2007年3月30日、三井不動産が六本木防衛庁跡地に開発した東京ミッドタウンがオープンした。開業1カ月の来場者は480万人、ゴールデンウイークは9日間で150万人、平日でも12万人が訪れるという人気スポットだ。その一角、六本木交差点から乃木坂に向かって歩き、ボッテガベネタを通り越したガレリア1階に人気のパン屋、浅野屋東京ミッドタウン店がある。オープン当日や連休中は、1日に1400人ものお客が訪れたこともあるという。

浅野屋代表取締役社長の浅野まきさん。浅野屋東京ミッドタウン店の前で (写真:山田 愼二)

 ガラスのショーケースにはこんがり焼けたデニッシュが並び、パンを求める客が常に列を作っている。奥には本格的なピザ釜のあるブラッスリーもあり、午前4時まで営業している。東京ミッドタウン店開業までの間、文字通り東奔西走していたのが、今回の跡取り娘、2006年7月に浅野屋代表取締役社長に就任した浅野まきさん(38歳)だ。

 軽井沢に旧道店、白樺台店、信濃追分店、東京には自由が丘店、松屋銀座店、東京ミッドタウン店と6店舗を構える浅野屋。夏季営業の軽井沢店では、レーズンパン「軽井沢レザン」を求めて並ぶ観光客の姿が夏の風物詩にもなっている。

 私が小中高と通っていた母校が四谷にあるが、この校舎の裏にかつての浅野屋本店があり、購買部にも納入されていた。浅野屋は、10代の私の旺盛な食欲を満たしてくれた、懐かしいパン屋さんでもあるのだ。生地がふんわりとして、おいしかった記憶がある。今から30年も前の話だ。

 しかし、母校近くの小さなパン屋だった浅野屋が、軽井沢に大きな店舗を構え、デパ地下にもどんどん出店していくのを見て、大躍進の秘密はなんだろう、とずっと不思議に思っていた。今回の取材で、浅野屋の興味深い歴史を跡取り娘の浅野さんに初めて教えてもらった。

 浅野屋の歴史は古く1933年にさかのぼる。意外にも、パン屋としては軽井沢店が事始めだった。「祖父の浅野良朗は石川県から16歳で東京に来て、食料品店に11年間勤めてから、麹町に浅野商店を開業しました。戦前から軽井沢で、在日大使館や外国人の食糧配給所を外務省から委託されていたのです」と浅野さんは言う。

 現在地価が高騰している別荘地軽井沢を拓いたのは、外国人宣教師。外国人のためにパンを売ったのが、浅野屋軽井沢店の始まりなのだ。

 祖父は食料品店を中心に商売をしていたが、父の浅野耕太はパン製造業に力を入れた。1976年に四谷店を開業し、2つのパン工場を作った。それが、私の学生時代の思い出の浅野屋だったのだ。1979年、浅野さんが10歳の時に、38歳の父はブランジェ浅野屋を設立し、四谷店はブランジェ浅野屋四谷店となった。

幼少の頃の浅野さん(左)。浅野屋軽井沢旧道店の前で兄と

 浅野さんの古いアルバムを見せてもらうと、幼少期の写真に交じって懐かしいセーラー服の制服を着た姿があった。浅野さん自身も私の母校の後輩で、幼稚園から入学したのだ。浅野屋は、彼女が在学中、学校指定のパン屋さんだったそうだ。

 「父は新しいものを取り入れるのが早い人でした。スペインのサラゴサのファルファス社の石釜とか、天然酵母のパンなどをいち早く導入しました。小さなパン屋の頃から、機械も妥協せずにいいものを使い、手作りと機械のバランスのいい、おいしいパンを作れるようにしていました」

 浅野屋の歴史を追っていくと、バブルの1983年から急速に拡大していく。軽井沢にレストランを作り、夏季営業から通年営業に。また四谷にビルを建て、深川工場を稼働し、ホテルやレストランにパンを納入するようになる。その頃の浅野さんは清泉女子大学の体育会テニス部の元気な女子学生で、91年に丸紅に入社し、華やかなOL生活が始まった。

