5G(第5世代移動通信システム)が広がる2020年代、社会を構成する様々な要素がヘルスケアの中心地となる「ソーシャルホスピタル」が、より現実的なものになる。身近に設置された各種センサーを通じて人の行動や人体の状態は可視化され、それに基づいた栄養素や運動が提案されるようになるからだ。行動や状態を測定するために重要な役割を担うのは映像データである。撮像素子(カメラ)は、スマートフォンに搭載されることで高性能化と低廉化が一段と進んでいる。その映像データを5G経由で瞬時にクラウドに送信することで、分析結果がすぐに分かる時代に我々は足を踏み入れている。

5G時代には、映像から多くのことが読み取ることができるようになる(出所:Binah.ai)
5G時代には、映像から多くのことが読み取ることができるようになる(出所:Binah.ai)
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 多くの産業において5GをはじめとするIT(情報通信技術)を活用した変革、いわゆるデジタル・トランスフォーメーション(DX)が期待されている。医療・ヘルスケア領域においても同様だ。期待される変革の1つが「環境そのものがヘルスケアになる」世界の到来である。例えば、普通に生活しているだけで日常の行動内容あるいは心身に関する情報が収集され、取り入れるべき栄養や運動など、健康に向けた各種の提案が届けられる世界だ。

 通信・放送分野を中心にコンサルティングを手掛ける企(くわだて)代表取締役のクロサカタツヤ氏は、こうした世界を「予測前提社会」と表現する。同氏の著書『5Gでビジネスはどう変わるのか』(日経BP)において、自らのバイタルデータを取得するなどすることにより、講演時における体調の異常を検知し、適切な対応をとることで病気の発症を未然に防ぐというフィクションを描いている。これこそが、5Gによって生まれる社会像の1つになる。

社会を構成する様々な要素がヘルスケアの中心地となる「ソーシャルホスピタル」(イラスト:楠本 礼子)
社会を構成する様々な要素がヘルスケアの中心地となる「ソーシャルホスピタル」(イラスト:楠本 礼子)
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 普通に生活している間に個人の活動やバイタルデータが収集されることについては、装着型の小型コンピュータ「ウエアラブルデバイス」によって既に実現されている。ウエアラブルデバイスは年を追うごとに小型化が進み、装着しやすくなった。単に歩数といった活動量だけでなく、測定できるバイタルデータも増え続けており、分析できることも増えている。

 米Appleの腕時計型コンピュータ「Apple Watch」のSeries 4以降には、ECG(心電図)機能が搭載されており、米国など多くの国で利用可能になっている。Apple WatchのECG機能により、装着者が「心筋梗塞を起こしているかどうかを医師が判定できる可能性がある」ことを示したとするスペインの病院からの報告がある(関連記事:心筋梗塞かどうかがApple Watchで分かる?)。

 ヘルスケア領域に注目するIT企業はAppleだけではない。米Googleの親会社である米Alphabetは2019年、ウエアラブルデバイス開発の先駆けである米Fitbitを買収した(関連記事:GoogleがFitbit買収を発表、その狙いを考えてみた)。Fitbitに加えてAlphabetは、ライフサイエンス領域に取り組む傘下企業Verilyにおいて「Study Watch」と呼ばれるスマートウォッチを自社開発し、臨床試験などに使用している。

 Verilyは、武田薬品工業との間で、パーキンソン病患者の運動症状の解析について共同研究していることでも知られる。これらのデバイスを通じて、ウエアラブルデバイスを通じた個人のヘルスケアに関する情報を取得できる環境を着々と整えているというわけだ。

「映像+5G+AI」が新しいヘルスケアの世界を作る

 従来のウエアラブルデバイスを使う方法に加えて、5Gあるいはアフターコロナの時代を象徴する「非接触」の流れが生まれている。「最近になって、非接触型の測定方法が続々と登場している」というのは、「人を測る」を軸にした交流コミュニティ「カンブリアナイト」を主宰するホオバル取締役の新城健一氏だ。

