「PX」という言葉をご存じだろうか。カスタマー・エクスペリエンス(CX)やユーザー・エクスペリエンス(UX)の考え方を、患者(医療)に置き換えたペイシェント・エクスペリエンスのことだ。患者経験価値、すなわち患者中心のサービスの普及と振興に取り組むのが、2016年に創立、2018年2月に一般社団法人化した日本ペイシェント・エクスペリエンス研究会(PX研究会)である。同研究会の代表理事を務める曽我氏に話を聞いた。

(聞き手は小谷 卓也=Beyond Health)

患者に選ばれる病院とはどんな存在なのか

PXに興味を抱くようになったきっかけは。

 もともと医療機関のコーチングをしていた関係から、医師、看護師、リハビリスタッフ、技師、事務など様々な職種の方と接する機会がありました。その活動の中で、患者にとってより良い医療を提供したいとの想いは共通でも、忙しさが免罪符となり患者対応が粗雑になっている、縦割り組織のためなかなか多職種が連携できずサイロ化している、といった課題を発見し医療機関は「医療者視点」になっているのではと感じました。

 そこで考えたのが「患者に選ばれる病院とはどんな存在なのか」ということ。患者視点で医療サービスを提供すれば、結果的にスタッフの定着率など経営面でも効率性の高い病院になれるのではないかと。しかし、日本にはほとんど事例がなかったので米国の病院を調査しているうちにPXという概念に出会いました。

 深く調べていくと、PXは患者一人ひとりに最適な医療サービスを提供するために生まれた考え方で、世界的に認知されていることや、病院がPXに注力することで患者の満足度、集患が向上するだけでなく、在院日数や投薬ミスが減ったり、離職率が抑えられたりなどの成果が出ていることがわかってきました。また米国などでは診療報酬にPXが組み込まれていて、病院経営に直結する指標となっていることも知りました。ならばこれを日本にも導入してみたいと思ったのが経緯です。

参考にした米国の病院とは。

 オハイオ州にあるクリーブランドクリニックです。米国トップクラスの大規模病院で、医療技術も最先端なのですが、とにかくPXに力を入れているんです。 同院はPXに注力することが病院経営の向上につながると考えていて、ハードとソフトの両面から多額の投資をしています。ハード面の投資では、Google社と連携して患者が電子カルテを他の病院でも利用できるようにする「MyChart(マイチャート)」という患者用のモバイルアプリを開発して、処方箋の更新や診察予約の確認、医師への簡単な質問などができるようにしています。

PX研究会の曽我氏(写真:剣持 悠大、以下同)

 ソフト面の投資では、「Cleveland Clinic Experience」という全職員対象の研修会を開催して病院のミッションやバリュー、期待されるサービスレベルについて職種・部署横断のグループでディスカッションする機会を設けている他、医師対象のコミュニケーショントレーニングやプロコーチによる管理職へのコーチングなどを実施しています。これは職員のエンゲージメントを高めるための取り組みでもあり、働く人たちのやる気を引き出しながら病院全体の価値を向上させることに成功しています。

 PXは一種の投資でもあるんです。患者のエクスペリエンスに投資することで最終的にリターンを得られる、そうした発想が重要だと思います。

「声に出してはいけないと思っていた」との感想が…

PX研究会は2016年に創立、2018年2月に一般社団法人化しました。PXの考え方は、国内でも広がりつつありますか。

 PX研究会にはコアなメンバーが20人ほど、全体は150人規模ですが、今はアーリーアダプターが集まっている段階と見ています。それでも北海道から福岡まで、多くの病院が関心を持ってくれています。PXは病院に限った話ではなく、製薬企業やヘルスケア関連企業の方々もたくさん参加しています。とりわけ製薬企業の場合、グローバルの流れとしてペイシェントファーストの考え方が注目されていることもあり、大学とコラボしてデザイン思考を採り入れたプロジェクトを手掛けようとしたりするなど、新規事業にPXの視点を導入できないかと可能性を探っているようです。

米国とは環境も制度も異なります。啓蒙には苦労する点もあるのでは。

 ご指摘の通り、2016年に初めてPX勉強会を開催した際は2カ月かけて300病院に参加を呼びかけ、案内のためにFAXまで購入したものの無反応。参加してくださったのは知り合いの7人でした。毎月開催していても参加者は一向に増えず、無料の勉強会なのにと歯がゆさを感じていました。正直、現段階でのPX浸透は無謀かとあきらめかけたこともありましたが、立ち上げから参画してくれたメンバーの存在に勇気付けられ、勉強会を1年間続けることだけは決めました。

 そのうちに、一人、また一人と賛同してくださる方や一緒に活動してくださる方が増えて行きました。とはいえ、日本で浸透しているかといえばまだまだで、3年経過した今でも勉強会の参加者は20人程度です。

 確かに壁は大きく、PXに取り組んだからといってすぐに診療報酬に跳ね返るわけでもないので、病院が消極的なケースも多々あります。一方、厚生労働省が2015年に発表した「保健医療2035」で患者中心の医療へのシフトが明言されているように、国も注目し始めています。ただ、診療報酬にPXを入れる議論には至っていないようなので、まず私たちがPXによる医療費削減効果などをエビデンスとして提出することが次のチャレンジと考えています。

 とはいえ、石を投げてみると特に医師や看護師にヒットすることがわかってきたのは収穫です。驚いたのが「患者中心の医療をしたいと考えていたけれども、それを声に出してはいけないと思っていた」との感想が多いことです。

「医療はこうあるべき」というフタがされていたということですね。

 そのフタをいったん外して、患者にとってのQOL、本当に患者の求める価値がわかるようになれば、個別化した医療サービスの提案ができるようになります。エクスペリエンスの本質は究極の患者視点、より一般的に言えば顧客視点を持つことです。マーケティングにおいて個別性は当たり前のことですが医療界ではまだこういった考えが浸透していませんので、患者視点を持っている医療者がニッチな存在になっています。私たちはそれをマジョリティに変えていきたいです。

「スタバ」の何があなたを惹きつけるのか?

