「ホッピー」というと、何を思い浮かべるだろうか? 関東圏の人なら、居酒屋や流行の立ち飲み屋の前に「ホッピー」と書いたちょうちんやノボリがあるのを見たことがあるはずだ。「焼酎を割る安いビール風飲料」「オヤジの飲み物」「レトロな感じ」…。そんなイメージを持っているかもしれない。

 しかし、ホッピーのロゴが踊るノボリをよく見ると「低カロリー、低糖質、プリン体ゼロ」の文字も入っている。低アルコールでヘルシーな飲み物として、いまやホッピーは30~40代に親しまれている。一度は危機に陥ったホッピーブランドだが、5年間で3倍の売り上げに導き見事復活させたのが、社長の一人娘であり副社長の石渡美奈さんなのだ。

 「おはようございます!」。赤坂にあるホッピービバレッジのオフィスを訪れると、社員たちが大きな声で挨拶をしている。午前中の訪問だったが、始業前に社員が一斉にオフィスの掃除に取り組んでいることに、まず驚いた。まるで年末の大掃除のようだ。

 「お掃除は毎朝なんですか?」。石渡さんにまず尋ねてみた。「そうです。毎朝の環境整備が今年の重点方針。形から入って、心にいたるんですよ」。ホッピーの“看板娘”、石渡さんはハキハキと答える。

 「『社員が心をひとつにして』と言うだけでは、なかなか実現できないでしょう? 単純作業を皆で繰り返すことで、心をひとつにして戦えるようになるんです。1年間見なかった書類は捨てる、無駄な仕事はやらないようにする、というのも環境整備です。うちは小さな会社で体力も限られていますから、存続のためには必要なことなのです」

 よどみなく語る石渡さんには「会社を守る」という強い意志が感じられる。ホッピーの歴史は、石渡さんの祖父が戦後間もなく長野県で良質なホップを手に入れたことから始まる。焼酎を割る低アルコールのビール風飲料、高価なビールに代わる安価なメニューとして、居酒屋ではおなじみとなった。しかし、その後ビール会社の追随や酎ハイブームの煽りを受け、ホッピーは「忘れられたブランド」になりかけた時期もあった。

 2代目社長の一人娘である石渡さんは、最初から跡取りとしての自覚はあったのだろうか? 「小さい頃から、会社を継ぐ“婿”を見つけるのが娘の役目だと思っていました。自分の夫に跡を継いでもらい、私は事務でもやろうかと…。ボーイフレンドとつき合う時も、常に『この人は次男だからOK』といった目で見ていました。今思えば、申し訳ないことをしたなあ、と…」。その石渡さんが会社を継ぐことになろうとは、「本当に、人間、自分のことは分からないものですねえ」と笑う。

 石渡さんはバブルの頂点の時期、1990年に立教大学を卒業。入社した日清製粉の人事部で一般職として働き、OL生活を謳歌して93年に“寿退社”。これは、当時のOLたちの花の王道でもあったのだ。

 「次男で優秀で、条件ばっちりの婿を見つけて退社。絵に描いたようなコースだったんですよ。でも半年で、私が壊してしまった…」と石渡さん。働き方に関するお互いの意見が合わず、結婚してわずか半年で離婚することになる。

 思えば結婚式の前から、別れる兆候はあったという。会社を辞め式を半年後に控えた頃、石渡さんは「社会の中に居場所のない自分」に耐えられなくなり、広告代理店でアルバイトを始めたのだ。

 のんびり花嫁修業などしていられない性格なのか、広告代理店では営業アシスタントとして夜遅くまでのフルタイム勤務をこなした。バブル時の代理店だからさぞや意気軒昂で、イキイキと働けたのだろう。おとなしく“未来の社長夫人コース”に乗り切れない何かを、代理店の仕事は石渡さんの中で揺り起こしてしまったらしい。

 「離婚してみると、職はない。小さい頃から思い抱いていた、“お嬢様路線”とは違う人生を歩み出した自分に気がついたんです」と石渡さん。「どうする自分?」と問い、とにかく仕事を見つけようと頑張った。王道と思っていた道が崩れ、初めて働くことに正面から向き合ったのだ。

 しかし90年を頂点に、バブルは崩壊の道をたどりだしたばかり。代理店のアルバイトを続けながら正社員の道を模索したが、内定はゼロ。女性向けのウェブサイトやコンビニ会社など様々な会社を受けたが、文学部卒、一般職で社会人経験3年の女性に門戸を開く企業はなかった。

広告代理店で営業を任され、仕事に目覚める

 「諦めて、働いていた代理店の仕事に腰をすえて取り掛かり始めたら、転機が来ました。営業として、いくつかのクライントを任せてもらえるようになったのです。最初の会社で働いていた頃は、社会人としての振る舞いなどの基礎を作ってくれたことには感謝していますが、仕事の仕方に関してはあくまで“女の子”扱いでした。代理店で初めて営業を任されて、『仕事って面白いじゃない』と目覚めたんです」

 同じ頃、父の会社に対してピンとくるものを感じたという石渡さん。それは、ビールがきっかけだった。95年に地ビール製造の規制緩和があり、ホッピーも全国で5番目に免許を取得したのだ。それまでホッピーには興味がなかったが、父の会社もビールを作るのだと初めて家業に目を向けた。

 「跡取りとして会社に入りたい」。そう宣言した石渡さんに父親は大反対。27歳の時だ。「今なら、父が反対した理由は分かります。当時会社の業績がよくなかったので、経営者としてやっていくのは女では無理だと思ったのでしょう。それに、当時の私の仕事の仕方では、親も納得しなかったと思います」

