生物の能力をがんなどの診断に利用する「生物診断」。その研究や啓発を目指して設立された生物診断研究会は2019年5月16日、東京で第1回研究会合を開催した。会員数は同日時点で約50人と小規模だが、当日は報道関係者を含め97人(同会調べ)が参加、新たな診断技術に対して高い関心が集まった。
同研究会は、九州大学発ベンチャーであるHIROTSUバイオサイエンスが開発を進めている「N-NOSE」の臨床応用の研究と啓発を活動の中心に据えている。N-NOSEは線虫の一種である「C.エレガンス」と呼ばれる生物の嗅覚を利用するがん検査法で、2020年1月にも、検診センターなどを通して実用化される見通しだ(関連記事)。
治療に比べて立ち後れていたがん診断の進歩
「治療の進歩により、難治がんとされてきた食道がんなどでも、早期発見すれば命を落とすことが少なくなった。しかし、がんを見つける診断技術はそれほど進歩していない」。同研究会の代表理事で東京大学消化管外科学教授の瀬戸泰之氏は冒頭、こう指摘した。
CTやPETなどで発見できるのは通常、がんが直径1cm程度以上になってから。しかもがんの形態を見ているだけで、診断の確定には生検(組織採取)が必要となる。このため、消化器がんなどでは、形態の観察と生検が行える内視鏡検査が威力を発揮するが、苦痛が大きく、検査時間がかかる、高コストなど、受診者の負担が大きく、健康診断で全員に実施するのは現実的ではない。
瀬戸氏は、「そのため、患者の負担が少なく、早期がんを高い精度で発見できる検査手法が重要となる。そうした診断技術の開発や啓発がこの研究会の目的だ」と述べた。
人工匂いセンサーは生物の嗅覚には及ばない
線虫によるがん検査法「N-NOSE」は、かつて話題になったがん探知犬と同じく、がんを匂いで識別する。HIROTSUバイオサイエンス社長の広津崇亮氏は、線虫を用いたがん検査の有用性を紹介した。
同氏は「医学的な検査に用いるセンサーデバイスに最も重要なのはノイズを排除し、目的の信号だけを識別する機能、すなわち感度と選択性だ。生物の嗅覚は、この感度と選択性が極めて高い。しかも複数の物質を同時に検知できる。人工匂いセンサーはすでに実用化しているが、生物の嗅覚には及ばない」という。
線虫は、細胞数約1000個の下等多細胞生物で嗅覚細胞はわずか10個だが、イヌを超える多様な匂いを識別できる。しかも、好む匂いの物質には近づいていき、嫌いな匂いからは遠ざかる性質があり、匂いの検出を目視で確認できるというメリットもある。
管理も容易だという。雌雄同体でクローン繁殖するため、遺伝的特性が変化しにくい、世代交代がわずか4日間で大腸菌をエサに寒天培地で容易に飼育できるなど、低コストで安定性も高い。また実験生物として長く利用されてきたため、生態についての膨大な知見が蓄積されていることも見逃せない。
「がん探知犬」も高い精度でがん患者を見分けることができるが、イヌの育成や訓練は高コストで、健診に用いるのは現実的ではなかった。
「がん検査には現在、1次スクリーニング、すなわち身長・体重や一般血液検査のように受診者全員が受けることができる検査が存在しない。低コスト・低侵襲な検査法であるN-NOSEを一刻も早く普及させたい」と広津氏は強調した。
臨床試験で線虫検査の高い精度が相次ぎ確認
実際の患者の検体でN-NOSE検査の精度を調べた臨床試験の結果も報告された。
結核予防会新山手病院副院長・消化器病センター長の丸山正二氏らは、ステージIIまたはIIIの消化器がん患者21例を対象に、手術前に尿検体を採取し、N-NOSEによる検査を実施した。その結果、膵臓がんの1例を除く20例で検査陽性となり、感度は95.2%と、腫瘍マーカー(CEA、CA19-9)の20%以下(ステージII)から30-50%(ステージIII)に比べ、大幅に高かったことを報告した。
また、国立病院機構四国がんセンター消化器内科の灘野成人氏らは、2017年4月から2018年12月に自院を初診で受診し、胃がん、大腸がん、食道がん、膵臓がん、肝臓がんと診断された167例について報告。感度は全体で87.4%、ステージ0/1でも87.5%と、がんの進行度にかかわらず高く、早期がんの検出に有用である可能性を提示した。
