ゲノム解析技術の飛躍的な進歩により、誰もが自身のゲノム情報を手にする時代になった。そのインパクトを一般の人はもちろん、医師でさえもまだよく理解していないのが現状だ。熊本大学、京都大学の教授、理化学研究所の要職を歴任し、今も日々新たに発表される科学論文をウオッチしている西川伸一氏は「がんはゲノムの病気であり、ゲノムを知らずにがんとは戦えない。日本は遅れている」と危機感を募らせる。本特集の最終回では、ゲノムがもたらす近未来を知るために、西川氏のもとを訪れた。

 西川氏は現在、医学や医療の知識の啓発を目的とするNPO法人、オール・アバウト・サイエンス・ジャパン(AASJ)の代表を務めている。

 こうした活動の一環として西川氏が力を入れているのは、毎日更新する「論文ウォッチ」と名付けたコラムだ。『サイエンス』誌や『ネイチャー』誌、『セル』誌をはじめ、国際的にトップの評価を受けている論文はもちろん、医学の領域で注目すべき最新の知見を収集。そこからのエッセンスを自身のこれまでの研究の経験を踏まえ、独自の解釈を加えて発信している。微に入り細を穿つ内容は、海外の情報を集めたいと考えている専門家ばかりではなく、そうした知識に普段触れないような人たちの関心をも引きつけている。

「遺伝子パネル検査」の先は

 西川氏は「がんはゲノムの病気であり、ゲノムを知らずにがんとは戦えない。日本だけがゲノムの研究が止まっているのではないか」と手厳しい。日本では、がん遺伝子検査が保険適用となったばかりだが、西川氏はその先を見据える。

 西川氏が注目するのは「エクソーム検査」である。ゲノムは大きく、命を保つために必要なタンパク質に翻訳される部分の「エクソン」とそれ以外の部分の「イントロン」に分けることができる。がんの多くは、このエクソンのDNAに変異が起きて発生する。同氏は、数百個の遺伝子を調べることができる保険適用の「パネル検査」にとどまることなく、さらにエクソンの部分すべてを調べる「エクソーム検査」を当たり前にしていくべきだと強調する。エクソーム検査であれば、主要な遺伝子の状態をほぼカバーできる上に、ゲノム全体のうち2%を調べるだけで済む。全体を調べるので、パネル検査のように特許のライセンスを受けずに解析を進められるのも大きい。

NPO法人オール・アバウト・サイエンス・ジャパン(AASJ)代表の西川氏(写真:岡崎利明、以下同)

 さらにゲノム全体を調べる「フルゲノム検査」もあるが、西川氏は費用対効果も踏まえればエクソーム検査までを行うのが妥当とみる。遺伝子の突然変異は多く存在するものの、細胞の増殖や生存とは特に無関係である場合も多いと考えるからだ(こうした無関係の遺伝子変異はパッセンジャー変異という)。

 「エクソーム検査を導入すれば、薬の効果や治療をした後にどれくらい生き続けられるかを知ることもできると分かってきている。がんを治療するための薬は値段が高い。効くかどうかも分からずに気休めに使うことは問題。まずはゲノムを知って、効果が見込める人に使う体制を整えなければならない」と西川氏は話す。

胎児から墓場までのゲノムを読める時代に

 「胎児から墓場までのゲノムの情報を読める時代になっている」と西川氏。次世代シーケンサーの登場により、ヒトゲノムを読むのにかかる時間は、ヒトゲノム計画が完了した2001年までの13年間から、1日のうちに読めるように変化。コストも3000億円から10万円を切るまでになった。身近になるゲノムの情報を単に蓄積しているだけではなく、活用していくことが欠かせない。

 「ゲノム検査の次の段階は、患者さん自身が遺伝情報を持って健康サービスを受けられるようにすること」と西川氏は言う。海外では様々な動きが進んでいる。例えば、米国で電子化された患者記録を使って多くの健康サービスを提供しているゲイシンガー・ヘルス・システム(Geisinger Health System)という会社は、顧客が自分のエクソームの遺伝情報と健康情報を組み合わせて利用できる仕組みを作り上げている。2016年の時点で既にそうしたサービスを使える人が5万人にも上った。

