うつ病の治療の第一選択は薬物療法と「認知行動療法」と呼ばれる心理療法。ただ、どちらも万能ではなく、実施に当たってのハードルや効きにくい症状・病態がある。新たな活路となりそうなのが認知行動療法のVR化だ。画期的なデジタル治療の一つとして注目される。(庄子 育子=Beyond Health)

*以降の内容は、2020年7月20日に掲載した記事の再録です。肩書・社名、事実関係などは原則、掲載時のままとしています。

日本の精神疾患の患者数は約420万人。中でも最も多いのがうつ病で約3割を占める。働けない、企業の休業補償がかさむ、などの経済損失が大きく医療費の増大も国家予算を圧迫する。

※ 厚生労働省「H29 患者調査」より。躁うつ病を含む気分障害の割合

うつ病の治療の第一選択は薬物療法と「認知行動療法」と呼ばれる心理療法だ。単独の治療より双方を組み合わせることで、より治療効果が増すこともわかっている。しかし、認知行動療法は、セラピストの数が十分でないことや、その技量のばらつき、治療機関が限定されるなど様々な制約がある。

そんな中、研究が始まったのが認知行動療法のVR化だ。従来は治療者との対話やテキスト、模擬演習などで行われていたロールプレイングや訓練を、VRによる“限りなくリアルに近い”体験学習に置き換える。これにより、ポジティブ感情や意欲の低下といったうつ病の中心的症状の早期改善を目指すというものである。VRの活用は在宅での治療も可能にし、治療内容の均質化にも寄与することが期待される。

こうしたアプローチについて、年内の臨床試験を目指して準備を進めている国立精神・神経医療研究センターとジョリーグッドの共同研究チームメンバーに、うつ病治療におけるVRの期待と可能性を聞いた。

VRを用いた治療のイメージ(出所:ジョリーグッド)
VRを用いた治療のイメージ(出所:ジョリーグッド)
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世界に遅れをとる日本の「認知行動療法」、IoTで巻き返しを

 認知行動療法(Cognitive behavioral therapy、以下CBT)とは、不安症や恐怖症、うつ病などの精神疾患に対して行われる心理療法の一つで、物事の受け取り方や考え方を見直し、目の前で起きた出来事に現実的な対処ができるよう手助けする。

 例えば飛行機恐怖症では、頭では「飛行機は安全である」と理解しているのに、実際の飛行機を見ると恐怖心がわき、乗れなくなる。CBTではセラピストとの対話や曝露(恐怖をもたらす刺激や、恐怖感に自分を曝露し慣れていく)などを用いて、飛行機は怖いという認知を少しずつ正し、飛行機を見ても恐怖心がわかなくなる、あるいは、恐怖を感じつつも飛行機に乗れるようにしていく。

 実はCBTへのVRの活用は、米国や欧州ではすでに90年代から、帰還兵のPTSD(心的外傷後ストレス障害)治療などで行われている。例えば先の飛行機恐怖症に対しては、コンピュータグラフィックス(CG)で空港やタラップ、機内などの様子を再現した映像を見せて疑似体験をさせ、徐々に恐怖心を減らして飛行機に乗れるようにする。

 比して日本は、「VR以前に、CBTの社会実装が不十分である」と、国立精神・神経医療センターの伊藤正哉室長は話す。その理由として「残念ながら、日本には心理療法の臨床研究を、薬剤などの治験と同等の科学的手法を通して検証する試みがかなり限定されていた。薬物療法の治験は製薬会社主導で多額の予算をかけられるが、対話が中心となるCBTは、研究者が細々と人力で、長い期間、かなりの労力を投入して実施するしかないのが実情であり、それを支援する研究費も限られている」(伊藤室長)。

 VRの活用も、不安症や恐怖症に対しては海外のソフトウエアを輸入し、10年ほど前から行われてはいるものの、実施施設は極めて限られているという。国立精神・神経医療研究センターでも従来型の対面によるCBTで、安全かつ効果の高いメソッドを研究してきたが、それに加えて3、4年前から、世界的なIoTの発展を背景に「スピードをもって世界レベルの治療や社会実装に追いつくには、IoTを積極活用すべきと考えるようになった」(伊藤室長)。

 そこで、インターネットやスマートフォンのアプリなど種々のツールを検討しはじめたところに出会ったのが、スタートアップのジョリーグッドが手掛けるVR技術だった。

「圧倒的な没入感」で行動変容を起こす

 ジョリーグッドは主に医療・福祉分野でVRによる現場トレーニングソフトウエアの開発を手掛けている。同社が2018年に発表した発達障害者向けのソーシャルスキルトレーニングVRサービス「emou」は、すでに全国各地の就労移行支援施設で採用され、急速に導入が進んでいる。

 emouはVRゴーグルと指導者用タブレットを用いて、友達との会話や集団行動、就職面接、職業体験など80以上のVRコンテンツから成るプログラムにより、対人関係スキルを訓練する研修システムだ。

