3人で敷いた背水の陣

 そもそも三井情報のバイオ事業の歴史は長い。同社は、1967年に三井物産の情報システム部門が独立した三井情報開発に端を発する。1970年代の石油危機に伴って多くの企業がバイオ事業をはじめとした新規事業に続々と着手したことがあったが、ちょうど三井情報がバイオ事業に乗り出したのも1975年のことだった。

 ゲノム事業は1990年代に盛り上がったが、2001年には国際プロジェクトとして進められてきた「ヒトゲノム計画」が完了。13年をかけて日本円で3000億円が投じられ人間のゲノムが全解読される。

 全解読が済んだということで、国内では「金のかかるゲノム研究はもうやらない」という雰囲気が強くなり、ゲノム研究の勢いが一気に萎んでいった。また、2007年に京都大学の山中伸弥教授によりヒトiPS細胞が作製されたことが大きな注目を集め、研究費予算も一気にそちらに流れていった。この期間についてはゲノム研究者の間で「忘れられた10年間」と呼ばれているほど暗闇時代となった。

 三井情報でも、そこから現在のがん遺伝子検査の事業に着手するまでには10年の歳月がかかった。2013年、バイオ事業を背負った一人が若い研究者、佐久間朋寛氏。現在でこそ、ソリューションナレッジセンターバイオサイエンス部ヘルスケア事業室室長として、遺伝子検査事業を引っ張るが、当時は1000人を超える企業にあって、当該部署はわずか3人にすぎなかった。

三井情報の佐久間氏(写真:寺田拓真、以下同)

 「2000年代にはゲノム解析で数年の予算がついたものの事業は縮小傾向にあった。そこからもう一回やらせてくれ、と背水の陣で臨んだのが、がんのゲノム解析だった」と佐久間氏は振り返る。その後、佐久間氏を除く2人は会社を去った。

 クモの糸と言えるのが、がんの遺伝子検査を事業化するというものだった。2010年代に入り、米国では「プレシジョンメディシン」が医療の中で重視され始め、遺伝子検査は事業として注目され始めていた。数百の遺伝子に絞り込んで、読み取ったゲノム情報から解析結果を出すというもので、「パネル検査」と呼ばれた。医療従事者から見ると、データ解析などハードルは高くも見えたものだが、ゲノム解析に関するシステムエンジニアリングを強みとする佐久間氏らからは「手のつけやすい事業」と見えていた。

 佐久間氏は「ゲノム解析のコストも下がってきており、裏側で使われているデータベースも想像ができた。日本では基準もなかったので米国で検査を手がける安定した企業を探した。三井物産と連携し、米国企業である臨床検査大手のクインタイルズとの協力を取り付けるに至った」と言う。

 新しく注目されたパネル検査の開発動向について“ブラックボックス”だと尻込みしなかった。自社の強みを基礎として新しい事業を創出するために必要なものを求め、異国での協力の輪を広げていったわけだ。主導したのがIT企業であったのは興味深いところだ。