次世代シーケンサーの進歩により短時間かつ安価に得られるようになったヒトゲノムデータを、ヘルスケア現場に活用する動きが活発化している。だが、ゲノムに関する情報は個人情報あるいは要配慮個人情報になり得るため、慎重な取り扱いが求められる。現在、国主導でがんや難病の全ゲノム解析などのプロジェクトが推し進められているが、データ収集で世界に遅れを取る日本がどこまで巻き返せるか──。本特集では、ゲノムデータを使う意味を改めて考え、日本版ゲノム活用戦略が成功するカギを、活用シーン別に探っていく。まずは、全従業員を対象にゲノムデータや健診情報の提供を募りデータベース化を図る東芝を訪ねた。

 2019年5月、東芝(東京都港区、代表執行役社長:綱川智氏)は全従業員の希望者を対象に、ゲノムデータや複数年の健康診断結果などの情報提供を呼び掛けることを発表した。目標は数万人規模。それらのデータはセンシティブな情報であるだけに異例だ。

 なぜ東芝はそんな大胆な策に打って出たのか。プロジェクトの責任者であるライフサイエンス推進室長の雨宮功氏(研究開発本部本部企画部)と、新規事業推進室長の米澤実氏(サイバーフィジカルシステム推進部)に話を聞いた。

ゼロからの出発

 同社の今のゲノム事業の源流は2013年、東北大学での産学連携機構イノベーション戦略推進センター革新的イノベーション研究プロジェクト(COI東北拠点)の発足に遡る。そこに東芝が参加した。当時、東芝全体がヘルスケアの新たな事業の芽としてゲノムに注目。印刷やセンシング技術を手掛けていた雨宮氏は、そうした技術の上にゲノムの応用を検討することになった。

 まず着手したのが、「SNP(一塩基多型)」と呼ばれる、ある集団でその頻度が1%以上存在する遺伝子変異を調べるサービスだ。日本人のみが保有している特徴的なSNPをターゲットに設計された検査方法を採用。その数はおよそ66万。東北地方で行われてきたゲノム解析の国家プロジェクト、東北大学東北メディカル・メガバンク機構が構築した「日本人全ゲノムリファレンスパネル」によって導かれたラインアップだ。

 COI東北拠点は、その情報に基づき、ゲノム解析ツールを作った。半導体を用いて約66万カ所の情報を解析できる装置で、その名も「日本人の配列」を意味する「ジャポニカアレイ」。さらに、「インピテーション」と呼ばれる手法により、約66万カ所と連鎖している全体で約650万カ所のSNP情報を把握することができる。日本人に特有な体質や疾患の関連遺伝子の探索を行うことで、個人の疾患に応じた生活指導や、副作用のリスクに応じた治療薬選択など個別化医療・予防の実現が可能になる。

 まさにこれを武器に新事業を拡大しようという中で、東芝は試練に直面する。2015年に発覚した会計不祥事をきっかけに事業再編を進めざるを得なくなったのだ。2016年に医療関連子会社だった東芝メディカルシステムズをキヤノンに売却。外部から見ると、東芝は医療分野から手を引いたようにも見えた。ゲノムも影響を逃れられない運命にさらされた。

日本企業はデータの宝庫

 幸い、ゲノム事業は重粒子線の治療装置事業とともに、独り立ちしていない研究案件として残されることになった。「ゲノムについてもいろいろ話はあったと思うが、将来を考えると、まだ時間がかかると見なされた」と米澤氏らは当時を振り返る。ただ会社は稼ぎ頭だったCTなどの医療機器の事業は売却され、収益の柱は医療にはなくなった。研究余力も大幅にそがれてしまった。

 文字通り、ゼロからの出発が今の東芝にとってのゲノム事業となる。しがらみを気にしている余裕はなく、先入観なく考えざるを得ない。米澤氏らは、「ゲノム解析サービスを行っていたが、受託解析会社になりたいのではなく、ゲノム個別化医療をやろうと決めていた」と話す。受託解析サービスはあくまで入り口。そうした発想の先に生まれたアイデアが、従業員全体からのゲノムデータ収集だった。勝算はあった。

 米澤氏は、自らもゲノムデータを提供したという。「同意書にサインしたときに最初に感じたのは、自分が生きているという実感。自分の情報がしっかり将来の医療のために役立つ。無駄に生きているわけではない。実質的にその感じを体感できた。ポジティブに活用していこうと思った」と話す。

 ゲノム事業のキモとなるものはデータだ。COI東北拠点でゲノム解析の設計はしてきたが、読み取った遺伝情報にひも付く関係情報が増えるほどに、データの解釈は深みを増す。ゲノムデータは、単純に読んだだけでは、文字の羅列でしかない。その配列がどのような意味を持っているのか。意味を見いだす「アノテーション」が欠かせない。そのプロセスを経て初めて、医療や健康のアクションにつなげられる。

 海外では、英国でUKバイオバンクと呼ばれる50万人もの人々のゲノムデータを集めるプロジェクトが進められている。米国でも同様に民間保険の体制の下、大量のゲノムデータの収集が進む。健康情報とひも付けられたゲノムデータに基づき、医療や健康の方針決定に活かされようとしている。東芝、ひいては日本がここから巻き返すのは不可能にも見えるほどだ。

東芝サイバーフィジカルシステム推進部新規事業推進室長の米澤氏(写真:川島 彩水、以下同)

