「健康寿命」を75歳以上へ──。厚生労働省は3月末、健康に生活できる期間である健康寿命を2040年までに2016年と比べて男女とも3歳以上延ばし、「75歳以上」とする目標を定めた。今夏にまとめる「健康寿命延伸プラン」に反映させ、政府全体の取り組みとして達成を目指す。

 メディアではごく簡単にしか紹介されなかったこのニュース。目にしても、「ふーん」と軽く受け止める向きも多かったことだろう。ただ、この結論に至るまでの過程が、ある意味、実に興味深いのだ。これまで膠着していた事態が大きく動く可能性がある。

首相「イチ押し」の予防医療

 健康寿命の延伸は、安倍晋三首相肝いりの施策。昨年9月に自民党総裁に3選されると、人生100年時代に向けた社会保障改革として、予防医療や健康寿命増進に焦点を当てる姿勢を鮮明にした。首相の指示を受け、厚労省は10月、「2040年を展望した社会保障・働き方改革本部」を設置し、喫緊に取り組む政策課題の一つとして「健康寿命の延伸」を掲げ、2019年夏までに健康寿命延伸プランを策定する方針を決めた。プランには、健康寿命の目標値に加え、その達成に向けて、健康に関心がない人へのアプローチの強化や介護予防などの具体策を盛り込む予定(図1)。

図1●2040 年を展望した社会保障・働き方改革本部の検討課題
(図:第1回2040年を展望した社会保障・働き方改革本部資料[2018年10月22日]を基にBeyond Healthが作成)

 首相「イチ押し」の予防医療の推進機運に乗じて存在感を見せつけているのが、経済産業省だ。病気を予防すれば、医療費を削減できるとのメッセージを発して、予防医療を主導。実際、昨年4月に開かれた第7回「次世代ヘルスケア産業協議会」の資料では、「予防・健康管理への重点化」によって、高齢者の医療費が半分以下に減少するという図も示した(図2)。

図2●予防・健康管理への重点化による医療費抑制のイメージ
(図:第7回次世代ヘルスケア産業協議会資料[2018年4月18日]を基にBeyond Healthが作成)

打って出た経産省、過去の経験から学んだ厚労省

 これまで医療や介護などの社会保障分野は厚労省が政策を立案し、財務省が支出をコントロールしてきた。そこに経産省は参入してきたことになる。予防・健康づくりが財政再建の「切り札」になるとして。

 だが、そんな経産省の動きは波紋を呼んだ。もともと予防で医療費や介護費を抑制できるとの説には異論が強い。健康寿命が増加しても、その後の「不健康な期間」が短縮できるという医学的な根拠はない。それゆえ、人の一生を考えると、予防は医療費や介護費がかかるタイミングを先送りしているだけにすぎず、長期的にはむしろ長生きすることで費用を増加させる可能性があるというのが医療経済学者の主流の見方だからだ。例えば、喫煙者が禁煙することによって、長期的には医療費増大に結びつくことは医療経済学の常識だ。

 これら専門家から経産省の主張へ寄せられる強い反発。それを冷ややかに見ていたのが、厚労省だった。

 実は、厚労省も「医療費の負担を軽減させるためにも健康寿命の延伸が重要」との考えを打ち出していた時期がある。

 小泉政権下の2006年、厚労省はメタボ健診の普及などの生活習慣病対策によって、「2025年度には医療費を2兆円削減する」との数値目標を掲げた。当時の経済財政諮問会議の民間議員からは、医療費の膨張を確実に抑えるため、医療費になかば強制的にキャップをはめる総額管理制度の導入を迫られており、それを回避するための苦肉の策だった。とはいえ、実際「糖尿病などを減らせば何とかなる」ということはなく、検証した対象者の実績では、対策の費用が抑制額を上回った。

