認知症の大半を占めるアルツハイマー病の治療薬開発においては、薬を脳に届けようとしても、それを拒絶する「壁」の存在がボトルネックになってきた。血液と脳内との間には、「血液脳関門(ブラッド・ブレイン・バリア:BBB)」と呼ばれる、薬を脳内に入り込ませない仕組みがあるからだ。

 川崎市産業振興財団ナノ医療イノベーションセンター(iCONM)と東京大学、東京医科歯科大学の研究グループは5月20日にオンライン記者会見を開き、「BBB突破型スマートナノマシン」により抗体医薬を脳内に送達し、アルツハイマー病の原因とされるアミロイドβタンパク質の凝集を抑制できたと発表した(図1)。この成果は、5月22日に米国化学会が発行する学術誌『ACS Nano』に掲載された1)

<b>図1●脳内に抗体医薬を送達し放出・機能させる抗体内包ナノマシン(BBB突破型スマートナノマシン)</b>(出所:東京大学・iCONMの安楽氏発表スライド、図2も)
図1●脳内に抗体医薬を送達し放出・機能させる抗体内包ナノマシン(BBB突破型スマートナノマシン)(出所:東京大学・iCONMの安楽氏発表スライド、図2も)
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 ナノテクノロジー第一人者で、iCONMセンター長の片岡一則氏は、「センターでは6つのプロジェクトを進めており、その一つが今回の脳神経系疾患の革新的治療技術の開発」と紹介した。

 今回の治療ターゲットになるのが認知症だ。そもそも認知症は認知機能が低下する病気。その多くがアルツハイマー病だと分かっており、原因と考えられているのが、脳内への「アミロイドβ」と呼ばれるタンパク質の凝集・蓄積だ。このアミロイドβが凝集して蓄積していくのをいかに防ぐかが、アルツハイマー病予防・治療のカギを握るとして研究開発が進められてきた。

 これまで治療手段として活用の検討が進んできたのが「抗体」だ。体に備わっている免疫細胞が作っている免疫グロブリンと呼ばれるタンパク質で、外敵に結合することでその機能を失わせる。Yの字の形をしており、その2本の先っぽは「Fab」と呼ばれる部分、幹になる軸は「Fc」と呼ばれている。これらが組み合わさって外敵から身を守っている。

 東京大学大学院工学系研究科バイオエンジニアリング専攻教授の津本浩平氏は、「抗体医薬が承認されているのはがんや自己免疫疾患が多いが、それ以外にも期待されており、その一つは脳神経の疾患」と話す。

脳には薬が0.1%しか入らなかった

 世界の主要な製薬企業が、アミロイドβに結合する抗体の開発を進めているが、なかなか成果に結びついてこなかった。臨床試験まで駒を進めるものの、アルツハイマー病の症状を抑制する効果を示せずに中止になってきたのだ。唯一、米国バイオジェンとエーザイが共同で開発したアデュカヌマブはいったんは有意差なしと判定されたものの、その後の解析で高用量投与群で症状の抑制効果が確認されたとして承認申請されることになった。とはいえ、多くの薬は開発がうまくいっていない。

 開発の難しさの背景の一つにあるのは、冒頭で触れた血液脳関門(BBB)の存在だ。血液と脳との間に物質が行き来できない。脳を有害物質から守るための生体の仕組みだが、脳の薬物療法にとっては障害になる。

 アルツハイマー病に対して有望視されてきた候補治療薬の多くは脳にほとんど入らないので、効果が限定的にならざるを得ない。アルツハイマー病の治療薬の候補となる抗体は、脳には投与したうちの0.1%しか集積しないと分かっている。同様に、既にアルツハイマー病に適用のあるドネペジルと呼ばれる薬も0.1%しか集積しない。

 研究グループが注目したのは、血液から脳内への「能動的な輸送」だ。血液脳関門の“壁”は有害物質を阻む一方で、自ら必要なものを飲み込む仕組みがあることを活用することにした。東京大学大学院工学系研究科バイオエンジニアリング専攻・特任准教授でナノ医療イノベーションセンター・客員研究員の安楽泰孝氏は、「抗体医薬ほど大きいものを細胞内に取り込ませるため、参考にしたのが自然界」と解説する。

