六本木ヒルズ、東京ミッドタウン…。都市再開発が進み、人々が集まる盛り場も刻々と場を移し、顔を変える。かつてもてはやされたホットスポットが、数年で寒々しいほど空ろな姿になることも珍しくないほど、東京は忙しい街だ。

 しかし、銀座という街は不思議と廃れない。一時期、他の街に押されて元気がなくなっても、いつの間にかすました顔で復権している。古くて新しい。新しいのに、古い。そんな銀座が他の街と違う独特なポジションを保っていられるのは、やはり銀座の商人と呼ばれる人々が、独自の銀座文化を粘り強く継承しているからだろう。

亀岡商会 常務取締役 亀岡幸子さん。対鶴館ビルの赤レンガの前で(写真:山田愼二、以下同)

 今回の跡取り娘、亀岡商会常務取締役の亀岡幸子さんも、そうした“銀座文化のDNA”を継承する若い世代の1人だ。銀座には「XX通り会」といった組織が無数にあるが、亀岡さんは、創立55周年になる若手経営者を中心とした「銀実会」をはじめ、5つの銀座の町内会に所属している。

 さらに出身校や業種などのカテゴリー別の会があり、外資系のブランドショップも独自の会を形成している。こうした会は網の目のように銀座を覆い、その結束の固さが独自の街の空気を醸し出しているのだ。

 亀岡さんは、銀座の赤レンガのビルとして知られる対鶴館ビルの4代目館主の次女として生まれた。亀岡商会は新日本石油の特約店であり、主な事業は潤滑油の販売である。ガソリンスタンドも所有している。まずは、亀岡さんが家業に入るきっかけとなった対鶴館ビルの話から始めよう。

 晴海通りに面したソニープラザとエルメスの並び、並木通りとの交差点にある赤いレンガの建物が、対鶴館ビルだ。現在は1階にコーチが入っているが、以前は野村証券の店舗があった。バブルの頃など、株価の変動時にニュースに映し出されるのは、たいていこの野村証券の店舗だったと記憶する。バブル時も、また崩壊の時も、テレビカメラは対鶴館ビルの株価掲示板に群がる人々を映し出していた。

銀座の象徴でもあった、赤レンガの対鶴館ビル

 「このビルは、昭和50(1975)年に野村証券が初めて銀座に出店する時に祖父が建てたものです。銀座の商店街は、午後3時にはシャッターを下ろしてしまう金融機関の進出に強い拒否反応を示していたので、商店街の人の邪魔にならないよう、1階はセットバックにしました。野村証券の担当の方は、『うちがこのビルを出る時は、日本がひっくり返る時ですよ』とおっしゃったそうです」と亀岡さんは言う。

 しかし、野村証券の店舗は1999年に英国のドラッグストアBootsに変わっている。バブル崩壊、金融緩和、銀行再編など、金融業界は転換期を迎え、文字通り「日本がひっくり返った」わけだ。

 対鶴館の初代は銀行業で、明治期には銀座で旅館を営んでいたという。その後は雑居ビルとしてテナント貸しをしていた。3代目に当たる亀岡さんの祖父がビルを建て替える時、外装の赤レンガにこだわったのは、銀座の象徴である「赤レンガ」「柳」「ガス灯」への思い入れからである。

 ビルの地下には叔父が経営する「赤レンガ」という雑貨店とカフェがあり、8階は亀岡商会の事務所。1階から7階がテナントになっている。地下の店舗を持っているのは、「(経営に)苦労してもいいから、ここは自分たちで使いなさい。テナントは少ない方がいい」という祖父の方針に従ったものだ。祖父がこう主張したのは、「ビル建て替えの時にテナントがなかなか立ち退かないなど、苦労があったからです」と亀岡さんは言う。

「ビルの地下を任された叔父は、銀座で働く女性が利用しやすいような店舗作りを目指して、雑貨店とカフェを始めました。テナントビルというのは、テナントが入って順調なうちはいいのですが、出たり入ったり…ということになると、急に忙しくなるのです」