 しかし、東芝チームは唯一、世界に伍していける糸口が日本企業ならではの企業文化にあるとみた。1875年に東京で創業した東芝グループに集まった、10万人を超える従業員の協力を得ることだった。自社グループの従業員は毎年のように健康診断を受けており、膨大な健康情報が蓄積されている。欧米のように、流動的な労働市場ではなし得ない状況が社内には存在していた。

集めたゲノムデータを様々な健康データと突き合わせる

 現在、日本企業は大きな市場環境の変化にさらされ、従来の終身雇用を維持する体力はなくなりつつある。東芝は皮肉にもそうした中で、不正会計にのめり込み、1万人規模のリストラを行った。いわば、従業員を裏切ったのかもしれない。背水の陣として打ったのが、従業員へのゲノム募集。人心が離れておかしくはない従業員が、究極の個人情報とも言われるゲノムデータを寄せてくれるのか。高いハードルを越えられるのか、東芝チームは挑戦のただ中にいると言える。

 一方で、東芝から目を離し、俯瞰的にみれば、日本が遅々として動かなければ、座して死を待つのみなのだ。米澤氏は、「自分たちだけでやるばかりではなく、企業と組んでやることも考えている。同意を得て、ゲノムデータを預かり、10万人規模くらいまで集めれば、疾患のリスク分析などに活用していける。生活習慣や問診、投薬履歴などが同じフォーマットで集められているのは大きい。終身雇用という日本の企業風土だからこそできること。世界的にもまれな状況にあり、企業が持つ医学的なデータの塊」と言う。それを生かす動きが加速する可能性がある。欧米では将来に向けてデータを集めようとしているが、日本では過去に膨大なデータがあり、それをゲノムデータに突き合わせるアプローチが取れるわけだ。

 そこに日本が勝つわずかなチャンスがあるのではないか。それが東芝チームが見る未来である。

 今後、東芝は集まってきたゲノムデータと、様々な健康データを突き合わせて、ゲノムデータのバラツキが示している意味を見つけ出していく。そうした全体像はデータが集まるほどに精緻なものになっていく。そこで得られる解析のアルゴリズムは、連携先の企業が増えれば、より充実させることができる。東芝ばかりではなく、日本のあらゆる企業と連携も可能だ。

 その上で、米澤氏らが強調するのはデータの信頼性。「医療や健康に活かそうとしたときに重要なのは、実際に分析に用いたデータが信頼できるどうかだ。寄って立つデータが間違っていては、最終的な判断も狂いが出る。東芝が、生産技術を応用して、解析のプロセス改善をしており、データの品質についても工場での生産管理の考え方を入れ、サンプルの取り違えを防ぐといった基本的なトラブルを回避する仕組みがある。データの品質をあらかじめ高めていることが大きい。ゲノムデータの信憑性が注目された場合に、品質を証明する基礎データが存在している」(雨宮氏)。

東芝研究開発本部本部企画部ライフサイエンス推進室長の雨宮氏
 これからゲノムデータから得られた情報を活かしたビジネス構築が進むことになる。ここで生まれた情報が使える分野は、個人への健康アドバイスから、予防へのソリューション提供、病気の予測、薬の効きやすさの判定など多岐にわたる。

「災い転じて福となす」となるか

 大きな課題になるのは、やはり遺伝情報を集めることに関する倫理的なハードル。個人を特定する形で、遺伝情報を集めることになり、場合によっては病気のなりやすさなどの情報を含む。雇用の判断と全く切り離されているという保障がなければ、安易に情報を提供しようとは誰も思わないだろう。

 もっとも「次世代医療基盤法」という法律も2018年5月に施行され、匿名化された医療情報を集めることは今後容易になるとみられる。こうした手段を使えば、ゲノム情報や遺伝情報を集めることも原理的には可能。だが、東芝チームは匿名化したデータを使う道は選ばない姿勢だ。「誰の情報かは当然分からない。そうなると問題なのは、提供した人が自分の情報だと特定されるデメリットがない代わりに、医療的なアドバイスを得るなどのメリットを受けることもできない」と米澤氏は説明する。「遺伝情報は個人の所有物ととらえて、本人にその情報に基づく分析の結果も戻るようにする」と言う。東芝は研究目的に限ることを条件にゲノムデータなどを集める方針でいく。

 ドイツの国営放送の取材を受けた際のエピソードを明かしてくれた。取材陣から、東芝のプロジェクトはドイツでは無理だと言われたという。極端なことを言えば、遺伝情報を使って、「がんになる体質であるから、解雇する」といった判断になり得る。そうした介入をさせない仕組みにできるかは重要だ。これは国が抱えている問題でもある。例えば、障害者の差別は法的に禁止されたが、日本ではゲノム情報に基づく差別を禁止する法律がない。今後はそうした法整備が国家の課題にもなると考えられる。

 東芝は、新サービスを模索している。「サイバーフィジカルシステム推進部」と呼ばれる部署でビジネス構築を進めるが、目に見えるプロダクトを作って売るだけではなく、デジタル空間のサービスも事業化しようというコンセプトを込めたモノ。ゼロからのスタートから、東芝は変わろうとしている。「災い転じて福となす」という言葉もある。ゲノムというセンシティブな分野において、東芝ほどの巨大な企業が、大きく経営的に揺れたことが一つのきっかけになって本気になっているのは、もしかすると日本にとっての幸運なのかもしれない。

 次回は、がんゲノムの分野での新たな動きに迫っていく。

(タイトル部のImage:kras99 -stock.adobe.com)