 というのも、自然界では、血液脳関門を通過できるものが存在しているのだ。典型的なのは、グルコースだ。脳にとってのエネルギー源で、これは脳の細胞の表面にある「グルコーストランスポーター1(GLUT1)」というタンパク質がグルコースを見分けてこれを取り込むような仕組みがある。GLUT1は、脳に存在する「脳血管内皮細胞」に豊富に存在。興味深いことに、GLUT1は空腹時に血管側に顔を出すことも分かっていた。これは合理的で、脳が栄養を欲するときに糖を取り込みやすくなることになる。

 さらに、どのようにグルコースを細胞が飲み込むのかの仕組みも解明している。グルコースの分子は、6つの炭素分子が環状につながる形をしている。GLUT1は、番号が付いている炭素C1~C6のうち、C1、C3、C4を見つけて飲み込んでいる。それに対して、C6は使われない。

グルコースと間違って細胞内に導くような仕組み

 グルコースの他にも、脳の細胞に飲み込まれる物質が存在している。それはウイルス。ウイルスは細胞から出る受容体を認識し、この受容体に結合。これをきっかけに細胞自身がウイルスを取り込んで、脳の内部へとウイルスを運んでいる。脳の健康にとっては好ましいことではないが、実際に血液脳関門を突破する仕組みの一つとなる。

 これまでに研究グループは、こうしたグルコースが細胞に取り込まれる仕組みとウイルスが取り込まれる仕組みに着目して、人工的な「ナノマシン」を作り上げることに成功した。その仕組みは、ブロックの「レゴ」のように球形の分子のカプセルを作り出すというもの。棒状のレゴ分子がまとまって、ボールのように内部に空間を持った球になる(図2)。

<b>図2●レゴ分子の自動会合による「ナノマシン」の構築</b>
図2●レゴ分子の自動会合による「ナノマシン」の構築
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 しかも研究グループは、この外側にグルコースを結合させて、C1、C3、C4が飛び出す形にした。レゴブロックとは使われていないC6でつながっている。この仕組みによって、細胞がレゴ分子の球をグルコースと間違って細胞内に導くような仕組みとしたのである。

 研究グループは動物実験で本当にこのレゴボールが脳内に取り込まれるかを検証。グルコースと同じようにレゴボールが脳内に取り込まれることを確認した。ここまでの成果は、安楽氏らが2017年に『Nature Communication』に発表している2)

アルツハイマー薬を脳に届ける

 さらに研究グループは今回、「BBB突破型スマートナノマシン」と呼ぶこのレゴボールの中にアルツハイマー病の治療薬として抗体のFabを入れたもの(図3)を脳内に導くことに成功した。

<b>図3●「BBB突破型スマートナノマシン」の構造</b>(出所:iCONM・東京大学・東京医科歯科大学等による2020年5月20日付報道発表資料)
図3●「BBB突破型スマートナノマシン」の構造(出所:iCONM・東京大学・東京医科歯科大学等による2020年5月20日付報道発表資料)
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 研究グループがこのナノマシンをモデル動物に投与したところ、血液から脳へと運ばれ、抗体を安定的に保ち、血液脳関門を通過することを確認。しかも、ナノマシンと抗体との間で、酸性度の変化によってばらばらになる化学的な変化を加えた。脳実質環境の中でpHが上昇してアルカリ性に傾くことで抗体を放出することも確認した(図1)。単純にFabだけを投与するよりも、脳内の濃度は42倍に高められていた。

 さらに、脳内のアミロイドβの凝集を防ぐことも確認。脳内のアミロイドβを劇的に減らし、過去に報告されている抗体を単独で投与した場合よりも10分の1の投与量で同等の効果を出した。

 動物実験ではあるが、今後、人での安全性や有効性が検証できれば、アルツハイマー病の治療が大きく前進する可能性を秘める発見となる。抗体を放出した後の殻に当たるポリエチレングリコールやポリリジンの影響など、安全性や効果についてはさらなる検証は要るものの有望な技術だろう。東京医科歯科大学大学院医歯学総合研究科脳神経病態学(脳神経内科)分野教授の横田隆徳氏は、「まだ不明な点もあるアミロイドβと認知症との関連をより明確にする研究も進んでいる。これからは認知症だけではなく、治療が期待される病気は神経難病など他にも考えられる」と指摘する。

 折しも5月25日に、薬物と抗体を組み合わせた抗体薬物複合体であるトラスツズマブデルクステカン(商品名エンハーツ)が第一三共から発売された。同様な開発は他にも広がりを見せており、ナノマシンや化学物質の組み合わせによる薬物はより注目される可能性がある。


(タイトル部のImage:monsitj -stock.adobe.com)