生命の活動には、実は明らかになっていないことが数多い。その仕組みをコンピューターの活用で解き明かし、我々の社会に役立つ商品やサービスに実装しようという動きが加速している。こうした動きを世界的に牽引してきた組織が、山形県鶴岡市にある慶應義塾大学先端生命科学研究所(IAB)である。本特集では、IABの「世界的スタートアップ企業を育む環境」「次世代研究者の育成」「地域社会への貢献」に焦点を当て、コンピューターによる生命科学の解明と社会実装の最新状況を解説する。

山形県鶴岡市にある慶應義塾大学先端生命科学研究所のバイオラボ棟(写真:向田 幸二、以下同)

 大量のデータとコンピューターを使って、ヒトを含む生命活動の仕組みを理解し、社会実装する──。コンピューターの処理能力の指数関数的な向上、あるいは深層学習によるAI(人工知能)の進化によって、多くの「生命活動の謎」が分かるようになってきた。単に生命活動を解明するにとどまらず、一部の研究成果は商品やサービスとして社会に実装され始めている。

 コンピューターによる生命科学分野の解析といえば、「ヒトゲノムプロジェクト」に代表されるゲノム解析が有名だが、その領域はゲノム解析にとどまらない。代謝物質の解析(メタボローム)、腸内細菌叢(腸内フローラ)、たんぱく質の解析(プロテオーム)など、解析の対象は多岐にわたる。応用先も、医療・ヘルスケアのほか、食品、農業、工業製品など様々だ。

 その取り組みの世界的先駆けが、山形県鶴岡市にある慶應義塾大学先端生命科学研究所(IAB)。2001年にIABが発足した当初は、「効率がいい実験系を設計し、最小の労力で結論を導く」という当時の常識を覆す、「すべての代謝物のデータを測定し、解析する」という方向性を掲げたこともあり、そのアプローチを疑問視する向きもあった。

 しかし、コンピューター能力の飛躍的な向上が、非常識と思われたアプローチを常識にした。IABがメタボローム解析の技術を独自に開発するなど成果を上げることなどにより、そのアプローチは徐々に受け入れられ、定着していく。今では、生命活動の解明におけるコンピューター利用は当たり前となり、そのアプローチに疑いを持つ人はいない。

バイオラボ棟内にある解析装置群

 そして今、生命活動の解明をもとにした事業が数々生まれ始めた。血液検査からうつ病を簡便に検査しようとするヒューマン・メタボローム・テクノロジーズ(HMT)、唾液を用いたがん疾病のリスク検査を推進するサリバテック、個々人の腸内環境に合わせた健康維持・疾患予防などを手掛けるメタジェンなど、IAB発のスタートアップ企業が続々と成果を生み出している。

 人の健康に向けたビジネスだけでなくその周辺においても、成果が生まれている。例えば、設立当初「人工のクモ糸」の開発で知られたSpiberは、植物由来のセルロースである「コットン」と、同社が生み出した微生物由来のプロテイン「Brewed Protein(ブリュード・プロテイン)」で作られたTシャツをゴールドウインと共同開発、2019年夏に発売した。