日本を代表する脳科学の研究拠点として知られる東北大学加齢医学研究所。同所を母体とするスタートアップがCogSmartだ。2021年4月には、フィリップス・ジャパンとの業務提携を発表。脳ドック用プログラム「BrainSuite」の提供が始まったばかり(関連記事:フィリップスが東北大発スタートアップと提携、認知症の早期予防へ)。同社を訪問し、代表取締役(東北大学加齢医学研究所 教授)の瀧靖之氏に話を聞いた。

今回訪問したのは、東京・赤坂にあるオフィス。「生涯健康脳」の実現と「0次予防」の達成をミッションに掲げている(写真:川島 彩水、以下同)
今回訪問したのは、東京・赤坂にあるオフィス。「生涯健康脳」の実現と「0次予防」の達成をミッションに掲げている(写真:川島 彩水、以下同)
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起業のきっかけ

脳科学研究の知見を社会に還元したい

 私が所属する東北大学加齢医学研究所では、2000年代の初めから世界に先駆けて脳画像データベースを蓄積してきた。恩師は福田寛教授、それから川島隆太教授になる。大学院生として研究所に入って以来、私はデータベース作成の中心的役割を担い、現在も研究を続けている。それゆえ、脳科学のスペシャリストとの自負がある。

代表取締役の瀧靖之氏
代表取締役の瀧靖之氏
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 研究を重ねる中で、食事、運動、飲酒などの生活習慣が脳の萎縮に関係するとの結果を発表してきた。近年はさらに研究が進み、睡眠やコミュニケーション、趣味なども脳の健康に影響を与えるとのエビデンスが発表されている。だが世の中に知られている情報は「運動をすればいい」「睡眠をきちんと取ればいい」「何々を食べればいい」といった断片的なものばかりで、本質的かつ科学的な情報がきちんと伝わっていないことに大きな乖離(かいり)を感じていた。

 そこで脳科学研究の成果を社会に届け、“生涯健康脳”の実現を目指してCogSmartを2019年10月に設立した。自らが携わる大学発スタートアップの形にしたのは、豊富な知見を持つ私たち自身こそ最適なアプローチができると考えたからだ。

CogSmartの概要(表:同社への聞き取りを基にBeyond Healthが作成)
CogSmartの概要(表:同社への聞き取りを基にBeyond Healthが作成)
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 脳の健康を維持することは、日本の社会課題である認知症予防につながる。私がソリューションを構想し始めた10年前はそもそも認知症予防の気運すらなかったが、最近はその空気が醸成されてきた。生涯健康脳の実現とともに掲げているもう1つのミッションが「持続的な0(ゼロ)次予防の達成」。これは高齢者世代に限らず、20〜50代の現役世代から適切に生活習慣を改善していくことを意味する。認知症の症状が出てからではなく、自分には関係ないと思う若いうちから脳の健康を意識させることが狙いだ。

サービスの概要

着目したのは「海馬」

 「BrainSuite(ブレーン スイート)」というソフトウエアプログラムが事業の中心になる。脳の健康状態の測定と、将来の認知症予防のためのアドバイスをセットにした。プログラムには3本の柱がある。第1がMRIで撮影した脳MR画像解析、第2がオンライン問診と認知機能テスト、第3が生活改善のアドバイスを示す結果レポートだ。これらを組み合わせて脳の健康状態を精緻に可視化する。

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 第1の脳MR画像解析では独自開発したAIの「Hippodeep(ヒポディープ)」を活用する。私たちが着目したのは、脳内にある海馬。海馬は脳内で神経新生、すなわち、神経の生まれ変わりが起きる数少ない部位である。継続的な運動習慣などは神経新生を促すものの、不健康な状態だったり、ストレスがあったりすると神経新生が起きずに萎縮して記憶障害が出やすくなってしまう。

 Hippodeepは東北大学加齢医学研究所のデータを含む2万5000例に及ぶMR画像を教師データとして開発したもので、数十秒で海馬体積を測定する。しかも900例ほどの解析で全例成功した実績があり、脳科学研究のデファクトスタンダードと比較して非常に高速・高精度な解析手法となっている。

 健康脳維持の指標として、若い世代も含めた健常者のデータベースを加えたことも1つの特徴だ。20〜80歳まで、約3300例の健常者の脳MR画像を横断的に蓄積し、そこに約8年分/約400例の同一被験者の縦断データを盛り込んだ。これにより、個人の属性や生活習慣がどのように脳に変化をもたらすかをより客観的に見える化できるようになった。

 第2のオンライン問診では通常の問診に心理テストを付加。認知機能テストには、FDA(米国食品医薬品局)が承認した「CANTAB(キャンタブ)」を採用した。問診の心理テストによって認知症リスクに関係する運動、食事、睡眠、コミュニケーション、趣味などに対するヒアリングを行ない、認知機能テストによって短期記憶や注意力、作業記憶などを評価する。

 第3の結果レポートでは、脳の健康状態がS〜Dのランクで示され、同世代と比べた海馬の体積、認知機能への影響、脳健康活動の分析、10年後の海馬体積目標など詳細な解析結果を提供する。それとともに運動、食事、睡眠などの5項目から生活習慣の改善をアドバイスし、行動変容を促していく。Web上に会員ページを設け、継続的に受診者をフォローアップする仕組みも構築した。

