慶應義塾大学先端生命科学研究所(IAB)の特徴、そしてIABらしさを知るには、IAB出身のスタートアップ企業を知るのが手っ取り早い。IAB発スタートアップ企業紹介の第1弾は、2013年に上場を果たしたヒューマン・メタボローム・テクノロジーズ(HMT)。HMTは「バイオマーカー」と呼ばれる、病気の変化や治療の指標となる、血液や尿などに含まれる生体内物質に注目、精神状態をはじめとした健康の指標づくりに注力している。

メタボロームへの着目は「1個飛ばし」の発想から生まれた

 ヒューマン・メタボローム・テクノロジーズ(HMT)の主力事業領域は、社名にもあるメタボローム、すなわち代謝物の網羅的な解析である。同社は、慶應義塾大学先端生命科学研究所(IAB)が確立した「キャピラリー電気泳動-質量分析(CE-MS)」法を用いたメタボローム解析を手掛けている。CE-MS法により、細胞や組織中に存在する代謝物の一斉分析を可能にしたことで、世界から注目されている。

 新規事業のテーマとしてメタボロームに注目する企業は増え続けており、共同事業開発のパートナーとして声がかかることが多いという。メタボロームの応用先は、医薬、食糧、環境、エネルギーなど幅広い。

ヒューマン・メタボローム・テクノロジーズ(HMT)代表取締役 社長の菅野隆二氏(写真:HMTが提供)
ヒューマン・メタボローム・テクノロジーズ(HMT)代表取締役 社長の菅野隆二氏(写真:HMTが提供)
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 ただし、以前の注目度はさほどでもなかった。「HMTが設立された2003年ころ、代謝物を測定・分析するような取り組みはほとんど無かった」。こう語るのは、同社代表取締役 社長の菅野隆二氏である。当時、生命の活動を解き明かす指標のうち、多くの人が注目していたのがゲノムであり、たんぱく質。

 HMTとしては競争が激しくなっていた両分野を避けた形だ。「IABの冨田所長が、“1個飛ばし”の領域なら勝てるチャンスがある』として、次世代テーマと注目した代謝物の解析に注力することにし、画期的な測定法を確立した」(菅野氏)という。

「健康状態のモニタリング」に新しいチャンス

 メタボロームに関して菅野氏が「ここ最近の大きな動き」とするのが、健康状態のモニタリングである。一般的な健康診断で測定できる、特定の疾病の可能性やリスクを示す指標ではなく、健康(心身ともに健やかな状態)を示す指標(バイオマーカー)づくりだ。多くの場合、生活習慣の乱れなどから免疫力が落ちて発病することに注目、心身の変化を数値化して異変をいち早く捉えようという取り組みである。

 HMTは、同社のバイオマーカーの注力領域として「精神・神経疾患(うつ病など)」「がん」「炎症性疾患」「感染症」の4領域を挙げているが、この数年間、特に力を入れるのが、精神・神経疾患領域の可視化。この領域に着目したのは、患者が多く社会的な損失が大きい割に、アプローチが少ないからだという。

HMTによるバイオマーカーの注力領域(図:Beyond Healthが作成)
HMTによるバイオマーカーの注力領域(図:Beyond Healthが作成)
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 現在、うつ病の診断は専門医の問診によって行われている。HMTでは、ここにバイオマーカーとして「リン酸エタノールアミン(PEA)の血中濃度」を持ち込んだ。川村総合診療院の川村則行院長との共同研究によって、うつ病(大うつ病性障害)の患者においてはPEAの顕著に低下することを証明したのだ。さらに、治療経過に応じた変動も認められることから、うつ病のバイオマーカーとしての有用性が示されているという。

 現代社会においては、うつ病の社員を抱え、その対応に苦慮している企業は多い。菅野氏は「そうした組織では、例えば、PEAを継続的に測定し、復帰時期の指標になればいい」とする。

食品メーカーからの引き合いが急増

 メタボロームの応用先として医薬、食糧、環境、エネルギーを挙げたが、「特に引き合いが増えているのが食品会社」(菅野氏)である。食品会社が期待することは、食事による病気の予防や、食品ブランド価値の数値化だという。

