埼玉県・大宮駅からタクシーで20分ほど走ると、日本電鍍工業に着く。敷地の門に古い木の看板が掲げてあるのが目印だ。2階建て社屋の奥には工場があり、迎え出た女性社員も事務服を着ている。いかにも、実直な日本の「ものづくり」会社という感じだ。メインの事業は「メッキ」。来期で創業50期を迎えるこの会社の現社長は、創業者の一人娘である39歳の伊藤麻美さんである。

日本電鍍工業代表取締役 伊藤麻美さん(写真:皆木 優子、以下同)

 「こんにちは」と現れた伊藤さんをひと目見たら、誰もがびっくりするだろう。どちらかというと、「外資系企業の広報です」と言われた方がしっくりするような雰囲気の女性だ。元DJで、幼稚園からインターナショナルスクールに通い、米国留学経験あり。そんな経歴の彼女が赤字会社の社長となり、3年で黒字転換したのである。

 「父は、会社をつくって経営が安定すると他の人に社長を任せ、また次を起業するような行動派でした。父の会社は5~6社ありましたが、父はオーナーとして全社の経営判断や重要な決断をすべて行っていました」。伊藤さんの父親は商社、貿易業を経て、「日本も今後は世界に向けて高品質な商品を作るようになる」と、1958年に貴金属メッキの会社を設立した。セイコー、シチズン時計、オリエントなどの国内一流時計メーカーのメッキ加工指定を受け、会社は順調に成長する。

 父は次々に会社をつくり、事業は拡大、伊藤さんは社長令嬢として何不自由なく育った。家は東京にあったので、父の会社がどんなところかも知らなかったという。父もユニークなアイデアマンだったが、母もソウルミュージックに造詣が深く、流行りだしたばかりのディスコに通っていたというおしゃれな女性。伊藤さんが幼稚園から清泉インターナショナルスクールに通っていたのは、「ファンキーな父母」と伊藤さんが言う両親の方針だった。しかし母は伊藤さんが13歳の時に病を得て、7年後に亡くなっている。

「自分の病気を知った母は、私にお料理などを特訓してくれました。いわゆる花嫁修業です。中学生の頃から魚を3枚におろしたりしていました。当時は子供でしたから、ほかの子が楽しそうに遊んでいるのに、どうして私だけがこんなに厳しくしつけられるのか、と思っていました」

 清泉から上智大学に進み、卒業して進路を選ぶ頃、世はバブルの真っ盛り。「大学の友人はみな、金融、マスコミ狙い。いい就職先がいくらでも選べた時代で、仕事についてあまり深く考えていなかったんです」。その頃父は、「今しかできない道に進めばいい」と助言してくれた。「私の好きなことは、音楽と宝飾。父の『今しかできない道』という言葉に従って、音楽を仕事にしたいと思いました」

 母の影響か、小学校6年からアースウィンド&ファイアーを聴いていたという伊藤さん。HipHopやR&Bをもっと日本人に知ってもらいたいと、ラジオ番組のDJになる。「クラブのDJではなく、ラジオのディスクジョッキー(パーソナリティー)です。まだ当時ポピュラーではなかったHipHopやR&Bなどの音楽を通じて黒人の歴史や文化を紹介できたら、と思いました」。小林克也氏のアシスタントのオーディションに受かり、その後TBS、東京FMなどに番組を持つ。「どんな仕事も、最低3年は続けなければその良し悪しも分からないと思ったのです。結局この仕事は8年続けました」

 その8年の間に、伊藤さんは23歳で父を亡くした。遺されたのは会社と家。継母(父の再婚相手)と伊藤さんは、その家で以前と変わらない生活を続ける。「父も私に跡を取らせるつもりはありませんでしたし、父が亡くなっても会社は続くものと、疑いもなく思っていました」

 「当時は、『会社は生き物』という概念もなかったのです」と伊藤さん。会社も生きている。良い時もあれば悪い時もあり、ダメになることもあると、当時の伊藤さんは認識していなかった。会社とは幼い頃から「そこにあるもの」「ずっと続いていくもの」としか思っていなかったのだ。

