無数の腸内細菌が腸内細菌叢(そう)を形成している腸。腸内細菌叢の乱れは免疫低下や肥満、炎症性腸疾患、うつ病などと密接な関係がある。近年は特定の菌を摂ったり、腸内細菌のエサとなる食物繊維を摂ったりする介入研究が盛んだ。しかし、北海道大学大学院先端生命科学研究院の中村公則准教授は、「腸内細菌叢は個人差が大きく、一様に“良い腸内細菌叢”を語るのは難しい。腸内細菌叢はカオスです」と話す。そんな中村准教授が、腸の新しいバイオマーカーとして注目しているのが、小腸に存在する「αディフェンシン」という免疫物質だ。腸内細菌叢を“宿主の側”から制御することで、新たな健康維持法や疾病予防・治療法の社会実装につなげようとしている。
「外から入れる」から「自前の免疫物質にアプローチする」へ
ストレスによるうつ病や、加齢に伴い感染症に罹りやすくなるなどの「免疫老化」、さらには治療の決め手が見つからない炎症性腸疾患など、腸内細菌叢が関わる病態は多い。そんな病態の予防や治療に新たな突破口を見いだしたのが、北海道大学大学院先端生命科学研究院の中村公則准教授。2021年5月に腸内細菌叢と「うつ病」、6月に「免疫老化」をテーマとする論文を発表した。研究の糸口となったのは、小腸にある「パネト細胞」と、パネト細胞が分泌する「αディフェンシン」という免疫物質だ。
ヒトの腸には無数の腸内細菌が棲んでいる。これらの菌がつくる微生物生態系を腸内フローラ、腸内細菌叢と呼ぶ。菌の構成は、食習慣や生活習慣、民族性や年齢などにより一人ひとり異なる。腸内細菌叢が健全に働くと、病原体を排除したり、健康を保つ「短鎖脂肪酸」を産生したりする一方、腸内細菌叢が破綻する(有害な腸内細菌が増える)と、肥満や脂肪肝、炎症性腸疾患、発達障害、うつ病、がんなどの発症につながることが明らかになっている。
「腸内細菌叢を良い状態に保つために、研究現場ではこれまで、有用菌や腸内細菌のエサを外から入れる、という発想がとられてきました。しかし、腸内細菌叢は個人差が大きく、無数の菌のネットワークが宿主(寄生する相手。ここではヒト)にどう影響するのかを追究するほど、正解がぼやけてカオス状態に陥る、という現実がありました。腸内細菌叢の適切な制御法を知るため、私たちは、宿主を主体として考える発想に切り替えました。宿主には何らかの手段で、自らの判断によって必要な腸内細菌を選ぶ仕組みが存在するはずだと考えたのです」(中村公則准教授。以下、コメントは全て同)

中村准教授が着目したのが、小腸粘膜のくぼみに存在する「パネト細胞」とそこから分泌される「αディフェンシン」だ(図1、2)。パネト細胞は、小腸にのみ存在する細胞で、食事から吸収された食成分や体内に侵入した病原体に反応しαディフェンシンを分泌する。αディフェンシンは「抗菌ペプチド」とも呼ばれ、体内に侵入した病原体の殺し屋として働く「自然免疫」の重要な担い手としての働きが既に分かっていた。
そんな中、中村准教授らは、(1)αディフェンシンは小腸だけでなく、その下流の大腸の内腔にも存在すること、さらには、(2)αディフェンシンは宿主にとって不利益になる病原菌や日和見菌(存在比率が増えると不利益を起こすことがある)を排除し、有利な働きをするビフィズス菌や乳酸菌とは共生していることを証明した[1]。「つまり、αディフェンシンは腸内細菌が宿主に有益かどうかを選別し、共生か排除かを選択することによって腸内細菌叢を適切にコントロールしていることが分かったのです」。
αディフェンシンはうつ病で乱れる腸内細菌叢に関わる
小腸のパネト細胞とαディフェンシンは、腸内細菌叢制御の重要なプレーヤーである──「ならば、うつ病において腸内細菌叢の破綻が脳に影響する“脳腸相関”も、αディフェンシンによって解明できるかもしれない」と中村准教授は考えた。
研究では「社会的敗北モデル」といううつ病モデルのマウスを用いて、小腸粘膜を調べた。すると、パネト細胞の数もαディフェンシン量も有意に減少していた。
