がんの遺伝子検査の実用化は、細胞のDNA配列を読み取る装置「シーケンサー」の進化なしにはあり得なかった。2001年のヒトゲノムの完全解読から18年が経過。当初13年かかった解読時間はこの20年間で1日程度へと大幅に短縮され、コストも3000億円かけられたものが数万円へと激減した。シーケンサーの低コスト・高速化は今後どこまで進むのか。解読を1時間、1万円を切るレベルまで下げようと技術革新を進めるバイオベンチャーを訪れた。

 そもそも遺伝情報はどのように読まれるのだろうか。

 人体の設計図と呼ばれるDNA(デオキシリボ核酸)は、「A(アデニン)」「T(チミン)」「G(グアニン)」「C(シトシン)」という4種類の「塩基」と呼ばれる物質がおよそ30億個連なった巨大な分子。その直径はわずか2.5nm(ナノメートル、ナノは10億分の1)。この細い鎖のようなDNAの「ATGC」の並び方は、「シーケンサー」と呼ばれる専用の装置によって読まれている。この解析方法が最初に発明されたのは1970年代。後にノーベル賞を受賞するフレデリック・サンガー氏によるものだった。

 シーケンサーの基本的な原理は、DNAが「AとT」「CとG」とで対になる性質を利用するというもの。ATGCがつながったDNAと対になるようにATGCを1対1で対応させていき鎖を延ばしていく。そうしてATGCがどのような順番でついていくかを検出することでDNAの並び順を確認する。最近の技術では、蛍光を出す標識をATGCにつけて、レーザー光を当てて検出する方法により高速化を実現している。

 このシーケンサーの進化をさらに推し進める動きはまだ続いている。日本においてもそうした挑戦を続けてきた企業がある。シーケンサーをより身近なものにしようと奮闘する会社、Quantum Biosystems(クオンタムバイオシステムズ)だ。

 代表取締役社長の本蔵俊彦氏は東京大学でヒトゲノムの研究に当たった後、コンサルティング会社など民間企業の経営支援に携わっていた人物。コンサルティングの仕事に携わってからもゲノムの分野の発展に注目し続けていた。その後、大阪大学産業科学研究所の谷口正輝教授らの、電気を使ったナノスケールの1分子解析技術の研究成果を見て、その技術を生かしたシーケンサーを世に出そうと決意。2013年に会社を興した。

図1 クオンタムバイオシステムズが開発するシーケンサーのイメージ図(クオンタムバイオシステムズのホームページから、同社の許諾を得て掲載)

 その技術の特徴は、今主流となっている光の技術ではなく、電気の性質を応用しようとしている点だ。DNAの鎖を小さなトンネルにくぐらせる。4種類の塩基は、それぞれ流れる「トンネル電流」が異なることが知られており、その変化からDNAの種類を見分けていくというものだ。

 ATGCのつき方から間接的にDNAの種類を見分ける従来法と比べると、直接DNAを見分けていく違いがある。

「1時間1万円以下でヒトゲノムを」

 「光を使ったこれまでのシーケンサーでは、性能の高いレーザーやCCDカメラを必要とし、その価格も高く、どうしても検査費用も高額になる。電気を計測する仕組みとすることで安価に抑えられ、検査費用を大幅に引き下げる」というのが本蔵氏らクオンタムバイオシステムズの目指すところだ。

 さらに、これまでにない解析も可能にしようとしている。トンネルを通るDNAを次々と読めるので、一挙に長い鎖のままのDNAを読み取ることができる。主流の次世代シーケンサーは、より短い鎖をばらばらに読んで、コンピューターでつなぎ直すような仕組みが多い。例えると、シュレッダーで刻んだ紙の紙片を読んで、あとでつなぎ直すイメージ。この仕組みだと、同じパターンが長く続いているような部分があると、どれくらいの回数続くかは読み取れない。そうした繰り返しは遺伝子の変化を起こしやすく、がんなどとも関連していることが分かってきている。正しく読むことで治療に生かせる。

 その上に、これまで読み取れなかったDNAの「エピジェネティクス」の変化を読み取ることが可能であるのも大きい。DNAには、その働きをオンオフにするスイッチ機能があると知られている。DNAを構成しているATGCのうち「シトシン(C)」につくメチル基がそんな働きをする。こうした変化はエピジェネティクスと呼ばれるが、電気を使う方法だと、電気的な変化からメチル基を区別できる。

クオンタムバイオシステムズ 代表取締役社長の本蔵氏(写真:川島彩水、以下同)

 本蔵氏は、「がん細胞のおいてはエピジェネティクスの状態が刻々と変わる。その変化を追う必要があるが、いまだによく分かっていない。その状態が簡単に読めれば、ゲノム医学に大きな変化となる。例えば、新しい薬の開発するための検討材料にもなる」と話す。