 30歳で伊藤さんは米国に渡り、宝石の学校で勉強することを決意する。方向転換の理由は何か。「DJという職業には魅力を感じていましたが、途中から『一生続ける仕事ではない』と思い始めたのです。米国では若さよりも経験やスキルを重視しますが、当時の日本では、まだそういう風潮はなかったと思います」。今も日本では「女子アナ30歳定年説」があるが、伊藤さんもDJという仕事について、「若いうちだからこそできる仕事」と感じるものがあったのだ。

 また、伝えたいことがあるからこそ始めたDJの仕事だが、スポンサーのひと言で企画が簡単に覆されてしまうこともしばしばだった。伊藤さんと一緒に思いを分かち合っていたプロデューサーも、結局はスポンサーの意向になびいてしまう。

 「自分なりに努力はしてきたつもりでしたが、私もまだがむしゃらさが足りなかった。住む家もあるし、恵まれた環境でお金を稼いでいても、生きるためではなかったのです」。30歳はターニングポイント。宝飾の世界でやっていこうと、カリフォルニア州のGIA(Gemological Institute of America)に留学する。1年で宝石鑑定士と鑑別士の資格を取り、そのまま米国で就職しようと思った。インターナショナルスクール育ちで英語に不自由もなく、日本人のクラスメートには米国人と思われていたほどだ。父も母も既になく、日本に未練はない。ある意味、とても自由だったのだ。

 その頃、伊藤さんはカルティエの開催するパーティーに出席した。クラスメート200人のうち推薦された数人しか出席できないという、特別なパーティーだ。選ばれた伊藤さんは、このパーティーでカルティエの当時の社長に会う。

 「その時社長から名刺をいただき、『カルティエで働くことに興味があったら、連絡をください』と言われたのです。この話を聞いた友人はみな、エキサイトしながら喜んでくれました」。「それは、内定だよ」とクラスメートは騒然とし、伊藤さんも突然現実味を帯びた、新しい世界への希望に心が躍った。新たな地平が目の前に拓けたのだ。しかし、突然の日本からの電話で状況は一変する。

優良企業が倒産の危機に

「会社が危ない」という第1報は、継母からの国際電話。「全く知らなかった。実は父が亡くなった翌年から業績は落ち始めていたのですが、気がついた時は、家も売らなければいけないかもしれないほど切迫した状況になっていたんです」

 取りあえず、飛行機で一路日本へ。成田に継母が迎えに来ており、家への車の中で「担保が」「資金繰りが」「決算書が」と話をされたが、「全く訳が分からない。時差ぼけの状態で、新しい税理士さんや弁護士さんと会ったのが、会社にかかわる事始めとなったのです」

 次第に分かってきたのは、無借金の優良企業だった会社が、父の死後誰も舵取りがおらず、徐々に赤字に傾いてきたこと。父の後を任されていた人の一部が会社の資産を食いつぶし、10年間赤字を垂れ流してきたことなどだ。「ここまでひどい状態になるには、昨日や今日の話ではないのですが、継母にも全く情報が来なかった。女子供だと甘く見られていたのでしょう」

 そもそも、国内の一流時計メーカーのメッキ事業のほとんどを請け負っていた会社だ。しかし、生前から父は先を見越して「時計はもう成熟産業。会社に余裕があるうちに、他業種に転換しなくては」と口にしていた。

 だが、その矢先に父は他界。「跡を継いだ社長たちは、既存の事業だけに頼り、新しい活路を見いだそうとせず、赤字転換を漫然と放置していた。新規事業に投資するどころか、必要のない新しい工場まで建てていたんです」

 結果として、何十億円も資産のあった会社が10億円以上の借金を背負うことになった。「今月か来月、もしくは今年中に、会社は倒産する」…。31歳で帰国した伊藤さんに突きつけられたのは、厳然とした事実だった。

 父を慕っていた従業員たちもリストラで既に辞めていた。よくできる社員ほど、去っていった人が多かったという。会社は暗い雰囲気だった。「現実でなければいいのに、と思いました」

 その頃の伊藤さんは、まだストーリーの主役という認識はなかった。せいぜい、どうにもならない状況に手をこまぬく「エキストラ」程度だと思っていた。だが、何を決定するにも「伊藤サイド」として参加するのには、肩書きがいる。7月に帰国して数カ月の間に、伊藤さんはまず監査役になり、次に取締役になる。