 当然だが、普通に生活していれば海馬の体積など気にすることはない。だが、可視化することで自分の脳の状態に興味を持ち、生活習慣を見直すきっかけになる。まずは興味を持って行動することが大事。そうすれば一人ひとりの脳と体が健康になり、結果的には医療費・介護費などの社会保障費の抑制につながるはずだ。

サービスの現状と課題

シーズ起点という大学発スタートアップの課題を克服する

 2021年4月、フィリップス・ジャパンと業務提携を結んでBrainSuiteの本格的な販売を開始した。脳ドックのオプションサービスとして全国の病院・クリニックでの展開を予定している。

 フィリップスと東北大学加齢医学研究所は2009年からMRIの導入で付き合いがあり、その後もfMRI(脳機能イメージング)の共同研究を行なうなど良好な関係を築いてきた。大学発スタートアップはどうしてもシーズオリエンテッドになり、世間が求めるものとかけ離れたニーズを深堀りしてしまうケースが多い。私は研究者、医師としてはスペシャリストだが、ビジネスに関しては門外漢。せっかくの素晴らしい研究成果を世の中に流布させるテクニックは持っていない。そこでオープンイノベーションに注力するフィリップスこそベストパートナーだと考えた。

 業務提携を機に一気に拡大する計画だが、2つの大きな課題がある。1つは脳ドックという検査のハードルだ。現状は脳MRI検査ありきのサービスのため、個人が興味を持って受けたいと思っても医療機関が導入していないと受けられないジレンマがある。先日、大々的にBrainSuiteの記者発表会を開いたのは、マスに向けてはもちろんのこと、医療機関に向けてのアピールでもある。

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 もう1つの課題は、やはり個人の行動変容の難しさ。会員ページのフォローアップや生活改善のアドバイスのみならず、例えば「ポケモン GO」のような行動を起こす仕掛け、ゲーミフィケーションが必要になるかもしれない。ご存じのように、恩師の川島隆太教授は任天堂の「脳トレ」シリーズの監修者であり、企業との関係性やサービスの拡充に関して柔軟に対応してきた。私もその背中を見て育ち、研究以外の部分でもたくさんのことを学んだ。それゆえ、サービスにとって良いと思えるものはどんどん採り入れていきたい。

自社の強み

武器は研究開発力と人材のつながり

 強みは研究開発力、そして人材のコネクションだ。AIのHippodeep(ヒポディープ)は、もともと研究室に所属している研究者が開発したもの。仏のMRI研究センターである「NeuroSpin(ニューロスピン)」の出身者で、得意とする機械学習を発展させ、意見交換しながら完成させた。先に述べたように、豊富な脳画像データベースを蓄積していたことも大きな要因だ。

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 コネクションに関しては、医師などの医療従事者、ソフトウエアエンジニア、医療機器業界での営業や薬事の長年のスペシャリスト、外資系メーカーの元幹部、弁護士、会計士、デザイナーなど、これまでのつながりで多岐にわたる人脈があり、すべての人たちが生涯健康脳に対する事業への共感から集まっている。この強固な結びつきはCogSmartの優位性といえる。

 現在は役員が4人、従業員が7人が中心となり、パートナー・専門家集団ががっちりスクラムを組む体制となっている。私とともに代表取締役を務める中村匠汰はまだ若い医師だが、非常に広い視野を持っていて、IoTなどの最先端技術やビジネスにも興味がある。私自身、子どもの頃から知的好奇心が旺盛で、理学部から医学部に進んだ変わり種。今でも常に俯瞰的に物事を見るように心がけている。その姿勢を原動力として、企業の成長フェーズにあわせて組織体制を柔軟に変えていくつもりだ。

 今は目一杯アクセルを踏んで大きな岩を動かしていかなくてはならないが、時期が来れば社員の役割もどんどん変わるだろうし、そうあるべきだと思う。ビジネスをスケールさせる以上、将来的には資金調達も考えている。鳥の目と蟻の目を両方備えていなければ、研究と事業の両立は難しい。その意識は徹底している。

今後の展望

認知症ソリューションは強力な輸出産業へ成長する

 まずはBrainSuiteの事業を伸ばしていくこと。フィリップスと協力しながら医療機関への導入拡大を図り、どこに住んでいても皆さんにサービスを受けてもらえるようにする。その整備と並行して、脳MR画像がなくても脳の健康状態を可視化できる方法がないかを探っている。そこには日常生活のビッグデータが必要になってくるが、こうしたサービスの拡張にもぜひトライしたい。

 次は海外への展開だ。日本は超高齢社会を体現するパイオニアであり、日本で起きている現象はいずれどの国にも起きる。実は香港政府系のインキュベーション施設からオファーがあり、香港にCogSmartの子会社を設立したばかり。香港を足がかりに、中国や東南アジアなどへ広げたいと構想している。東北大学でも国際的な産学連携を進めているので、そのコネクションも活用するつもりだ。

 認知症のソリューションに関して、日本が世界に先駆けているのは間違いない。切羽詰まっていないため、日本のように認知症に対して民意が高まっていない国がほとんどだが、各国が気づくのも時間の問題だろう。だからこそ早めのタイミングで仕掛けることが成長するためには重要だ。私は、これらのソリューションがかつての家電や自動車のように強力な輸出産業になると考えている。

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(タイトル部のImage:川島 彩水)