慶應義塾大学病院(東京都新宿区、病院長:北川雄光氏)では2018年末から、手術を行ったあらゆるがん患者に対して、がん遺伝子検査を実施している。その費用は全て研究費で賄い患者負担ゼロということもあって、検査件数は半年で1000件と急拡大。生まれてくるデータは今後、がんゲノム医療に大きなインパクトをもたらす可能性がある。このプロジェクトを主導する慶應義塾大学一般・消化器外科 乳腺外科専任講師の林田哲氏と、バイオインフォマティクスの立場から林田氏と共にプロジェクトを推進する慶應大学発ベンチャー、cBioinformatics代表取締役の山口茂夫氏に話を聞いた。

落差を埋める

 がんの遺伝子検査を行う大きな目的は、がんのテーラーメイド医療を実現すること。そもそも人体の設計図といわれるゲノムは、「アデニン(A)」「チミン(T)」「シトシン(C)」「グアニン(G)」という4種類の塩基が30億連なったもの。この文字列のどこかに変化が起きると、細胞ががん化する恐れがある。検査により変化の所在を突き止めれば有望な薬剤が見つかる可能性もある。

 もともと日本では2015年ごろから自費診療で行えるがんの遺伝子検査サービスが増え始め、がん患者はその結果に応じて自分に合った薬剤を調べられるようになった。ただ、いかんせん高額で、誰もが行えるわけではなかった。がんの遺伝子情報は治療の全体戦略を練る基本的な情報であり、がんになったときにがん細胞を調べることができれば理想的。それは分かっていたが、どうしても経済的な壁は立ちはだかった。

 そうした中で、保険適用の可能性が模索され、実際、2019年春に2種類のパネル検査が保険適用されることになった。ただ、議論を経てその対象となったのは「末期がんなのに元気な人」と林田氏が言う通り、標準治療を行ったものの効果が見られなかった人で、しかも身体状態がよい人。保険適用の遺伝子検査は、病気の初期ではなく、むしろ実質的には最後の切り札のようになっているのが現状だ。しかも、検査の結果が出るまでには4週から6週間の時間を要するため、適した治療薬が見つかっても状態が悪くなり投与を行えない場合もあり得る。

 林田氏は、「がんの治療では、初期の治療が極めて重要。集学的に、最善の初期治療を選択したいときに、落差があると思った」と言う。慶應大学病院で2018年末に開始した「PleSSision-Rapid(プレシジョンラピッド)」と呼ばれるがん遺伝子検査は、保険適用の枠組みを超える形で、こうした落差を埋める手段となっている。臨床試験としてがんの手術を行う20歳以上の人を対象として、検査費用を大学の研究費で賄い、患者自己負担なしに160遺伝子の異常を調べる。「がんの検査はこう利用したい」というゴールに合わせ、林田氏と山口氏ら慶應チームは実現の道を模索。そして実現に至った。

慶應義塾大学一般・消化器外科 乳腺外科専任講師の林田氏(写真:川島彩水、以下同)


効率化で新しい価値を生む

 そうした検査を実現するために、この臨床研究を主導した腫瘍センターゲノム医療ユニット教授の西原広史氏らが徹底的に進めたのはコストカットだ。慶應大学病院では、患者自己負担のがん遺伝子検査「PleSSision(プレシジョン)」を77万円で提供していた。これをベースとして、研究目的として無料で検査を行うための方策を練る必要があった。

 まずは院内で自前の検査を行えるようにした。従来のプレシジョン検査では、米国病理学会(College of American Pathologists:CAP)の承認を取得した臨床検査センターに依頼して検査をしていた。プレシジョンラピッドでは外注せずに院内で体制を整えて、自前で検査に深く関わることでコスト抑制の道を探りやすくした(表1)。

表1●「PleSSision」と「PleSSision-Rapid」の比較1)

