血液検査からうつ病を簡便に診断、唾液を用いたがん疾病のリスク検査、個々人の腸内環境に合わせた健康維持・疾患予防、微生物を用いて発酵生産したたんぱく質繊維を素材に使ったTシャツ──。生命活動の解明を研究対象とする慶應義塾大学先端生命科学研究所(IAB)から巣立ったスタートアップ企業から、「Beyond Health」領域において数多くの成果が生まれ始めている(関連記事)。生命科学分野においてIABが果たしてきた役割、IAB発スタートアップ企業の根底に流れる思想、そしてIABが目指すものは何か。これらは、IAB設立当初から所長を務める冨田勝氏の言葉抜きには語れない。

冨田所長。バイオラボ棟内にある解析装置群の前で(写真:向田 幸二、以下同)

「賢い研究者がやることではない」とまで言われた

コンピューターを活用した生命活動の解明は今や当たり前になっていますが、慶應義塾大学先端生命科学研究所(IAB)が設立されたのは2001年です。当時の状況をお聞かせいただけますか?

 生物データを網羅的に取得してその大量のデータをコンピューターで理解する、という「データドリブン」(データ稼働型)の研究所は、2001年当時、世界でもIAB以外にありませんでした。

 IABでは、遺伝子を網羅的に解析する「ゲノム解析」、たんぱく質を網羅的に解析する「プロテオーム解析」に加えて、代謝物を網羅的に解析する「メタボローム解析」の技術を独自に開発しました。血液や尿をメタボローム解析すると、その人のその時の体調が分かります。今では世界中で一般的に使われている技術ですが、2001年当時は「メタボローム」という言葉すらありませんでした。私たちが作った言葉なのです。

 私には、生命科学はデータドリブンが主流になるという確信がありました。そしてメタボローム解析がそのカギになると考えました。そこで当時大手分析機器メーカーに勤務していた曽我朋義氏に声をかけ、鶴岡で一緒にやろうということになりました。

 私が「とにかく、できる限り全部の代謝物を一度に測定したい」と言うと彼はびっくりしていました。「全部測りたいなんて言う人は初めてだ」という反応です。それでも2002年にCE-MS法というメタボローム解析法が完成し、特許をとってヒューマン・メタボローム・テクノロジーズ(HMT)という企業を立ち上げました。CE-MS法とは、キャピラリー電気泳動(Capillary Electrophoresis)と質量分析計(Mass Spectrometry)を組み合わせた技術です。

 サンプル中の代謝物を全部測るということに対して、当時の偉い先生方から苦言を呈されました。「そもそも生物学とは仮説検証型の学問である。まずは頭を使って仮説を立て、それに基づいてなるべく効率いい実験系を設計し、最小の労力で最大限の結論を導くことが、生物研究の醍醐味である」というのです。仮説もないまま全てを測定するなんてことは、賢い研究者がやることではない、とまで言われました。。

 しかし私は、生物という複雑なシステムを理解するためには、データドリブンでなければならないと確信していました。そして今ではメタボローム、トランスクリプトーム、プロテオームなどを総合したオミックス(網羅的な生体分子情報)のバイオロジーは当たり前になりました。オミックスを使わないバイオの研究はあり得ない状況になっており、今ではデータドリブンのバイオロジーを批判する人はいません。