 亀岡さんが家業に入ったのは1996年の野村証券の撤退がきっかけだが、それまでは家業とは全く違う道を歩んだ。高校から渡米して大学に進み、そこで就職するつもりだったのだ。「高校の時にテキサス州に留学して、大学に進学しました。留学中は母の知人の家にお世話になっていたのですが、最初の5年間は日本には帰りませんでした。当時は日本の窮屈なところ、嫌なところばかりが目について、『アメリカは最高、このままアメリカ人になってもいい』と思うくらい、帰りたくなかったのです」

 日本に帰りたくなかった理由の1つに、父への反発があった。銀座のビルオーナーで、“銀座の旦那衆”の1人である父親は、めったに家に帰らない人。家族で一緒に出かけた思い出もほとんどなかった。留学するまでは女子校に通い、周囲に男性がいなかった亀岡さんにとって、父という男性は遠い存在だったという。「うちは祖母、母、私が真ん中の3人姉妹の女系家族です。今思えば、父が家にいづらかった理由もなんとなく分かるのですが」

父の突然の病気に帰国、会社の仕事を手伝うことに

 米国の大学では哲学、文化人類学を専攻。「家出同然」と思っていた亀岡さんだが、大学3年の時に、父とのわだかまりが解ける出来事があった。「5年ぶりに帰国した時のことです。父が、それまで行ったこともないようなホテルですき焼きを食べさせてくれ、洋服を買ってくれたんです。今までこんな経験がなかっただけに、不思議な感覚でした。この日は、父に何度も『ありがとうございます』と頭を下げたんですよ」

 しかし父親は、「娘なんだから、このくらいのことをするのは当たり前だ。いちいち、ありがとうなんて言わなくていいんだよ」と言った。もともと口の重い父なのだ。久々に帰国した娘への、精いっぱいの気持ちを表したのだろう。不器用なりに父は3人の娘をとてもかわいがっていたのだと、その時気づいたのである。「この時、長年の父への反発やわだかまりがすっと消えたんです。ああ親子なんだ、と改めて思いました」と亀岡さん。思い出すと今でも顔がほころぶほど、うれしい出来事だった。

 1992年、米国ペンシルベニア州のカレッジでの大学生活も終わろうとする頃、「哲学ではつぶしがきかないので、ロースクールに行こうか」と漠然と考えていた亀岡さんに、日本から「父が倒れた」という知らせが入る。「父が大病をしたんです。あわてて帰国して、その後半年の間は、家族が結束して父の看病をすることになりました」

亀岡商会 常務取締役 亀岡幸子さん

 89年に三菱地所がロックフェラータワーを買収したことは米国でも話題になっており、帰国当時の日本は景気がいいように見えた。父親は週に2~3回会社に出るまでに回復し、運転手代わりに付き添っていた亀岡さんは、会社の経理を手伝うようになる。しかし、「姉が婿を取って亀岡商会を継いでもらう」と思っていた亀岡さんには、自分が家業を手伝うという意識はなかった。

 会社では祖父の代からのしっかりした“番頭さん”が仕切っているので、亀岡さんがやれることはあまりない。このまま父の秘書では中途半端だと、改めて自分の道を考え始める。

 2年後の94年、今度はワシントンDCの大学にMBA(経営学修士)留学をする。経営に興味があったわけではないが、MBAがあると就職の選択肢も広がると思ったためだ。「でも私がMBAを取った頃には、日本のMBA神話は崩壊などと言われていましたが…」

 96年に卒業し、今度は迷わず帰国した。姉が会社に経理で入っていたので、自分は違う会社で働きながら家族のそばにいようと思ったからだ。「父の体が不自由なので、なるべく家に近いオフィスがいいと思い、笹塚にあったマイクロソフトに入社したのです」。ウィンドウズ95が発売された後で、活気に満ちた会社での仕事は、マーケティングリサーチ。ここには3年半勤めた。

野村証券の撤退と新たなテナント探し

 しかし96年に、亀岡家にとっての大問題が降ってわいた。それが、メインのテナントである野村証券の撤退だったのである。

 撤退するテナントとの条件面を交渉し、同時に次のテナントを探さなければいけない。こうなると、「亀岡商会は30人ほどの会社ですが、これらの交渉をするには人手が足りません。そこで私はマイクロソフトを辞め、ビル管理の仕事で家業に入ったのです」