 「VR でトレーニングをすると“行動変容”が起こりやすい」と話すのはジョリーグッド 代表取締役CEOの上路健介氏。「VR で失敗しても怖くないし、何度でも練習できる。習熟度が高く、かつ定着しやすい。良質な体験学習が可能なのです」(上路社長)。

ジョリーグッド 代表取締役CEOの上路健介氏(出所:ジョリーグッド)
ジョリーグッド 代表取締役CEOの上路健介氏(出所:ジョリーグッド)
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 加えて、テレビなどのモニター画面で映像を眺める従来型のトレーニングに比べ、「臨場感」が高いのもVRの魅力だ。テレビ局の映像技術畑出身である上路氏が特にこだわっている部分でもある。「当社のVRコンテンツの大きな特徴は、“憑依”が容易にできること。ゴーグルをかけて下を見ると、体の一部が見えるような撮影方法をとっている。目線に違和感がないことで、より自分がそのコンテンツの当事者に、ストレスなく、自然に成り代わることができるのです。そのリアルさは髄一で、当社の強みです。実際に、各方面から高い評価をいただいています」(上路社長)。

 例えば、同社が2年前にリリースした医療者向けサービスに、熟達した外科医の手技をVR化するプログラムがある。手術の技術研修は通常、別室でモニターを通じて見学するのが一般的だが、このプログラムでは受講者がVRゴーグルをかければ、あたかも自分が熟練医の目線で見ているような感覚が得られる。それが限りなくリアルで、わかりやすいと、医療業界からの問い合わせが相次いでいるという。

臨場感の高さが、ジョリーグッドのVR画像の特徴だ(出所:ジョリーグッド)
臨場感の高さが、ジョリーグッドのVR画像の特徴だ(出所:ジョリーグッド)
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 実際、VRを用いた体験学習では、通常のマニュアルで学習するより学習効果が2倍以上という研究結果がある(J Surg Educ : 2020 Feb 5;S1931-7204(20)30002-7. )

 また、オックスフォード大学、英国NHS(国民保健サービス)、バルセロナ大学が、VR技術を使った精神科治療に関する285件の研究をメタ解析した共同研究では、不安感、統合失調症、依存症など、精神疾患のどの分野治療にもVRのポテンシャルがあること、特に不安障害に対して有効であることが報告されている(Cambridge Journals Psychological Medicine :47, 14, October, 2393-2400、2017)

 伊藤室長は認知行動療法とVRの親和性についてこう語る。「CBTは、座学で考え方のクセの気づきを得る概念学習、ロールプレイングを用いてそのクセを修正していく体験学習、そして実践の大きく3ステップで進めます。VRはこのうちの『体験学習』にマッチすると考えました」。

認知行動療法(CBT) 3つのステップ
    概念学習:テキストやセラピストのレクチャーなどで、気持ちが動揺したりつらくなったりするときの、自分の考え方のクセを理解する
     ↓
    体験学習:セラピストとの対話やロールプレイングを通して、自分の考え方のクセと現実との食い違いを見つめ直し、思考のバランスがとれるようにして、問題解決の練習をする
     ↓
    実践:実際の生活の場で、学んだことをやってみて、自分の考え方のクセの修正の仕方を体得する

 従来のやり方は、患者とセラピストとの対話で進められるが、患者が自分に起こった出来事を話してもそれがセラピストにうまく伝わらなかったり、セラピストもまたうまく体験を引き出せなかったりといった齟齬が起こりやすい。しかも、治療効果はセラピストの技量に依存するところが少なくなかった。しかし、シーンやストーリーをVRで体験させれば、「百聞は一見にしかず」で、患者、セラピストとも、時間をかけずに共通認識が持てる。この点を国立精神・神経医療研究センターは高く評価している。

薬もCBTも効きにくい“無快楽”症状をVRで改善

 国立精神・神経医療センターが、認知行動療法にVRの導入を検討するにあたり、まずターゲットとしたのが「うつ病」だ。先述の通り、不安症や神経症に対するVRは海外に既存のものがある。「研究者としては未開拓の領域へ踏み込むことにやりがいを感じますし、うつ病は、我が国はもとより、世界的にみても最も患者数が多い精神疾患。この試みがうまくいけば社会への貢献度も高い」(伊藤室長)。

 ただし「うつ病と一口にいっても、たくさんの症状、病態があるのでVRの有効性を検証するには対象項目を絞り込む必要があります」(伊藤室長)。そこで着目したのがうつ病の中心的な症状の1つである「アンヘドニア」だ。これは、ポジティブ感情が低下したり、意欲が減退したり、喜びが失われた状態などを指す。

 「アンヘドニアは脳の中の“報酬系”と呼ばれる「快を求める」→「手に入れたものを味わう」→「次につなげる」のサイクルが不活化している状態。うつ病の中心的な症状であるにも関わらず、従来のやり方では薬物療法もCBTも、治療効果が得られにくいという報告がある」と話すのは同センターの蟹江絢子医師。

