病気の発病前にできるだけ予測的な診断をして、介入することにより発症を防ぐ――。そんなコンセプトである「先制医療」を10年ほど前に提案した日本学士院長、京都大学名誉教授・元総長の井村裕夫氏。がんであれば、スクリーニングなどにより、症状が全く出ない時や発症初期でとらえ、介入していくことで命にかかわる事態に至る前に悪化を防ぐことが重要になる。Beyond Healthが実施した円卓会議「健康人生100年の世界を実現するために『がんスクリーニング』を考える」で座長を務めた同氏に、「先制医療」についてあらためて聞いた。

(聞き手は大滝 隆行=Beyond Health)

今後の医学の重要課題は、がんなどの「非感染性疾患」予防

「先制医療」を着想された経緯について教えてください。

 2000年代初め、多くの研究者との議論を通して生まれたものです。当時は、科学技術振興機構(JST)の研究開発戦略センターで、臨床医学の現状を俯瞰し、推進すべき課題を抽出して今後の方向性を提言する役職に就いていました。そこで、数人のフェローやセンター外の研究者との議論の結果、たどり着いた概念です。

 団塊の世代と呼ばれる人々が、2025年には全員75歳以上になります。75歳を超えると一人当たりの医療費が大きく増加します。さらに2035年以降には85歳以上の人口が増え、介護費の増大が社会にとって大きな負担になると予想されます。

 つまり、今後の医学の重要な課題は、がんをはじめとして、心血管系疾患や糖尿病など、高齢者のQOLを低下させ介護を必要とする状態にする「非感染性疾患」をどのように予防するかにあります。

 非感染性疾患は、国際的には「NCD」(non-communicable disease)と呼ばれています。日本では、生活習慣病という言葉が広く用いられていますが、これは人々に生活習慣の改善を促す意味では役立つものの、学問的にその範囲を決めることが難しい概念です。例えば、糖尿病はその代表で、生活習慣とは関係のない遺伝子の突然変異により起こるものもあります。それに対してNCDは、感染症・外傷・中毒以外の慢性疾患の総称として国連やWHOなどによって用いられてきた用語ですので、ここではNCDという言葉を使うことにします。

個人の特徴に応じて予測するのが先制医療

先制医療は、これまでの予防医学とはどう違うのですか。

 20世紀後半になって世界各国でNCDが増加し、その予防に関心が持たれるようになりました。虚血性心疾患の増加に危機感を持った米国では、1948年以降、フラミンガムという町の住民を対象とした追跡研究(コホート研究)が行われました。その結果、高コレステロール血症、高血圧、喫煙、肥満などのリスク因子が明らかにされ、それら因子への対策が予防法として進められるようになりました。

(写真:石田 高志、以下同)
(写真:石田 高志、以下同)
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 日本では、1950年代から当時の厚生省が成人病という概念の下、その早期診断・治療を目指して中高年を対象にした啓発活動と検診が行われました。こうしたNCDへの予防は集団を対象とした標準的なものであり、リスクを全て持っていても心筋梗塞を起こさない人がいるし、リスクが全くないか1つだけ持っていても起こす人もいる。統計学的に見れば、たくさんのリスクを持っている人に発症が多いのは間違いないのですが、それが必ずしも個人に当てはまらないところが従来の予防医学の最大の問題です。

 NCDは、一般に遺伝素因と環境因子が相互作用して発症すると考えられています。21世紀に入ってヒトゲノムが解読され、疾患感受性遺伝子の研究が進むとともに、血液の生化学あるいは免疫学的検査や画像診断が著しく進歩しました。これにより、個人の特徴に応じた予防法の開発への期待が高まりました。

 さらに、中高年以降の様々なNCDの発症には、胎生期や生後早期の低栄養が影響するとの疫学研究が注目を集めるようになりました。第二次世界大戦末期のナチス・ドイツ占領下のオランダで起きた飢餓の直後に生まれた子どもの追跡調査では、統合失調症や肥満、糖尿病、心筋梗塞などが多く、最近では認知機能の低下も認められています。

 先制医療は、こうした医学の進歩を背景としたものです。個人の遺伝素因やバイオマーカー、早期からの身体所見や病歴などから、水面下にある病気を予測し、その時点で介入することによって発症を遅らせるか防止することを目指しています。

開発進むリキッドバイオプシーにも期待

発症前に先制医療を適用し得るNCDとして、具体的にはどんなものが考えられるでしょうか。

 既に分かっているのは、認知症の中でおよそ60%以上を占めるアルツハイマー病です。若年発症例もありますが、多くは65歳以降に起こる晩発型であり、発症の20年ほど前から脳内にアミロイドβの蓄積があることが解剖学的所見から知られていました。

 近年、アミロイドβをPETスキャン(陽電子放射断層撮影)で検出できるようになり、発症前にプレ・アルツハイマー病を診断して対策を立てることが可能になってきています。ただ、確実に有効な薬剤はまだ開発されていないので、プレ・アルツハイマー病を進行させる環境因子、例えば糖尿病や脂質異常症、高血圧、運動の少ない生活様式などへの対策を考え、発症を防止あるいは遅延させる方法を考えるべきでしょう。

 欧米では最近、アルツハイマー病が減り始めています。その原因は解明されていませんが、戦後の大学進学者の増加が関係しているといわれています。知的好奇心を持ち続けることも重要です。

「がん」も先制医療で克服できるでしょうか。

 がんは、細胞の分裂・増殖に関与する遺伝子に突然変異が蓄積することにより起こると考えられています。ただし、局所の微小環境や免疫系の関与も指摘されており、発症予測が可能かどうかまだよく分かっていません。

 私が座長を務めた、「がんスクリーニング」をテーマにした円卓会議では、リキッドバイオプシー(血液などの検体からがんを検出する技術)が話題になりました。昨今では、細胞から血液中に放出されるエクソソームの研究が活発になっており、発症前の診断に役立つ可能性があります。

 感染を基盤にして起こるがんに対しては、例えば胃がんではピロリ菌の除菌、肝がんでは肝炎ウイルスの治療、子宮頸がんではHPV(ヒトパピローマウイルス)ワクチンが発症の予防につながるため、ある意味で先制医療といえます。また、がんの発症に関わる要因として環境因子も重要です。喫煙や食事、飲酒、紫外線・放射線曝露への対策も一般的な予防として進められる必要があるでしょう。

先制医療は、医療提供者だけでは実現できない

病気が起きてから対処するのが今の医療ですが、先制医療はその前段階のフェーズに介入していこうという考え方ですね。

 そういうことです。健康寿命が長い社会を実現するためには、ヘルスケアの在り方を変えていかなければなりません。現在の医療制度では、医師を含め医療提供者の大部分は病院または診療所で、不調を訴えてくる人を待ち構えている。いわば、人々が病気になるのを待って、診療行為を行っているわけです。

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 しかしそれでは、高齢者がNCDを発症し要介護状態になるのを防ぐことはできません。医療は受け身から能動的姿勢に転換することが求められています。それと同時に、先制医療の実現には、医療提供者だけでなく、社会のあらゆる組織、自治体、企業、NPO法人などが疾患の予防に関与していかなければなりません。

 政府も予防に対する健康保険の適用を段階的に考えていくべきです。健康長寿は社会の全ての人、あらゆる組織が能動的に参加しなければ成り立たないものであるといってよいでしょう。

(タイトル部のImage:石田 高志)