 新しいテナント探しといっても、こちらから探しに行く必要はない。さすがに対鶴館ビルは銀座の一等地だけあって、テナントを希望する企業は少なくないのだ。特に、海外のブランドが多かった。10社以上から依頼があったが、銀行が間に入って5社のプレゼンテーションを受けることになった。

 銀座のビルのオーナーがテナントを選ぶ基準は何なのか。「まず、長くお付き合いできること。それから、なぜ銀座に出店するのかをきちんと分かってくださっていることです。銀座というブランドをただ利用するのではなく、街の品位や街のルールにのっとって、お付き合いにも参加してくれる。そんな会社にテナントとして入っていただければ…と思っています」と亀岡さんは言う。

 “銀座商人のDNA”が亀岡さんにも受け継がれている、と感じたのはこの話を聞いた時だ。銀座の商店会の重鎮にインタビューをすると、銀座固有のルールのようなものが必ずベースにあるのだが、同じものが亀岡さんの話の中にも出てくるのである。

1950年頃の銀座の風景(提供:カゴメ)

 そもそも銀座は1872(明治5)年にできた新興商店街で、地元で商売していた家はない。天皇家が東京に移った時に、京都、大阪、大津、山梨、名古屋など様々な場所から来た商人が、寄り合いで作った商店街なのだ。皆で街をよくしていかなければ存立できないと、一致協力する気風が強い。だから銀座の街は、新しく来る人も拒まない。欧州のブランドも「新しいお客様を連れてくる」ということで、大歓迎なのだ。新参でも、しだいに「一緒に銀座をよくしていこう」と協力するようになる。

 ところが銀座には、暗黙のルールがある。「どなたが来ようと拒まないし、どなたが去ろうと勝手」ということだ。銀座に協力せず、なじまない店はいつの間にか去っていく。誰がそうさせるわけでもないのだが、そんな自然のフィルターがかかるという。

 「正直に申しますと、テナント料金はよそより高い“銀座価格”です。銀座の1店舗だけの売り上げで賃料を賄うというのは難しいと、最初に必ずご説明します。看板料としての賃料と思っていただきたいんです」と亀岡さん。

 野村証券の次のテナントは、1年がかりで決まった。英国から進出してきたドラッグストアBootsである。マツモトキヨシがちょうど隣に出店してきたので、97年当時は「日英ドラッグストア対決」と話題になった。

 「テナント選びから交渉まで、叔父と私が行いました。テナントが決まれば私の仕事は終わると思っていたのですが、Bootsが決まった後で姉が会社を出ることになり、それでは私が代わりに会社を手伝おうと決めたんです」。それまで家族と会社に尽くしてきた姉は、もともとは絵の道に進みたかったという。留学して自由な道を歩んできた亀岡さんが、今度は姉の代わりに会社に入ることになったのだ。

 Bootsが入って、対鶴館ビルは大きく様変わりした。1階はガラス張りの店舗に変わり、祖父のこだわった赤レンガは半分なくなってしまった。エスカレーターも設置し、大がかりな改装も行った。

 しかし2年半で、Bootsは日本から撤退してしまう。その後、テナントとして入ったのは、真っ白なイタリア製の石の外壁のコーチの店舗だ。コーチは、路面店としては国内第1号店を銀座の目抜き通りに構えたかったのだ。

(後編に続く)


亀岡幸子(かめおか・こうこ)
1969年東京生まれ。銀座対鶴館ビル4代目館主、亀岡信幸の次女として生まれる。高校から米国に留学。1996年に米国ワシントンDC、ジョージタウン大学でMBAを取得。帰国後、マイクロソフトにてマーケティングリサーチを担当、1999年より、1902(明治35)年創業の商社、亀岡商会およびびビル管理会社、対鶴館を運営する。現在は常務取締役。

日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総研 HR人材開発センター長 大塚葉が担当した記事を再掲。