医療の現場で生まれるイノベーションの源泉が大きく変わろうとしている。従来、新薬をはじめとする医療の技術革新は、試験管や小動物を使った基礎研究から生まれることが多かった。しかし、今や医療現場で日々生み出されるデータを活用する「デジタル」に主役が代わりつつある。

最も顕著なのが、日本人死因の一位を占め、人口高齢化でますます脅威となる今世紀最大の難病、がんの領域だ。本特集では、人工知能(AI)やヒトゲノム解析技術(ゲノミクス)を駆使して、がん制圧に挑むアカデミアやベンチャーの現場を歩きながら、彼らがいまどんな課題を抱え、その先にどんなビジョンを描いているか紹介していく。

 最初に訪ねたのは、東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター長の宮野悟氏。同氏が注目しているのは、「がんゲノム」の異常である(関連記事)。

 ゲノムとは、生物が持つ遺伝情報の全体を指す言葉。ゲノムを構成するDNA(デオキシリボ核酸)は生物の設計図となるものだ。がんの原因を生み出す元でもある。人間の体には約60兆個の細胞があり、それぞれが細胞の設計図となるDNAを持つ。DNAはA(アデニン)、T(チミン)、G(グアニン)、C(シトシン)という4種類の「塩基」と呼ばれる物質がおよそ30億個連なったものだ。この並び方は細胞によって異なるばかりではなく、個人によっても異なることが分かってきている。

 「がん」とは、細胞分裂や紫外線、放射線などによってDNAの配列が変化し、多くの異常が蓄積して生まれる。がん細胞は、無制限に増殖して、本来の場所以外にも転移してしまう異常な細胞である。

 最新のがん治療のスタートは、こうしたゲノムの異常を見つけ出すことだ。なぜ見つけ出す必要があるかといえば、DNAの並び方の異常は、細胞の持つタンパク質の異常と関連しているからだ。タンパク質の異常が分かると、その異常を食い止める薬を使うことができる。

 宮野氏は、シーケンサーと呼ばれる装置で読み取られたDNAの断片を、スーパーコンピューターを使って、ジグソーパズルを完成させるように全体像を解明。その上で、治療につながる異常を見つけ出そうとしている。こうしたプロセスの中でいま適用に着手しているのがAIである。

東京大学医科学研究所の宮野氏(写真:寺田拓真、以下同)

 「がんのゲノムを解析するのは、Googleなど、それを専門とする情報技術の得意な人に任せるようにすべきだ」と宮野氏は話す。宮野氏はもともと数学者であり、情報科学の専門家だ。身びいきではと受け取られそうなところだが、そうとばかりも言っていられない大きな変化が今、白血病の医療には起こっている。がんゲノムの世界が「デジタル」によって新しい展開を見せようとしている。

DNA分析の高速化で対応が限界に

 がんゲノミクスは、DNA分析の高速化と背中合わせで進歩してきた。DNAを読み取るシークエンサーの進化は著しい。ヒトゲノムを読み取るスピードは、全体を読み取るのに1990年代は10年近くかかったが、今や1日へと1万倍近く高速化。コストは20年で3000億円から5万円程度へと1000万分の1程度に激減した。高速化、低コスト化が一挙に進んだ。そうした中で、読み取った膨大な情報に基づいて、どう治療に役立てるかを考えるには、人の目でDNAの並び方を眺めていてはらちが明かなくなっている。

 これまでに世界中の研究者が、ゲノムの特徴と、そこから作られるタンパク質の特徴、さらにそれと関係する薬の特徴を報告してきた。そうした文献は2800万近くに上る。がんゲノムを解析した後、これらの現在までの文献と照らし合わせ、治療の次の一手を見いだす必要がある。従来、このプロセスを人海戦術で行われてきた。しかし、1人の患者のために費やす時間は週単位。東京大学医科学研究所附属病院の外来には100人強の患者が毎日訪れるが、その多くががん患者であり、入院患者もいる。がんのゲノムを調べて、それに基づいた治療の戦略を立てようとしても、とても対応しきれなくなっている。

 「がんのゲノムにおいてボトルネックになっているのは、読み取ったDNAの情報を“解析”して、どんな治療を持っていくのか“解釈”するところとなっていた」。そんな宮野氏の状況はAIの利用で大きく変化した。

IBMワトソンを使い医師の見る目が一変

 偶然に出会ったのがAIだ。宮野氏は2013年、米国のテレビ番組でAIがクイズの回答で圧勝した様子を見て、使われたのは米IBMの「ワトソン(Watson)」をがんゲノムに使おうと即座に思った。AIにも様々な区分があるが、ワトソンは「自然言語理解」ができて、文章に基づいて人間の意思決定を助けてくれるものとなる。

 宮野氏は米IBMと自ら交渉し、2015年に北米に続き初めて日本への導入を遂げた。「ワトソン・ゲノミック・アナリティクス(Watson Genomic Analytics)」だ。東大医科研臨床ゲノム腫瘍学分野教授の古川洋一氏、血液内科教授の東條有伸氏らと協力して、研究としてのAIの活用に着手した。折しも北米でもゲノムへのワトソンの応用の模索が始まったところ。日本では医療用途では規制上問題になる壁もあったが、研究用途として活用に着手した。