 このほか英国では、100万人分のゲノムデータと健康情報を集める「UKバイオバンク」を推し進めて、既に50万人規模の情報を集めている。単に集めるばかりではなく、国内はもとより、海外からの研究対象としての利用も可能となっており、遺伝情報から身長を予測するユニークな研究から、脳の画像との関連性を分析して病気の診断に生かしていくなど、論文報告による活用が続く。遺伝子のデータを使い倒す動きが加速しているのである。

 西川氏は、ゲノムを多くの人が読む時代が来ると、社会の価値観も大きく変化すると、未来を展望する。

 がんの領域とは異なるのだが、例えば、世界では、思わぬ形で凶悪犯を発見できるような珍事も起きた。

 過去の強姦殺人犯人の体液から得られたDNAデータを、米国のGEDマッチ(GEDmatch)というDNA分析システムで分析したところ、犯人の情報は得られたなかったものの、犯人の親戚がデータベースから浮かび上がったのだ。ここから芋づる式に40年近くにわたる未解決事件の犯人が捕まり、2018年にニュースで取り上げられて大きな注目を集めた。

 それはどういうことかと言えば、データだけで血縁関係を割り出せるということ。世代を重ねてもゲノム上に共通の配列が必ず残っているためだ。米国でマイヘリテージ(MyHeritage)という企業の報告によると、130万人近くのゲノムのデータベースを使えば、データを見るだけで誰が親戚同士かを75%の確率で特定できるとということも研究から明らかになっている。

 「警察はこれまで捜査のためにお金をかけていたが、そうした問題をゲノムが一挙に解決してくれたことになる。そのほかの分野であっても、従来は考えもつかなかったことが起こる時代になる」と西川氏は指摘する。

1細胞RNAシーケンス法、遺伝子バーコーディングとは

 さらに注目されているのは、1つの細胞ごとのゲノムを解析することで開かれる新しい世界だ。西川氏は「新しい技術を使うことで全く発想は変わってくる」と重ねるように指摘する。

 一つは「1細胞RNAシーケンス」。細胞の中では、DNAからタンパク質を作り出すときにRNA(リボ核酸)と呼ばれるものが作られている。直接DNAからタンパク質を合成するのではなく、このワンクッション置く仕組みによって複雑なタンパク質を作り出すことができている。この仕組みをうまく利用し、RNAを調べることで、細胞の中でどんな遺伝子、どんなタンパク質が働いているかを見ることができるのだ。そうした分析はこれまでも行われていたが、シーケンサーの進化や解析技術の開発によって、微小な1細胞単位で調べられるようになっている。

 これによって、従来考えられなかったくらい精密な分析が可能となる。例えば、がんであれば、その中には異なるゲノムを持つがん細胞が混在していると分かってきている。これまではそれらをうまく調べられなかったが、1細胞RNAシーケンスにより把握することが可能となった。徹底的にがん細胞を調べることで、よりきめの細かい治療を実現できる可能性がある。

 さらに「細胞バーコーディング技術」も発達が著しい技術の一つだ。ゲノム編集の技術を応用することで実現した新しい技術である。細胞の中にあるDNAの中に、文字通り「バーコード」のような働きをする「細胞を区別できるエリア」を作るのである。細胞の成長などに合わせてバーコードを作り替え、細胞の変化を追跡可能とするのである。この技術によって、人間がどのように成長するかを目で見れるようになるほか、がんの領域であっても、がんがどのような変化をしていくのか、がんの転移がどのように起こるのかといった動きを目で確認できるようになる。

 「日本も遅れてはならない」と西川氏は言う。がんとゲノムの世界の進化は続く。そこにどう関わっていくのか、知らないでは済まされない。

(タイトル部のImage:ipopba / Design Cells -stock.adobe.com)


【筆者】

星 良孝 <ステラ・メディックス>

ステラ・メディックス:専門分野特化型のコンテンツ創出を事業として、医療や健康、食品、美容、アニマルヘルスの領域の執筆・編集・審査監修をサポートしている。代表取締役の星良孝は、東京大学農学部獣医学課程を卒業後、日本経済新聞社グループの日経BPにおいて「日経メディカル」「日経バイオテク」「日経ビジネス」の編集者、記者を務めた後、医療ポータルサイト最大手のエムスリーなどを経て、2017年に会社設立。 http://stellamedix.jp/