「そこで、マウスの口からαディフェンシンを投与したところ、うつ病のヒトで低下することが分かっているグルタミン酸、ウラシルといった代謝物の量がV字回復することを確認しました(図3)」
心理的ストレスは腸内細菌叢と菌代謝物の異常を引き起こし、うつ病の発症や悪化につながることは知られているが、因果関係は未解明だった。中村准教授らは、心理的ストレスによってパネト細胞の数とαディフェンシン分泌量の低下が起こり、腸内細菌叢の破綻を招くことを明らかにした。腸内細菌叢の破綻がうつを悪化させ、うつ状態がさらに腸に悪影響をもたらすという悪循環が起こっていると考えられる。
「詳細なメカニズムについては未解明ですが、おそらくαディフェンシンによって増えた代謝物が腸の上皮細胞の隙間を介して血流をめぐり、脳に到達するのではないかと考えています。うつ病は発症する前の予防が特に大切だと思っています。セルフケアとして、ストレスに強い体をつくることにαディフェンシンを役立てたいです」
αディフェンシンは、うつの予防や治療の新たな指標になりそうだ。
(出所:Sci Rep. 2021 May 10;11(1):9915. )
加齢によるαディフェンシンの減少は免疫老化にも影響
次にαディフェンシンと免疫老化の研究成果を見ていこう。
中村准教授らは、35~81歳の健康な成人を対象に、便中のαディフェンシン量の測定を行う研究を実施した。すると、(1)加齢に伴いαディフェンシン量が低下していくこと、(2)免疫維持に有用な短鎖脂肪酸を産生する腸内細菌が減少していることが分かった(図4)。加齢とともにαディフェンシンが減少することが腸内細菌叢の悪化に関わり、免疫力低下のリスクを高めることを解明した世界初の研究成果だ(図5)。
加齢により疾病リスクが増え、重症化しやすくなることは、パンデミックとなった新型コロナでも明らかになっている。
「新型コロナ感染により下痢症状が出ない人はαディフェンシンの値が高い、という報告もあります[2]。αディフェンシンは多方面の研究者から注目されている物質です」
(出所:Geroscience. 2021 Jun 8.)
αディフェンシン測定の社会実装を目指す
中村准教授はパネト細胞について、「この細胞は、ヒトが食べて、栄養を摂り、健康に生きていく根本的な仕組みを支える、特別な役割を仰せつかったユニークな細胞です」と言う。
「パネト細胞が存在する腸管上皮は、人間の体内で最も生まれ変わりのサイクルが短く、3日から5日で新陳代謝します。便は約7割が水分で残り3割が固形成分、そこには腸内細菌の他、消化物の残りかすや、腸から剥がれ落ちた腸管上皮細胞も多く含まれます。パネト細胞は、人類の長い歴史の中で、わずかな食料から栄養を効率よく取り込み、同時に紛れ込んでくる病原体による感染から身を守ることに大きく寄与して来ました。ストレスなどダメージに対して脆弱なのは、重要な役割を担う細胞だからこそ障害を受けたらすぐ死んでもらい、再生に導こうとする仕組みが働いているのかもしれません」
逆手に捉えれば、αディフェンシン量を保つことによって、疾患リスクを抑えられるということだ。
適切なαディフェンシン量を保つのに、行動変容を最も起こしやすいのは「食」だろう(図6)。そこで、中村准教授らはパネト細胞を活性化させる食成分の探索を行っている。そのために「マイクロインジェクション」という評価法も開発。ポリフェノールや生薬成分など様々な成分を評価し、有力候補を見つけてヒト試験を行う計画だ。
また、食の研究に加え、中村准教授が進めている社会実装へのもう1つの取り組みが、αディフェンシンを計測する手法や装置の開発。「αディフェンシンを自らの健康状態を知る新たなモノサシとして活用できる社会を目指します」と話す。
北海道大学大学院先端生命科学研究院准教授
(タイトル部のImage:Science Photo Library/アフロ)