小銭の出し方がわからなくなるのは、アルツハイマー型認知症の代表的な症状の一つ。財布は常にパンパン状態。ならば、それを解消しようと「これまでにないものをつくる」精神で新たな挑戦がスタートした。(庄子 育子=Beyond Health)

*以降の内容は、2020年4月20日に掲載した記事の再録です。肩書・社名、事実関係などは原則、掲載時のままとしています。

新型コロナウイルスが猛威をふるっている。日本国中が巣ごもり生活を余儀なくされている。感染を食い止めるためには大事なことだが、この生活が長引けば新型コロナウイルスによる疾病以外にも健康被害が懸念される。とくに高齢者の運動不足は深刻だ。生活のための買い物で心と体をリフレッシュさせるのもひとつの手段だ。そんなとき、今回紹介する財布は大きな力を発揮することだろう。

「niho 小銭が取り出しやすい財布」(写真:末並 俊司、以下同)
「niho 小銭が取り出しやすい財布」(写真:末並 俊司、以下同)
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 「この世にないなら作ってしまおう、と考えたのです」

 DFCパートナーズの清水祥子さんは笑う。同社が認知症当事者のことを考えて開発した「niho 小銭が取り出しやすい財布」が話題だ。

清水祥子さん。お店の前で
清水祥子さん。お店の前で
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 「ちょっと長いけど、あえて分かりやすい名前にしています。これも工夫のひとつ」

 認知症当事者の活動をサポートする「認知症フレンドシップクラブ(以下DFC)」は全国に21の拠点を持つNPO法人だ。認知症カフェや、サポーターの養成、様々な交流会などを行い、認知症当事者の生活を支えている。

 DFCパートナーズはその関連企業だ。認知症の当事者と家族のためのオンラインストア「dfshop」などを運営している。

きっかけはお父さんの認知症

 「2013年に私の父が認知症の診断を受けたんです。幸い進行はさほど早くなく、今でも介護サービスは受けておらず、母と二人で暮らしています」(清水さん、以下「」内はすべて清水さん)

 それまでの人生で認知症当事者とかかわりはなく、とくに知識やサポートする態勢がないなかでのことだった。ただ認知症の診断が出たとはいえ、日常生活がただちに不自由になるというほどではなかった。それでもアルツハイマーの中核症状である物忘れは深刻で、処方された薬の管理などの課題はあった。

 「飲み忘れないようにしてもらうため、あれこれ必要なものを取り揃えていきました。このときに、いろいろなものが帯に短し襷(たすき)に長し、ということを思い知らされました」

 清水さんは「今でも使っているのですが」とポケットつきの大きなカレンダーを示しながら説明してくれた。日付ごとに並んだポケット部分が透明になっており、何を入れているのかひと目でわかる。

 「いわゆるお薬カレンダー、と呼ばれるたぐいの商品ですが、“ちょうどいいもの”に行き着くまでに、けっこう時間がかかりました」

 いろいろなところで探してみたというが、大きさや素材の面で「これ」というものがなかなか見つからない。そんななかで最初に選んだのは、サイズ感はちょうどよかったのだが、一週間ぶんの曜日が縦に並んだものだった。

 「見やすそうだな」と思い、買ってみたらしいのだが・・・。

 「普通のカレンダーって1日から31日まで、一週間が横並びになっていますよね。ところが最初に選んだものは縦に並んでいるので、父が混乱してしまって、うまく使いこなすことができませんでした」

 結局今使っているものに行き着くまでに数カ月かかったという。

当事者目線の商品が少ない

 「認知症当事者のことを考えた商品って思っていた以上に少ない。ということを実感しました」

 そうしたなか、2017年にDFCパートナーズの取り組みにかかわるようになった。

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 「DFCは、暮らしの知恵とか商品、モノを認知症の当事者や家族とつなげることを進めています。父のこともあってそうした取り組みに興味を持ったのです」