 その頃も、予防が医療費を抑制するという話にはエビデンス(証拠)がないとの批判は既に専門家の間から出ていた。厚労省は甘んじて受け止めるしかなかった。以後、予防での医療費抑制効果に関する同省の主張はトーンダウンする。再度転じたのは、第2次安倍内閣の誕生が契機。ただ、あくまで予防の積極推進派である首相の意向に沿ってという側面が強く、予防による医療費抑制効果を厚労省が主導する形で、大々的にアピールするというわけではなかった。

 そんな厚労省を尻目に、ここへ来て、健康寿命増進という政府の旗印のもと、大胆な行動力を見せつけたのが経産省ということになる。だが、その目立つ行動で、同省は専門家らの批判を一手に浴びる。厚労省がかつて受けた「予防で医療費は減らない」との批判だ。

 厚労省にしてみればそれは既に体験済みのこと。しかも、今回矢面に立っているのは経産省で、特段火の粉は降りかかってきそうにない。そこで、厚労省はじっくり構えた。そう筆者は踏んでいる。

予防・健康づくりは個人のQOL向上に不可欠

 何をしたのか。冒頭の話題に戻ろう。厚労省は3月末に、健康寿命を男女とも3歳以上延ばし、75歳以上とする目標を定めたが、それは同省が設けた有識者会議の提言を踏まえてのこと。この有識者会議の開催は「絶対にやるべきこと」として、担当の同省健康局は相当力を入れていたという。

 会議体として用意したのは、健康寿命の定義を明確化した上で、延伸の目標を定める研究会(「健康寿命のあり方に関する有識者研究会」)と、健康寿命の延伸がもたらす効果の影響を見る研究班(「健康寿命の延伸の効果に係る研究班」)の二つ。健康寿命をめぐっては、個々の生活習慣から社会・経済の環境まで、多くの要因が複雑に影響し、政策との対応関係が不明確であるため、政策指標には向かないとの意見がある。それゆえ健康寿命の指標や評価を明確化しようというのが前者の研究会だ。一方で、予防や健康づくりなどの取り組みによって医療費・介護費への効果は果たして実際にどの程度なのか見極めようというのが後者の研究班になる。

 評価・指標のあり方も効果のほどもよくわかっていないからこそ、専門家からは批判が寄せられ、予防による医療費削減の真偽論がうずまいてしまっている。二つの有識者会議はそうした課題解決のためのものであって、その議論を厚労省は昨年12月から今年3月にかけてじっくり行ってきたのだ。

 では実際、報告書には何が書かれているのか。あり方研究会では、現行指標である「健康上の問題で日常生活が制限されない期間」というのは妥当だが、補完的な指標として、平均自立期間(要介護2以上とならない期間)の活用を提案。効果に係る研究班では、予防・健康づくりの取り組みが医療費や介護費にどれだけの影響を及ぼすかについては現時点で定量的な評価・推計を行うことは容易でなく、データに基づく検証を重ねる必要性があるものの、仮に医療費や介護費低減の効果がなかったとしても個々のQOLの向上という極めて大きな価値をもたらすものであることを再確認した旨、明記された。

 「仮に医療費や介護費低減の効果がなかったとしても個々のQOLの向上という極めて大きな価値をもたらす」──。個人的には、この一文が入った意義はとても大きいと感じている。

 予防医療で医療費・介護費を抑制できるかについては両説あり。けれど、抑制効果がなかったとしても、個々のQOLの向上に寄与するのだから取り組むべき。この一文はそう言っていることになる。

 予防医療を実施するなら、今のところ新たな財源の確保が必要だ。とはいえ、財務省がそれを用意するのかどうか。厳しい財政事情の中、もし財源を確保するなら、代わりに他の医療・介護予算を削るということも当然選択肢には入ってくるだろう。

 政府は経済財政運営と改革の基本方針、いわゆる「骨太の方針」を6月にまとめる予定。そこで来年度の予算配分の方針がある程度見えてくる。一体、予防や健康づくりの予算がどれだけ確保されることになるのか。健康・医療分野でイノベーションを起こしたい人にとっては目が離せない情報だろう。詳細が分かり次第、本コラムでお伝えしたい。

(タイトル部のImage:kichigin19-stock.adobe.com)