契約締結までの目途が立っているものも含め、8割強。入居済みのテナントには、異業種からの参入企業・団体、開発業務受託機関とも言われるCRO、スタートアップが顔を揃える。「反響は想定以上。入居しているテナントは狙い通りの顔ぶれだ」(三枝氏)。

 三井不動産にとってこの「賃貸ラボ&オフィス」は、「オフィス」「住宅」「商業」「ホテル・リゾート」「物流」に続く、6番目のアセットクラスと位置付けるほど、大きな期待を寄せるもの。開発が先行する米国の現況を踏まえ、満を持して事業化に乗り出した。米国の現況を、三枝氏はこう説明する。

 「米国でもかつて研究所は郊外に自前で持つのが主流だったが、今はオープンイノベーションの機会を確保するため、都心により近い場所が好まれる。また環境変化に迅速に対応する必要から、保有から賃借という流れもある。研究所の状況はこの20年で大きく変わった。ボストンのケンブリッジエリアは『ラボ銀座』と呼ばれるほど。賃貸施設に名だたる企業が入居する。その様子を目の当たりにし、これは日本でもビジネスになる、と踏んだ」

 「賃貸ラボ&オフィス」では今、葛西や新木場のような都心近接型に加え、アカデミアなどの近接地に立地するシーズ近接型も展開する。第一号は、三井不動産がスマートシティとして街づくりに取り組む千葉・柏の葉。国立がん研究センター東病院の隣接地に目下、建設中だ。完成は2021年11月を見込む。

 また米国ボストンにも進出する。米国子会社を通じ、地元のデベロッパーと組み、2021年冬を目途に施設を完成させる。今後、カリフォルニア州のサンディエゴやサンフランシスコでも「賃貸ラボ&オフィス」を展開する予定だ。

2021年7月、初の新築賃貸ラボ&オフィスとして開業した「三井リンクラボ新木場1」。新木場エリアでは2棟目の建設計画もある
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2021年7月、初の新築賃貸ラボ&オフィスとして開業した「三井リンクラボ新木場1」。新木場エリアでは2棟目の建設計画もある
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2021年7月、初の新築賃貸ラボ&オフィスとして開業した「三井リンクラボ新木場1」。新木場エリアでは2棟目の建設計画もある
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2021年7月、初の新築賃貸ラボ&オフィスとして開業した「三井リンクラボ新木場1」。新木場エリアでは2棟目の建設計画もある
初の海外賃貸ラボ&オフィスとなるボストン「イノベーションスクエアPhaseⅡ(仮)」
初の海外賃貸ラボ&オフィスとなるボストン「イノベーションスクエアPhaseⅡ(仮)」
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産学医連携ベンチャーエコシステムの運営へ

 東京・日本橋でのライフサイエンス・イノベーション推進事業に話を戻そう。

 本業である不動産を扱う「場」の整備は順調そうだ。とりわけ15カ所の拠点ビルでは、「賃貸ビル事業として事業性を確保できている」(三枝氏)と言う。ただライフサイエンス・イノベーション推進事業全体では、LINK-Jというオープンイノベーションに向けた仕掛けを伴うため、マネタイズは容易ではない。課題は、そこにある。

 「マネタイズの難しさはオープンイノベーションに向けた仕掛けづくりに共通すること。ただ、事業の継続性を考えると、採算は無視できない。本業である不動産業と組み合わせ、マネタイズを実現し、エコシステムを成長させていくことが求められる」(三枝氏)

 ただ、この事業を仕掛けたことで、日本橋というエリアの価値は上がった。「産業創造に向けたもともとの狙いは、日本橋の価値を上げるというもの。メディアから『日本橋バレー』と呼ばれるようになったことにも、意義を感じる」(三枝氏)。

 三井不動産では今、東京・日本橋での取り組みを、同じく医薬品産業の集積拠点である大阪・道修町を中心とする一帯でも展開しようとしている。エリア内に保有していたビル内に2020年9月、「ライフサイエンスハブウエスト」を開設し、LINK-Jも関西圏での「コミュニティ」の構築に取り組み始めた。

2024年春、大阪・中之島で開業される予定の未来医療国際拠点
2024年春、大阪・中之島で開業される予定の未来医療国際拠点
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 第二の拠点は、一般財団法人未来医療推進機構が大阪・中之島で2024年春に開設する予定の未来医療国際拠点。三井不動産ではLINK-Jと連携しながら、この施設内で「産学医連携ベンチャーエコシステム」を設置・運営することが決まっている。

 ライフサイエンスは、2025年国際博覧会(大阪・関西万博)との関係でイノベーションがさらに進み、発展することが期待される分野。大阪での展開が、東京での事業にもプラスに働くことは想像に難くない。この5年半、東京で培ってきたノウハウを生かし、大阪での事業を順調に展開できるか──。3度目の転換点が、訪れようとしている。

(タイトル部のImage:出所は三井不動産)