 広告代理店で夜遅くまで働いていた石渡さんだが、昔かたぎの製造業の父親には、広告業界自体がなにやら胡散臭く感じられたのだろう。娘が派手に飛び回っているとしか見えなかったようだ。そこで石渡さんは、まず父が納得するような“手堅い企業”東京ガスで働き、母親を味方につけて時期を待った。

 97年、母娘の説得が功を奏し、晴れてホッピーに入社。しかし石渡さんを待ち受けていたのは、試練の道であった。「男ばかりの古い体質の会社に飛び込んだ私は、全く歓迎されなかった。古参の役員が幅を利かせ、既得権を守ることに必死で、新しいこと、変わることをしない会社でした。会議は“井戸端会議”だし、社長の意向も反映されず、組織としてもおかしい。いろいろなことが、何か変だと感じました」

 28歳の女性の目から見て、納得のいかないことばかり。自分は、これからホッピーのメインコンシューマーになってもらわねばならない世代だ。その自分にとって、当時のホッピーはなんとも古臭く、ダサく、何も響くものがなかった。さらに当時は酎ハイブームで、ホッピーはピンチに陥っていた。

 「このままでは、売れない」と、石渡さんは意気込んで商品開発に着手。しぶる役員を説得して予算を取り、マーケティング調査を行った。ダサくて好きではなかった赤のロゴデザインも変えた。広告代理店時代のコネやノウハウをフルに使い、スタイリッシュな「ホッピーハイ」という新商品を売り出す。

 「でも、これが大失敗。1000万円の損失を出しました。失敗の原因は、社内の協力が得られなかったことです。いっぱしの代理店営業ぶって、利いたふうな意見を押し通そうとする私を、誰もが忌々しいヤツという目で見ていました。もうひとつの原因は、ロゴが変わったことでホッピーという商品として認知されなかったことです」

 この失敗で石渡さんが学んだのは、「変えていいものといけないものがあるのだ」ということ。「伝統とは革新の連続ですが、大切なのは『温故創新』という精神。ふるきをあたため、新しきを“クリエート”することなのです」

 しかし社内での立場はますます悪くなる。当時の石渡さんは、毎日出社しても無視されていたという。そんな立場でも、「この会社に入って、辞めたいと思ったことは一度もありません。なぜなら自分で初めて選んで、納得して入った場所だから」と石渡さんは言う。「自分探し」をしながらさまよっていた、20代の頃。あちこちに頭をぶつけつつ、紆余曲折の末にたどり着いたホッピー。だからこそ、入社してから何があっても「ずっとハッピー」なのだと明るく笑う。

 「ただ、当時は自分からも周りとコミュニケーションを取らずに、孤立していました。ホッピーをもっと宣伝する仕事もしたかったのですが、50代の社員が多く、小娘である私の言うことなど誰も聞いてくれません。そこで思いついたのがウェブサイトでの発信でした」

ネットでの情報発信がきっかけでV字回復に

 友人に「あなたの会社がホッピーを作っているのは知っているけど、一体どこで買えるの?」と聞かれることが多かった。そこでインターネットで売ったらどうか、と気づいたのだ。「思い立ったらすぐ実行」が身上の石渡さん。早速eビジネスのスクールに通い、ホームページの作成を学んだ。会社の男性は皆、パソコンと聞いただけで蕁麻疹が出るような世代ばかり。石渡さんがやっと見つけた自分だけの場所は、パソコンとインターネットの中にあったのだ。

 「自社のホームページを立ち上げて情報発信する。これは社内でも、私にしかできない仕事です。私自身もネットで『ホッピーミーナ』と名乗り、3代目跡取り修行日記を書き始めました。そのうちネット上に『ホッピーでハッピー党』という“勝手連”ができて、応援してくれるようになりました」

 「ホッピーミーナ」の日記は、人気ランキングで上位を占めるようになった。ブログの走りのようなものだ。書き続けるとアクセス数が落ちないと知り、毎日まめに更新した。ネットショップも立ち上げた。インターネットでの発信は、確実にV字回復のきっかけとなったのだ。

 「ネットで見て、マスコミが取材にきてくれるようになりました。2003年にテレビの報道番組で8分間取り上げられ、ある番組では30分ホッピーの特集をしてくれた。広告宣伝費はあまりかけられませんが、毎日ウェブを更新するという積み重ねでやっと注目されるようになったのです。認知度が上がると同時に、業績も好転し始めました」

 そんな石渡さんに対する周囲の反応はどうだったのだろう? 「当時父には、毎日パソコンで遊んでいると思われていました(笑)」と石渡さん。「ところが後に父から、『あの時インターネットをやっていなかったら、会社はつぶれていたと思う。遊んでいると思っていて悪かった』と言われたのです。この時、初めて“社長”に褒められましたね」

 しかし社内の目は相変わらず冷たく、新規市場開拓や社内制度改革には手がつけられない。改善しようにも内部の反発が強く、動けない。会社は「じいちゃんの資産」をどんどん食い潰していく状況にあったのだ。

 2003年、ホッピー創業55周年の年に、石渡さんの働きぶりをずっと見ていた父が「お前のやりたいようにやりなさい」と、事実上の経営を任せてくれた。石渡さんは正式に3代目として、本腰を入れて会社の改革に乗り出すことになる。(後編に続く)


石渡美奈(いしわたり・みな)

1968年、東京生まれ。90年立教大学卒業後、日清製粉に入社。広告代理店を経て、97年に祖父が創業した会社、ホッピービバレッジに入社し、広告営業企画を担当。99年公式ウェブサイトを立ち上げ、日記も書き始める。2003年5月から副社長に。

日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総研 HR人材開発センター長 大塚葉が担当した記事を再掲。