発見困難な膵臓がんの早期発見に切り札となるか
一般発表に続く特別講演では、膵臓がんについての知見や新たな取り組みが報告された。
膵臓がんは現在でも早期発見が困難で、多くが進行がんとして見つかる。がんと診断されてからの5年生存率は男性で7.9%、女性で7.5%と、他の部位に比べて群を抜いて低い(2006-2008年の診断例:国立がん研究センターのがん登録・統計)。部位別の死亡数も、肺、大腸、胃に次ぐ第4位と多い。このため、早期発見を可能にする検査手法が強く求められている。
大阪大学大学院消化器外科学准教授の江口英利氏は、現在、文部科学省の研究費を得て実施されている初期膵臓がんの解析の試みについて報告した。研究は、最も初期(ステージIA:リンパ節転移なし、腫瘍が膵臓内に留まり、直径2cm以下)のがん検体を全国から収集、得られた検体に対して、ゲノムやマイクロRNAを含むオミックス解析(遺伝子など多様なデータを集積して解析する生物学の研究領域)が試みられ、早期発見の手がかりを探索しているという。
その中で線虫による検査の有用性も検討されている。江口氏らは、研究で得られた初期膵臓がん患者11症例の術前・術後の検体に、ダミーとして健常者の検体を混ぜた計50症例分をHIROTSUバイオサイエンスに送り、N-NOSEを用いて検査した。その結果、11症例のうち7症例が陽性となり、術後には陽性となった7症例中6症例で誘引走性(がん患者の尿を好み、近づく程度)が低下していた。
また、埼玉医科大学国際医療センター消化器内科の良沢昭銘氏は、膵臓が身体のほぼ中央に位置するため、腹部エコーなどの画像診断や組織を採取する生検が難しいことを指摘、診断や治療の手段として、超音波内視鏡(EUS)の有用性が高いことを紹介した。EUSは内視鏡の先端から超音波を発振して周囲の臓器を撮像するデバイスで、胃から十二指腸にかけて挿入することで、膵臓を鮮明に撮像できる。さらに超音波で撮像しながら膵臓の生検や放射線源の埋め込みを行うこともできるという。
良沢氏は、自院の膵臓がん患者を対象としたN-NOSE検査の臨床試験の中間結果を報告した。膵臓がん患者59例と対照群53例の計112例に対してN-NOSE検査を行う臨床試験を実施したところ、感度94.9%、特異度84.9%と高い精度が得られた。「今後、症例数を増やした場合にも安定して同様の精度が得られるなら臨床応用が可能だ」(良沢氏)という。
良沢氏は、「EUSは膵臓がんの診断・治療に高い可能性を秘めており、初期膵臓がんの段階でEUSを適用するには、N-NOSEによる“拾い上げ”が有用だ」と期待を見せていた。
線虫の遺伝子改変で感度向上やがん種別の識別も可能に
研究会では、HIROTSUバイオサイエンスの魚住隆行氏から、N-NOSEの改良の試みについても報告された。
魚住氏らが嗅覚に関連した遺伝子が変化した様々な変異型の線虫を調べたところ、ある変異型では、好みの匂いに誘引される反応と、嫌いな匂いを避ける反応とが共に強く、匂いに対する感度が高かった。こうした変異型を用いることで、より鋭敏な検査ができるようになる可能性がある。
また、がんの種類を識別する検査法の開発も進められているという。がんは種類ごとに匂いが異なる可能性があり、匂いが異なれば識別するセンサーに相当する嗅覚受容体の種類も異なる。
遺伝子操作によって、特定の嗅覚受容体だけをオフにできるので、例えば、胃がんに反応する嗅覚受容体をあらかじめ突き止めておけば、通常の線虫による検査で陽性になった患者が、胃がんの匂いに対応した受容体の働きを止めた変異型の線虫による検査で陰性になれば、胃がんの可能性が高いことが分かる。
魚住氏らは、多数の受容体遺伝子に対する解析を進めており、特定の受容体が働かない変異を持った線虫を作製している。すでに、肺がんや乳がんの検体に対し、尿に近づいていく動作(誘引走性)を行わない個体が得られているという。
苦痛が少なく、低コストで受診でき、高い精度で早期がんを発見できる検査法の実用化がようやく第一歩を踏み出した。線虫から出発した生物診断研究の発展に期待したい。
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