こだわりは大切だが、こだわりすぎないのも大切

 本蔵氏らは2022年に製品化の目標を置く。創業から6年、幾つかの転機について本蔵氏は説明する。

 一つは、DNAを読み取る基準を緩やかにしたことだ。DNAの鎖をトンネルに通していくが、もともと1nmという緻密なコントロールを行っていた。一方、あまりに細か過ぎると、製品にわずかなエラーがあっただけでも不良品と見なされる。事業とするには、不良品が多くなっては成立しない。コントロールする幅を20nmと余裕を持たせ、歩留まりを改善させることで事業性を高めた。こだわりは大切だが、あまりに縛られると成功は手から離れていく。

 さらなる転機は、半導体メーカーとの提携である。米国や台湾の半導体企業と協力して、半導体の基板の上にDNAを検出する電気的なセンサーを何億個も集積していく。性能を高め、原価も下げるために欠かせない連携となった。本蔵氏は「自動車で言えばF1を作るのではなく、汎用車を作るための体制は必要」と言う。自前主義で特注品を作るのではなく、競合も多いシーケンサーの市場でも勝ちにいける安価な製品をうまく出せる体制を整えていった。

 そうした中で、さらなる転機は、2015年に研究拠点を大阪から米国シリコンバレーに移したところだ。シリコンバレーは情報技術で有名だが、ゲノム解析でも有力企業が集まる。ゲノム解析の技術に長けた人材も豊富。必要な人員を拡充するために飛び込んだ。それはシーケンサーの事業化を近づけるためのチーム形成につながったという。米国の西海岸は、人件費や土地代の高騰などが言われ、一歩を踏み出すのはやさしいことではないはずだ。ベンチャーでありながら、そうした決断をするのは難しかったかもしれない。そこは、民間のコンサルティング会社に務め、米国での土地勘もあった本蔵氏の裁量によるところは大きかったようだ。

 本蔵氏は「近くに競合企業も多いが、ライバルというよりも、先方からすれば、買収対象であり、提携対象という世界になっている。自分自身も提携して共同開発してもいいと考えている。成功の定義は必ずしも自前主義ではなく、さまざまな可能性を考えている」と説明する。GAFA(Google、Amazon、Facebook、Apple)と呼ばれる情報技術の大手企業などもゲノムの情報に関心を持っているという。ビッグデータとして遺伝情報が重要になる中、安価に自社のツールで遺伝情報を扱う仕組み作りは事業チャンスをもたらしてくれるのだ。

 こだわりは大切だが、こだわりすぎないのも戦略次第では大切になる。

将来は食品への応用も視野に

 本蔵氏は、シーケンサーを誰にでも使えるようにしたいと考えている。「コンピューターもかつては冷蔵庫のような大きさで、研究者でなければ使えなかった。それはシーケンサーも同じ。パソコンのように使えるようになったらどうなるかを考えている」(本蔵氏)。ゲノムは生きているありとあらゆるものが持っている。医療をはじめ、腸内細菌も持っている。最近ではゲノム技術の食品への応用が米国では注目される。肉の味のする植物のような研究も進む。さらに、エピジェネティクスの領域も重要視されるようになっている。がん細胞ではエピジェネティクスの変化が次々と起こってくる。それを追っていくのはビジネスの観点からも大切だ。

 よく分かっていない領域だからこそやる価値は増大する可能性がある。新技術の登場により、全く新しい世界が広がることはよくある。

 実用化が待たれる電気によるシーケンサーだが、創業から6年間は研究開発を先行させる状態が続いた。投資企業などからの資金を受けながら苦闘の時期が続いているのも確か。クオンタムバイオシステムズは、社外からの投資を2014年に4億5000万円、2015年に24億円、2018年に890万ドル(日本円で約9億6000万円)受けてきた。外部資金が支えるが、どの会社でも必ず得られるものではなく、裏を返せば、それだけ期待も大きいということだろう。

 本蔵氏は、「ハイテクの企業経営陣から、スピード感をもってやる人が社内にいないと聞くことがよくある。知的財産を使い、新しい事業を立ち上げたり、戦略を構築して連携をしたりすることが多くの企業で求められていると感じる」という。形にするまでは、主導している当事者は苦しい時間を過ごさなければならない。成功が約束される新事業などない。それを知った上で、身を切る覚悟で道を拓くリーダーは必要だ。

 新しい世界を開くのは勇気がいる。それを後押しする会社の仕組みが作られていなければいけないし、新しい動きを社会も支えていけるか問われている。次回は、ゲノム分野のさらなる発展の鍵を握りそうな新テクノロジーに懸けるベンチャーを訪ねる。

(タイトル部のImage:ipopba / Design Cells -stock.adobe.com)