 年が明け、伊藤さんはついに「自分でやるしかない」と腹をくくった。「最初は、よそから敏腕な経営者が来てくれるのでは、などと漠然と考えていました。でも会議のために会社に何度も行くうちに、社員の顔が見えてきたんですよ」

 彼らにも人生があり、家族がいて子供がいる。何とかしないと、みなが路頭に迷ってしまうのだ。そして、自分の今までの人生を考えた。「両親がいて、会社があって、社員が頑張ってくれたからこそ、私自身学校に行けたし、ご飯も食べられた。だからこそ、恩返しがしたいと思いました」

日本電鍍工業代表取締役 伊藤麻美さん

 しかし赤字会社の社長など、ビジネス経験豊富な男性でも誰も引き受けようとしないだろう。中小企業は、自分が会社を守りきれなければ自己破産するしかない。「でも、たとえ会社がつぶれても、命まで取られるわけじゃない。自分が死ぬ時に、これまでの人生に胸を張ることができるか、後悔はないか…と考えました」

 「社員への恩返し」「後悔したくない」。この2つがキーワードとなり、32歳になった伊藤さんは「私が会社をやろう」と決断する。「大丈夫。32歳ならまだやり直せる年だ」と自分に言い聞かせながら。

 しかし「やる」と気持ちは固まっても、誰も賛成してくれるわけではない。会社に勤めた経験すらない若い女性が製造業の社長になるというのだ。当時、製造業には女性社長はほとんどいなかった。唯一、友人の父で会社経営をしている人だけが、「麻美なら(社長業が)できる。3年間地獄を見てこい」と言ってくれた。

 それを聞いた伊藤さんは「じゃあ、頑張れば4年目からは天国になるかなあ」。こんなところは、彼女の楽天的な部分だ。しかしそれは、すべての成功者の条件であるとも言える。2000年3月、伊藤麻美さんは亡き父の遺した、日本電鍍工業の代表取締役社長に就任する。

 就任の挨拶は前の晩に考えたが、当日何を話したかもう覚えていない。しかし、挨拶の後、辞めようと思っていた社員のうち何人かは「オーナーにご恩返しがしたい」「俺たちで娘さんをもり立てよう」と辞職を翻意してくれたという。

 「父のおかげだと思います。父を知っている社員達はみな、父にとても世話になったので恩返しがしたい、と言って私をサポートしてくれました」。しかし、社員数は最盛期の200人から50人に減っていた。

社員一人ひとりに挨拶することからスタート

 社長になった伊藤さんは、毎朝社員全員に挨拶をし、顔を覚えることから始めた。「当時は経営者の仕事とはどういうものなのか、分かりませんでした。そこで、まずは自分にできることからやろうと思ったんです」

 毎日社員に自分から挨拶する。明らかに見下して無視する人もいた。それでも挨拶をし続けた。今でもずっと続けている。

 赤字会社の社長としては、まず金策を考えなければいけない。しかし、つき合いがあった銀行もみなそっぽを向く。女性経営者というだけで扱いが悪かった時代だ。「あんたが社長? プロフィール持ってきてよ」「本物の経営者を連れてきて。あなたじゃダメだよ。本物、本物」…。社長として挨拶に行った銀行では、こんな扱いも受けた。

 しかし伊藤さんはくじけなかった。「信用は一夜では築けません。今に、借りてくださいって言わせてみようと、逆にファイトがわいてきました。とにかく、負けず嫌いなんですよ」

 そして彼女の言葉通り、会社は本当に3年で黒字になる。後編では伊藤さんの経営戦略に触れる。


伊藤 麻美(いとう まみ)
1967年東京生まれ。上智大学外国語学部比較文化学科卒業。FMラジオ、テレビなどのフリーランスDJとして活躍した後、1998年に米国カリフォルニア州、宝石の学校GIA(Gemological Institute of America)にて宝石の鑑定士・鑑別士の資格を取得。帰国後、2000年3月、日本電鍍工業の代表取締役に就任。

日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総研 HR人材開発センター長 大塚葉が担当した記事を再掲。