アンヘドニアは快感消失、無快楽とも呼ばれ「何をやってもいいことなどない」「今がつらすぎて先のことなど考えられない」と、前へ進もうとする気力が起こらない状態を指す。右はアンヘドニアを改善へ導く「報酬系サイクル」。VRのリアル感は、心地よさやわくわく感が素早く得られ、このサイクルを活性化させやすいと研究チームは話す(左のイラストは野崎裕子、右の図は国立精神・神経医療研究センター作成「ポジティブ価システムに焦点をあてた認知行動療法(PoCot)」を参考にBeyond Healthが作成)
アンヘドニアは快感消失、無快楽とも呼ばれ「何をやってもいいことなどない」「今がつらすぎて先のことなど考えられない」と、前へ進もうとする気力が起こらない状態を指す。右はアンヘドニアを改善へ導く「報酬系サイクル」。VRのリアル感は、心地よさやわくわく感が素早く得られ、このサイクルを活性化させやすいと研究チームは話す(左のイラストは野崎裕子、右の図は国立精神・神経医療研究センター作成「ポジティブ価システムに焦点をあてた認知行動療法(PoCot)」を参考にBeyond Healthが作成)
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 「アンへドニアは心が止まってしまっている状態ともいえます。ジョリーグッドのVRを体験したとき、VRのリアル感は心をゆさぶり、癒しになったりポジティブ感情がわきあがる助けになる、と確信しました」(蟹江医師)。

4~5年内の実用化を目指す、世界も視野

 今年中に実施する臨床試験では、成人のうつ病患者に実際にVRゴーグルを装着してもらい、体験学習してもらうことで、症状の改善やユーザビリティを検証する。人数は12人、治療期間は2カ月の予定だ。コンテンツは対面のCBTのプログラムに基本的には準じ、すぐに心地よさをうけとる短期的な報酬体験から、少し努力をしてその分大きな喜びをうけとる長期的な報酬体験まで、段階を追って、報酬系のサイクルを活性化させる。

 「1回目の試験なので、まずはうつ病患者さんがVRを苦痛なく使えるかを主な検証項目にします。中にはスイッチを入れたり、ゴーグルをかけたりすることすら負担になる人もいます。また、健康な人でも起こりえますが、VR酔いといって映像で気持ちが悪くなるケースも想定されます。不快なことが起これば、二度と使いたくなくなってしまいますし、それがきっかけで通院もできなくなってしまう恐れもあるので、使用上のネガティブ要因を臨床試験でしっかり洗い出しておく必要があります」(蟹江医師)。

 どんなコンテンツが患者の興味をひき、VR利用のモチベーションを上げるかも今回の試験で探る、と上路社長。「emouの実績から、うつ病に対しても、VRコンテンツの冒頭で見せる“チュートリアル(使い方説明)”の段階で、いかに心をつかむかが継続には重要と考える」(上路社長)。患者さんの反応はAIを用いてログ解析し、コンテンツ構築に生かす計画だ。

 臨床試験と並行してコンテンツの開発も進めていく。4~5年内の実用化を目指し、海外向けに英語版のリリースも視野に入れているという。のびしろが大きく期待の高いデジタル治療。遠くない将来、ハイレベルな群雄割拠の時代が訪れるかもしれない。

プロジェクトのメンバー(出所:ジョリーグッド)
プロジェクトのメンバー(出所:ジョリーグッド)
伊藤正哉氏(画面中央のPC内):国立精神神経医療研究センター 研修普及室長
心理学博士、臨床心理士、公認心理士。筑波大学大学院人間総合科学研究科 ヒューマン・ケア科学専攻 発達臨床心理学分野博士課程修了後、日本学術振興会特別研究員、国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所成人精神保健研究部流動研究員、ヨーク大学およびコロンビア大学客員研究員等を経て現職。特に、うつや不安、トラウマ、死別にともなう感情に対するよりより医療やケアの臨床・研究に力を入れている

蟹江絢子氏(下列左から2人目):国立精神神経医療研究センター 精神科医師
医学博士。日本精神神経学会専門医、日本総合病院精神医学会専門医。筑波大学医学専門学群医学類(医学部)卒業後、国立国際医療研究センター初期研修医等を経て現職。東京医科歯科大学大学院 医歯学総合研究科認知行動医学系博士課程修了。厚生労働省認知行動療法研修事業スーパーバイザー兼任。産業医でもあり、多くの職種との協働による治療アプローチを心掛けている

上路健介氏(上列左から3人目):ジョリーグッド 代表取締役CEO
テレビ局、広告会社、北米にて先端テクノロジー新事業開発20年を経て、2014年、株式会社ジョリーグッド創業。2015年、高精度VRラボ「GuruVR」を立ち上げ、テレビ業界トップシェア。2018年、VR×AI人材育成ソリューションを発表し、2019年には医療教育VR、発達障害向けVR、介護教育VRを展開し、VRによる人の成長や社会復帰の支援に注力している
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(タイトル部のImage:出所はジョリーグッド)