 宮野氏らは白血病の医療に生かせるよう、AIの能力に磨きをかけていった。導入当初は白血病のデータをワトソンはゲノムを解釈できるほどに取り込んでいなかったからだ。成果はたちまち見え始めた。

 例えば、ある白血病の患者のゲノム全体を調べたケースは次の通りだ。

●ある白血病患者のケース
    DNA配列およそ30億をシーケンサーで読み取る

    7500カ所の「変異」、108カ所の「構造異常」が見つかる

    AIを使って文献と照らし合わせた結果
    「10分」で治療に結びつく変異を特定

 従来の人海戦術ならば「2週間以上」がかかる事例だ。治療の戦略を立てられるまでの時間が、10分/2週間以上と、2000倍以上に高速化したのである。宮野氏にとっても驚愕の結果だったが、周囲の医師にとってはそれに輪をかけるインパクトを与えるものとなった。

 そうして宮野氏らが手がけてきた患者は約400人に上った。従来法では得られなかった治療方針が次々と示された。ワトソンの導入当初、東大の医師らも「こんなもの使える?」と懐疑的な見方もあったが、そうした認識は一変。価値観の大転換が起きてしまったのである。

 DNAゲノムデータは膨大に存在している。それをいかに分析して、治療に結びつけていくのかは、もはやAIの方が長けている可能性もある。

 自在に操れるエンジニアがもっと必要になりそうだ。AIが医療現場でも必須になるというのは宮野氏の見立てだ。「これからは『AIを使わない医師のもとに患者が来るの?』という時代になるかもしれない」。

「フルゲノムにこそ宝あり」

 宮野氏のチャレンジにはもう一つの側面もある。2011年から始まったことだが、解析のターゲットとして、「フルゲノム(全ゲノム)」を据えているところだ。

 一口に遺伝子検査といっても、幾つかのアプローチがある。がんの分野では、タンパク質を作るための遺伝子に関わる数百程度だけを調べる「パネル検査」が国内でも開発され、一部保険適用がなされている。このほか、タンパク質を作るのに必要な主要な遺伝子を調べる「エクソンシーケンス」、さらに全てのゲノムを調べる「フルゲノムシーケンス」がある。

 AIを駆使して、膨大な情報から異常を導き出せる力を手にした宮野氏は、エクソンシーケンスでさえ2%程度にすぎないことから、98%も含めたフルゲノムシーケンスまで踏み込むべきだと考えている。そこまでしてこそ治療につながる“宝”を見いだせるとみる。

 実際、宮野氏らが対応してきた患者の中には、次のように「フルゲノムシークエンス」解析で初めて異常を見いだされた例も増えている。

●ある患者(卵巣原発腹膜偽粘膜腫瘍)のケース
    100万人に1人のまれな腫瘍
    原因不明

    フルゲノムシーケンスで250万個の遺伝子変異を検出

    ワトソン診断により、100の遺伝子ががんに関連し、
    このうち6つが特に関係するという情報が導かれる

    使用可能な薬としてレゴラフェニブが浮かび上がり、治療可能に

 ゲノム解析の高速化はさらに進んでおり、全ゲノムを解析するコストは既に数万円の水準に下がる。

 ゲノム研究者から最近よく聞くのは次のような意見だ。「もはやゲノム解析は、全ゲノムを見ないと意味がないのではないか。ごく一部を調べても、何も見つからない可能性が高い」。

 全ゲノムを読み取ったときの大きな課題は、それを解読し、治療に結びつけるプロセスに手間が掛かることだが、AIでそうした障壁は取り払われようとしている。「メディカル」の分野のさらなる進化に「デジタル」が欠かせなくなっている。そうした技術への対応は、医療者ができればよいが、シーケンサーで読んだ情報を手作業で解読する以上に、それには知識やノウハウでの限界はあって当然だ。

 宮野氏がGoogleのような専門家に任せるべきだというのは、そうした人材をゲノム医療の分野に引き入れたいという、教育者としての思いは当然あると思うが、それを割り引いても、医療分野の情勢は、デジタルを必須とする方向に動いているといっていいかもしれない。

 それを証明するように、宮野氏のもとには他の医療機関で治療方法が見つけられなかった白血病患者がやってきている。さながら“駆け込み寺”のように。デジタルに裏打ちされた医療が、「他にない医療」になっている。ここには「未来」が見えているのかもしれない。高速化した「次世代シークエンサー」、読み取った情報からゲノム情報を得るための「スーパーコンピューター」、さらにそこから情報を解釈する「AI」はさながら“三種の神器”。

 米インダストリーARC社によると、こうしたシークエンサーをはじめ遺伝子関連装置の市場規模は2018年に160億ドル(約1兆8000億円)。年率10%前後で急成長すると予測されている。並行して、AIの活用も欠かせなくなり、その市場も広がってくる可能性は高い。

(タイトル部のImage:ipopba / Design Cells -stock.adobe.com)