 非接触の主役は、間違いなく映像である。映像データを5G経由でクラウド上に送出してAI(具体的には深層学習)で分析、そこから異常を検知して通知する仕組みが確立され始めている。これには、高精細な画像を撮影可能な撮像素子(カメラ)の低廉化、そしてわずかな違いも自動判別できるAIの進化が貢献している。映像、5G、AIの組み合わせこそが、5G時代の新しいヘルスケアの世界だと言えるだろう。

 映像を使った取り組みとして新城氏が注目するものに、三井不動産、シスコシステムズ、Coaido(コエイド)の3社が2018年3月に実施した実験がある。街頭のカメラ、AI(人工知能)、ネットワークシステム、救命向け専用アプリなどを連携させることで、街全体そして関係者をつなぐことで「救命の連鎖」を実現しようというものだ。

三井不動産、シスコ、Coaidoが共同で実施した実験の概要(出所:三井不動産、シスコ、Coaido)
三井不動産、シスコ、Coaidoが共同で実施した実験の概要(出所:三井不動産、シスコ、Coaido)
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 この「連鎖」の具体的なフローは以下のようなものになる。まず、周囲に人がいない建物内で卒倒した人を、防犯カメラ画像が撮影、AIは不自然な転倒であることを自動検知する。その検知結果は、建物の管理者(防災センター)に通知され、防災センターから現場最寄りの巡回管理要員に対して急行を指示する。並行して、Coaidoが運営する救命ネットワーク「Coaido119」を通じて、救命スキル保持者に向けて支援を要請する。これにより、卒倒時から救命処理までの時間を最短化しようというものである。

 この実験の背景には、そもそも「転倒自体が誰にも認知されない」、認知されたとしても「心肺蘇生など適切な処理が施されなかった」ケースが多いことが挙げられる。総務省消防庁の『平成29年版 救急・救助の現況』によると、2016年に救急搬送された心肺機能停止傷病者は12万3554件。そのうち心停止で倒れた時点の目撃者がいないケースは4万3789件、目撃があっても救急隊が到着するまでに心肺蘇生が施されなかったケースは1万1215件に及ぶという。短時間での発見あるいは適切な処置を施すことにより、多くの命が救える可能性がある。

 別の例には、高齢者向け歩行支援サービスがある。歩行の状態を可視化することで、本人や指導員に対して正しい歩行を促すことができるというものである。この「歩容解析AI」を開発したのはエクサウィザーズ。AIを活用したサービスを通じて社会課題を図るスタートアップ企業だ。

 同社の歩容解析AIを使うと、高齢者の歩行動画をスマホなどで録画するだけで、歩行スピードやバランスなどを定量的に評価できる。感覚に頼りがちだった機能訓練指導員の判断を、定量化することでサポートする。高齢者自身にとっても、自分の歩行状態が可視化されることで、歩行の癖を客観的に知ることができる。転倒予防への意識を高めたり、リハビリを継続するモチベーションを向上させたりすることを期待する。

 ほかの例には、イスラエルのスタートアップ企業binah.ai(ビナー)が開発した表情分析技術がある。同社の技術は、カメラで撮影した頬の上部の皮膚領域の動画を分析することにより、撮影された人の生体状況を計測できる健康モニタリングソリューションを提供するというものである。具体的には、スマートウォッチでも採用されている、皮膚表面の微小血管の血液量変化を検出する光学技術を活用している。現時点で心拍数、心拍変動、精神的ストレス、酸素飽和度(SpO2)、呼吸数があり、近く血圧についても測定できるとしている。

システム投資を誰が負担するか

 「環境そのものがヘルスケアになる」世界の魅力は理解できるものの、そのためのシステム投資を誰が負担するかという疑問がある。健康維持のために自費でウエアラブルデバイスを購入するなど個人レベルの投資ならともかく、建物内あるいは街中にカメラを設置するなど面的にカバーする場合のコストについては、誰がどのような理由で投資し回収するのか。それが解決しない限り「環境そのものがヘルスケアになる」世界は実現しないだろう。