 さらなる特徴は、一般的に行われる血液と腫瘍の双方を調べる「ダブルチェック」を省いたこと。血液のDNA(デオキシリボ核酸)と腫瘍のDNAを比べられると、同じ人でも腫瘍だけに見られる変化、または親から受け継いだ遺伝性のがんにつながる変化を確かめられる。そうした比較は行えればより検査で分かる情報を増やせるが、あえて腫瘍のDNAだけを調べることにして、その点での効率性を優先した。

 このほか専門外来での患者への説明や報告書の返却もしていない。主治医だけに検査結果を伝える形に、煩雑な手続きを減らして費用を圧縮した。こうして検査のコスト圧縮の余地を探りつつ、結果として患者に無料で検査を提供できるめどを得た。

 従来、日本では自費診療でがんの遺伝子検査が行われてきたが、検査費用は高額であり、実施件数は限られていた。それが慶應大学病院では半年で1000件に到達。検査件数は急拡大することになった。

新しい価値を生み出す「ソクラテス」

 実は検査件数を増やしたことで、従来の検査にはなかった価値を生み出すことにもつながることが見えた。大量のデータを蓄積できるようになるからだ。データの持つ意味を分析するための材料を多く得られることを意味している。

 そうした分析のエンジンとなるのが、cBioinformaticsで開発した「ソクラテス」。ゲノムデータを、あらゆる臨床データとひも付けて分析できるようにするもの。遺伝情報とどんな検査結果が関係してくるかは分からない部分も大きい。がんの進行ペースと関係するならば分かりやすいが、性別や年齢、血液検査の値、身長や体重によっても関連は変わるかもしれない。また、薬の効果や副作用などと関係しているかもしれない。そうしたビッグデータの関連性を簡単に分析できるようにしたのだ。

 その成果はこれから見えるが、データが蓄積するほどに、これまで知られていなかったゲノムデータの持つ意味が発掘される可能性もある。

 原点になるのは、2017年に林田氏が慶應大学病院一般・消化器外科内で臓器横断のゲノムプロジェクトを主導するまとめ役になった時の問題意識。世界的にがんのゲノムが重視する動きがあったものの、医療現場がゲノムをどう活かせばよいのか、院内の理解は十分に進んでいるとはいえなかった。ゲノムの情報自体は、ATGCの文字の羅列でしかない。今でこそ、ATGCの情報から、治療につながる遺伝子変異など意味のある情報を見つけ出す「アノテーション」が重要であることが認識されつつあるが、そこまでの段階ではなかった。

 同年には、北海道大学からゲノム診断を専門とする西原広史氏が着任。ゲノムをカルテの情報とひも付け、意味あるものとして利用可能としたい。そんな思いを持っている中、2018年夏に研究室のつてで出会ったのが山口氏。腫瘍内科医ながら、バイオインフォマティクスの事業に着手していた。二人三脚で分析ソフトウエア開発を進めて、その先に生まれたのがソクラテス。林田氏は「マウス操作で、感覚的にゲノムデータと臨床データをリンクできるようにしている。素人でも分かる。論文の図表なども容易に作れる」と説明。IBMも関心を寄せて連携話が動き出している。ウェブ上のクラウドで、ソクラテスを利用可能とするような仕組みが想定されている。「今後、あらゆるデータをミルフィーユのように、どんどん積み上げて分析していく」と山口氏は話す。

cBioinformatics代表取締役の山口氏

 ディスラプティブイノベーション(破壊的創造)は、従来の考え方からは「価値が低い」と見なされるのに、新しい考え方から見ると「従来のものよりも優れた価値を持つ」と位置づけられる新たな技術を指す。この観点からすれば、まさしくプレシジョンラピッドは、完璧を追わず、データ蓄積という観点から、従来よりも優れた価値を生み出す状況を作り出す。これはまさしくディスラプティブイノベーションに他ならない。今後、もしかすると、慶應発の新技術が世界を席巻することもあり得ない話ではない。


(タイトル部のImage:kras99 -stock.adobe.com)