一般企業の領域では、顧客を主人公としたマーケティング手法であるカスタマー・エクスペリエンス(CX)、ユーザー・エクスペリエンス(UX)の導入が増えてきています。こうした事例のベンチマークはあるのでしょうか。

 スターバックスは先進事例と捉えています。PX研究会でも一度、スターバックスの事例を使ってエクスペリエンスを考えてみたことがあります。そこでは「スタバの何があなたを惹きつけるのか?」と問いかけたのですが、コーヒーの味や匂いといった五感だけではなく、店の雰囲気などの第六感で選んでいる人が多かったのです。「あの場所で読書している自分が好き」「Macを広げて作業している感じが好き」といったことです。

 まさしく感情や感性の部分で顧客がスタバとつながっていて、高い顧客ロイヤルティを生み出しています。その要因の一つにスタバの店員の存在も影響していると考えています。店員は自分がスタバで働いていることに誇りを持っているように見えますし、店員の積極的なコミュニケーションが気分良くさせてくれます。いやいや働いている店員を探す方が難しい。店員のそうした空気感が織りなしている空間だから心地よいのであり、それがエクスペリエンスの本質だと思っています。

 もちろん、病院にスタバで学んだことをそのまま持ち込むのは難しいのですが、忙しい中でも看護師が一声かけて患者の不安を和らげたり、病院のミッションやバリューを職員全員で考え共有したりすることで誇りを持てるようにするなど、できることも沢山あります。

今後のPX研究会の活動は。

 研究会の会員属性はいろんな領域にまたがっているため、やりたいこと、興味のある分野が違います。そこで今後は会員の興味に沿ったワーキンググループを作り、大きくアカデミック部門とビジネス部門と役割を分けて進めていきたいと考えています。

 アカデミック部門はPXに関するサーベイデータから、先ほど触れたような医学的エビデンスを収集・分析していく形です。対するビジネス部門は、患者の感情や行動を含めたビッグデータを活用して、病院運営や企業の患者に対する訴求に役立てていきたいです。今まで医療機関が収集してきたデータは心拍数や血圧などのバイタル中心でしたが、これからは患者の感情や行動など、エクスペリエンスを可視化することが必要だと思っています。

 何に価値を感じるかは患者によって異なります。もちろん、優秀な医師に良質な医療を受けたいという共通基盤はあるとして、その先には「クイックな診療でもいいからとにかく待ち時間を少なくしてほしい」「食事には多少目をつぶるからいいコミュニケーションと待遇を重視したい」といったようなニーズが個別に存在します。

 これらの潜在ニーズを掘り起こしてエクスペリエンスデータを蓄積すれば、仮に保険会社が患者に病院を紹介するときに「こういうタイプの病院がありますよ」と、エクスペリエンスドリブンで提案型の紹介が可能になります。このように、PXを極めれば患者の価値に沿ったサービスを提供する一助にもなるはずです。

 もう1つ、病院で働く人たちに向けたエンプロイーエクスペリエンス(EX)も重要なテーマです。職員が疲弊してしまうと悪影響が出てきます。忙しすぎて看護師が患者のケアに注力できなくなってしまったり、医師が機械的に診療したりすると患者の満足度が下がりますし、それはサーベイのデータからも明らかになっています。また、職員が病院で働いていることに誇りを感じられなくなると、それが患者に影響して患者満足度が下がるとのデータもあります。PX研究会として、EXとPXの相関を示して行きたいです。

医療者が企業勤務者と一緒に学ぶ

活動を始めて3年が経ちました。具体的な成果は見えてきましたか。

 これまで勉強会には前橋赤十字病院、川口工業総合病院、国立病院機構 九州医療センターなどを招いてPXサーベイの実施報告を行なってきました。エクスペリエンスを測ることで課題が顕在化し、医療サービスの改善につながっているとの報告があります。

 新たに今年からは、研究会が認定する「PXE(Patient eXperience Expert)」という資格を開始しました。PXEは様々な職種の医療者と企業勤務者が一堂に会してエクスペリエンスを学ぶ初の試みです。最初は医療者が企業勤務者と一緒に学ぶことに抵抗を示すのではと懸念したのですが、PXを様々な視点から捉えることがイノベーションにつながるのではと考えました。実際、医療者が企業勤務者から学ぶことも多いようで、医療者の視点シフトにつながっています。

 しかし、満足のいく成果はまだまだです。PXが有用であることのエビデンスづくりはもちろん、PXのビッグデータ活用や診療報酬へのインパクトを目指して走り続けるつもりです。

曽我 香織(そが・かおり)
スーペリア 代表取締役社長、日本ペイシェント・エクスペリエンス研究会 代表理事
大学卒業後、外資系コンサルティング会社で業務改善のコンサルティング、システム開発プロジェクトの開発チームマネジメントを担当。2010年よりコーチ・エィにて医療・介護事業の営業マネジャー、コーチを経て、2015年にスーペリアを創業。2018年に日本ペイシェント・エクスペリエンス研究会設立


(タイトル部のImage:剣持 悠大)