 この点について前出のクロサカ氏は「3つのフェーズで考えられる」とした。最初のフェーズは、サービスを介して相対するサービス提供者とユーザーのいずれかが負担する形態。「遠隔診断であれば、医師や患者が8Kカメラ搭載の5Gスマホを導入するようなもの」(クロサカ氏)。この医師が、遠隔診断であっても患者を正確かつ効率的に診断できるなど成果を上げているとなれば、ほかの医師も追随するだろうというのが、クロサカ氏が描く普及へのシナリオだ。

 次のフェーズは、所属企業などユーザーの周辺にいる組織が負担する形態。「新型コロナウイルスを例に持ち出すのがふさわしいかどうか」という前置きの上でクロサカ氏は、「コンタクトトレーシング(接触確認)アプリ」の導入を企業が負担する方法を挙げる。コンタクトトレーシングアプリとは、直近に接触した人と場所を特定するためのアプリのこと。仮にウイルス感染の陽性反応が出た場合、例えば過去2週間にわたって接触した人を特定し、その人たちに対して注意喚起できる。クロサカ氏は「企業あるいは所属する社員の信頼性を担保するために投資するという発想であり、一部の企業は導入を検討し始めている」という。

 最後のフェーズは、国や自治体が負担する形態である。医療費などを将来的に削減できることを見込んで、国や自治体が削減に資するソリューションに対して先行投資しようという発想に基づく。

 最後のフェーズについては、官民連携による社会課題解決手法「ソーシャル・インパクト・ボンド(SIB)」の考え方に近い。SIBとは、革新的な社会課題解決型の事業を実施したときの成果(社会的コストの効率化部分)を、支払原資とするものだ。事業成果を数値化することで、自治体が成果報酬を支払う。

ソーシャル・インパクト・ボンド(SIB)の仕組み(出所:経済産業省「新しい官民連携の仕組み:ソーシャル・インパクト・ボンド(SIB)の概要」)
ソーシャル・インパクト・ボンド(SIB)の仕組み(出所:経済産業省「新しい官民連携の仕組み:ソーシャル・インパクト・ボンド(SIB)の概要」)
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 その実践例の1つに、埼玉県志木市が市民の健康寿命向上のために取り組んでいる「いろは健康ポイント」事業がある。同事業は、市民参加者が歩いたりBMI(ボディマス指数)や体脂肪率が改善したりした場合にポイントを獲得し、獲得ポイントについては商品券に交換できるものである。志木市は参加者に対して歩数計を無償貸与し、参加者は歩数計を市内に設置される読み取り端末にかざすことでポイントを得る。同市としては、健康指導など周辺事業も含めた取り組みを通じて、医療費や介護給付費の減少につながるものと期待している。

 同市によると、2019年度の参加者は約2900人。経費については、ポイント原資や歩数計、システム運用などに対して、年間2000万円程度がかかっている。その成果としては参加年度別に算出しているが、2015年度から参加した人については1人当たり年間約1万7000円の医療費削減効果が出ていると試算されているという。同市では、「あくまで試算の数字」としながらも、国民保険、社会保険、後期高齢者、生活保護制度を含めた医療費全体の削減効果を約4600万円と見積もっている。

 前出の新城氏は、「SIBについては、2020年以降、新しいフェーズに入るのではないか」とみている。というのは、2010年代後半に始まった国内SIB活動の成果がこれから相次いで報告されるからだ。「新城氏が特に注目しているのは、「実証試験ではなく実事業として取り組んでいる広島県と東京都八王子市の取り組みだ」という。両自治体の成果は2020年夏にも明らかになるとみられており、それを見た他の自治体も順次動き出すだろうと新城氏は予測する。

 事業が長期的に継続されるには、参加者それぞれが何らかの利益やメリットを得ることが欠かせない。SIBに限らず、関係者の間で適切に利益配分する新しいビジネスモデルが、「環境そのものがヘルスケアになる」世界を大きく広げることになるだろう。

(タイトル部のImage:Beyond Health)