 そして18年10月、オンラインショップ『dfshop』で展開するための商品開発プロジェクトが立ち上がった。

 「もちろん認知症当事者の生活を支えるための商品開発なのですが、コンセプトの中心に“介護用品ではないモノを作ろう”という思いがありました」

 専門店を覗けば介護のための道具はいくらでも並んでいる。ところがこれらに手を伸ばそうとしない要介護者は多い。

 とくに要介護度の浅いうちは「普通の商品でも大丈夫だ」「自分はまだ介護グッズを使う段階じゃない」といった気持ちが起こる。これはごく自然な感情だ。認知症をはじめとする心身の病を得たからといって、それまでと違う生活や道具の使用を強いられるいわれはない。日常生活のうえで、健常と疾病は地続きだ。工夫次第でそれまでの生活や道具の使用をある程度続けることはできる。そうした思いをベースに商品開発は始まった。

 「7年前に認知症の診断を受けた父の日常を見ていても感じたことですが、買い物での失敗は外に出ようという気持ちを萎えさせます。レジでお金を出すことに時間がかかると『後ろに並ぶ人に迷惑をかけているのではないか』と考えて気持ちが焦り、さらに失敗を重ねる。また、細かな計算が心もとなくなって、何か買うたびにお札で支払うようになり、やたらと小銭だけが財布の中に増える。そんなことが積み重なってきて、出かけるのが嫌になってくる」

 清水さんは、自分の父親のような人たちが便利に、そしておしゃれに使える財布の開発を決意した。家族のために働いて稼いで生活を支えてきた人たちにとって、お金の失敗は人間の尊厳に直結する大問題と言っていい。

プロジェクトチームの結成

 「18年の12月に、『認知症×ものづくり アイデアミーティング』というプロジェクトを立ち上げて、SNSを通して参加を呼びかけました」

 すると、同じ思いを持つ福祉の専門職やデザイナー、家族を介護している人など15人が次々と手をあげた。

 「認知症の方々に使ってもらうための財布なのですが、介護用品ではない、自分でも使いたくなるモノを作るぞ。という思いを共有し開発がスタートしました」

 長財布にすべきか、折り畳みにしたほうがいいのか、小銭入れと札の仕切りは、カードはどのくらい入ればいいのか・・・などなど、検討することは山のようにあった。

試作品の数々
試作品の数々
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 「カバンの中で見つけにくい。小銭が出しにくいなど、既存の財布の欠点は、健常者にとってもやっぱり欠点です。その部分を解消し、さらに心身が不自由な方の助けになるように、例えば財布を広げれば、中にあるヘルプカードがレジの人だけに見える。といった工夫も盛り込みながら開発は進みました」

ヘルプカードを見える場所に入れる構造、最終形では財布の裏側に入れることに
ヘルプカードを見える場所に入れる構造、最終形では財布の裏側に入れることに
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ついに完成 niho 名前の由来は?

 そして19年11月「niho 小銭が取り出しやすい財布」は完成した。

 「niho(にほ)というのは、一歩二歩三歩の、の二歩目のことです。一歩を踏み出して、三歩目を後押しするという意味です。また、『散歩』に出かける気持ちを後押しするという意味も込めています。この財布をもって外出を楽しんでほしいというメッセージなのです」

 発売から半年、売り上げは想定を超えて順調に伸びているという。

 「売り上げ以上に想定外だったのは、この商品が認知症当事者の皆さんより、認知症でない方々により多く売れているということです」

 認知症当事者の目線にこだわれば、誰にでも使いやすい道具を生み出すことができる。まさにバリアフリーの正しい発想だ。

 清水さんは第二段として鞄の制作の準備に取りかかっているという。疾病を持つ人の目線にこだわり、これまでにないものを作る。

 最初の一歩。それはまず目の前の病気に向き合うことなのだろう。

(タイトル部のImage:末並 俊司)