 病気予防の観点で言えば、「医食同源」と言われるように、健康と食は密接な関係にある。健康状態に影響を及ぼす要因として挙げられるのが、食事、運動、睡眠、ストレスの4要素。遺伝的な疾病リスク要因があったとしても、これらの生活習慣を変えることで、病気の発症リスクを低減することができる。

 しかしこうした生活習慣の変化に伴う健康状態については、「インデックス的なものがない」(菅野氏)のが現状。健康状態を何らかの方法で数値化すれば、食品会社としては「特定の食材による健康状態の改善」を示すことができるというわけだ。

 食品会社が注目する、もう1つのブランド価値については、「美味しさ」「品質」を数値化しようという取り組みである。

 一例が、鶴岡市が位置する山形県庄内地方の名産品「だだちゃ豆」の保存と輸送に関する取り組みである。IABとJA鶴岡との共同研究では、鶴岡から東京まで輸送して販売することを想定、保存温度と保存時間をパラメータとして、「甘み」「旨味」「香り」に関する味の評価とメタボローム解析による成分変化の分析を実施した。両者の取り組みでは、皮の硬さに影響を及ぼす可能性のある代謝物が、保存条件によって大きく変化することが分かったという1)

世界的には中国の台頭に注目集まる

 メタロボロームに関して、海外での比較ではどうか。現在、HMTの競争相手としては、米国のメタボロン、オーストリアのバイオクレイトス・ライフサイエンスがあるという。日・米・欧に主要1社、という状況だ。これは、「地元企業のほうが検体を集めやすいという特性があるから」(菅野氏)。

 国・地域別に比較した場合、研究のための予算として、米国は全米衛生研究所(NIH)が多額の資金を投下している。市場規模としては、米国市場が日本の5倍くらいあり、圧倒的だという。ただし、今後数年の市場を見た場合、「中国が、圧倒的なスピード感と投資力でトップになる」(菅野氏)とみられている。「少なくとも、論文の数では米国を抜いた」(菅野氏)といい、各社とも中国市場をどう攻略するか考えているという状況にある。

 彼らとの比較で、菅野氏が「日本が圧倒的に進んでいる」というのは食品領域だ。日本市場では、食品間の細かな違いを区別した商品やサービスが好まれる傾向にあり、その違いを示すためにメタボロームを活用したい企業が多いのだという。「規模の大小に関わらず、弊社や鶴岡を訪ねる食品企業が多い。これは日本の特徴的なところ」(菅野氏)。

 食品領域と並んでもう1つ注目するのが、「長寿に対する予防的な領域」(菅野氏)。いち早く確立できれば先駆けられるとして、インデックス作りを急ぎたいとした。

HMTが描く未来は「予防的社会」

(出所:HMT)
(出所:HMT)
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 HMTが描く最終ゴールはどこにあるのか。菅野氏は、「代謝物や遺伝子情報から、健康に関するポテンシャルリスクがどれくらいなのか分かる世界の実現」だという。数多くの被験者データをもとにした統計情報(コホート)も加味し、「このパターンの人なら、今後ある病気になる可能性はどれくらいあり、生活習慣の改善により遅らせられる」など予測シミュレーションができることだ。

 その実現のために期待するのは、代謝物を簡単に測定できるセンサー技術という。センサーによっては、日々のバイオマーカーの変化をスマートフォンに登録して異変を察知できるようにし、運動や食品摂取などの生活習慣をダイナミックに変化させられるようになるかもしれない。

 「健康への意識が低い人でも、“今のままの生活を続けたらこうなる”と言われたら、何らかの手を打つはず。予防医学的な観点で、医療費を抑制したい」(菅野氏)のだとした。


[参考文献]

1)曽我、平山、杉本、「メタボロームが解き明かす生命のシステム」、KEIO SFC JOURNAL Vol.15 No.1 2015.

(タイトル部のImage:ヤマガタデザイン)