本特集ではこれまで、インドで新たなヘルスケア事業に取り組む動きを見てきた。今は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響でインドでも出入国が制限されているものの、前回紹介した阪大のケースのように、開発したテクノロジーを世界に飛躍させるには先進国ばかりでなく、新興国も含めた国際的な状況を取り込むことが重要となる。COVID-19のような世界共通の課題の解決にもつながる可能性があり、ますます世界を視野に入れた医療機器開発が求められて不思議はない。そのときにインドで得られる知識や経験はさらなる価値を持つだろう。2015年から2019年までインドに駐在し、現地の医療事情やビジネスに詳しいJETRO(日本貿易振興機構)海外調査部アジア大洋州課リサーチ・マネージャーの古屋礼子氏にインドの可能性を聞いた。

5億人を医療保険の対象に

 インドでは現在、アユシュマン・バラット(長寿化インド)計画が進められている。「インドは中央政府や州が強いのが特徴で、28の州と9の連邦直轄地がある。中間層が増えており、よりよい医療を求めるようになっている。一方で、貧しい人も多く、遠隔医療も広がる。どうやってよりよい医療を多くの人に届けるか。医師の人数が足りていない中で、効果的に安い医療を受けられるようにするかが基本的な状況」と古屋氏は説明する。

 インド渡航を幾度と重ねている古屋氏は、自らも現地の医療機関を受診し、その混雑ぶりや衛生関連の遅れなどを身をもって体験している一人。インドにおける様々な課題に関する知見を蓄積し、日本企業のインド進出への支援や情報発信に取り組んでいる。「アポロやフォルティスといったインドの著名な病院グループでも、医療の水準はまだまだ高いとは言い難い。実際、身近に住んでいた若い人がある症状で病院を受診して診断がつかずに亡くなってしまったことも。医療はまだまだ行き届いていない状況」

 そのように医療サービスに課題がある中、インド政府は着実に改善に向けて動いている。大方針としてよく知られるのが、2018年9月にモディ首相が開始を宣言したアユシュマン・バラットだ。疾患予防から、1次、2次、3次医療を包括的に強化するのが目的となる(図1)。

図1●インドにおける病院セクターの構造 インドでの病院セクターは、公的医療機関と民間医療機関に分類され、民間医療機関が全医療機関の約75%を占める。(出所:経済産業省「医療国際展開カントリーレポート 新興国等のヘルスケア市場環境に関する基本情報 インド編、2020年3月」、図2とも)

 中でも重要な動きとなっているのが、医療保険制度の拡充だ。国家国民医療制度(PM-JAY)と呼ばれる仕組みが2018年に始まり、これまで利用が限られていた貧困層にも幅広く医療保険が適用されるようになった。対象となるのは、インドの2億4490万家族のうち、1億740万家族。インドの人口は13.5億人だが、この新保険制度に関わる人は約5億人に上る。財源は国と州によって賄われ、一家族に対して年間50万ルピー(日本円で70万円までを賄う)を上限として支給される。インドでは医療費負担のできない家庭が多かったが、医療へのアクセスが急速に改善に向かう。古屋氏も「インドの産業では、医療保険や生命保険が注目されている」と指摘する。