丸紅に勤めていた頃の浅野さん(一番右)。当時の同僚たちと

 「いわゆる、バブル後期のOLです。紙パルプ部の担当に配属されましたが、仕事は決して楽ではなく、毎月100時間ぐらい残業しました。あとは飲み会、食事会、ゴルフに海外旅行…。ある意味、バブルを謳歌していましたね」

 マガジンハウスが首都圏のOLをターゲットに「Hanako」を創刊したのが89年だから、まさに浅野さんは「Hanako族」である。兄がいたので、跡取りになるという意識はなかったが、なにしろ食べることが大好きだった。家族は年1回はイタリアに行き、チーズやパン工場、ワイナリー、レストランを訪ね歩く「食の旅」をしていたほどだ。

 どうせ飲み歩いているなら、と96年にはワインアドバイザーの資格を取る。その時のワイン仲間を中心に、飲食業界の人とも急速に親しくなった。1年365日のうち360日は外食しているような、「食仲間」ができる。

 「食のプロも他業種の人もいましたが、みな食への情熱がすごいのです。私も料理をデジカメで撮影したりワインの名前をメモしたりして、『食メモ』を作りました」

 その間も浅野屋はめまぐるしく工場を移転したり、レストランなど新規事業に進出したりと、多角経営を進めていく。だが、必ずしも成功ばかりではなく、商業施設内の店舗に出店して失敗したこともあった。

 「バブル期は多角経営で広げてはしぼみ、また広げて…といろいろやりました。そのうち、私もワインのことで口を挟んだりして、徐々に会社に関わるようになったのです。だんだん『私が手伝った方がいいかな』という雰囲気になりました」

 ついに浅野さんは、1998年に取締役として浅野屋に入社。兄がその前に入社していたが、父親とソリが合わずに退社していた。そこで「チャラチャラとOLをしていた」浅野さんに、白羽の矢が立ったのだ。

 「最初は跡取りとしてというより、周りの社員と馴染んでどのくらい仕事ができるか、父に試されていたのだと思います。営業企画で父のサポートをしながら、軽井沢店の繁忙期には毎年店にも立ちました」。まず現場を知らなければ、というのが父親の教えだった。

 浅野さんが食の業界に入ってからは、それまでに構築した「食仲間」のネットワークが強い人脈となった。食べ歩きの経験も、血肉になっていた。バブル期のOLは、伊達には遊んでいなかったのだ。

軽井沢牛乳ブレッド(写真:山田 愼二、以下同)

 営業企画の仕事は、売り上げ人気ランキングデータやお客の意見など、毎日上がってくる日報にすべて目を通すこと。また、浅野さんはマニアックなほどの雑誌好きだという。「20代向け女性誌の『CanCam』から、料理雑誌の『料理王国』、業界誌まで多くの雑誌に目を通しています。食だけではなく、世間のトレンドも見るようにしています。うちのお客様は20代からお年寄りまで幅広いので、例えば20代の子がコンビニで何を買うかというデータも、参考になるんですよ」

 父親はカリスマ経営者で、直感で新しいものを取り入れて浅野屋を大きくしていった。しかし娘のまきさんは情報収集型で、ランキングなどデータ重視型である。

 「製造責任者や店長の商品会議に参加するようになったのは、私の代からです。製造、販売の両方で議論していきますが、私が外国で見たパンをデジカメ撮影して、『こういう商品はどうか』と社員にメールしたりします。社員はみな忙しいので、私が情報収集・伝達係なんです」

 もともと仕切り屋で、人の面倒を見るのが好きな浅野さん。食仲間との旅行や社員との海外視察旅行では、添乗員のように細かくスケジューリングするそうだ。「旅行先のおいしいお店にみなを連れて行くために、事前に現地の知り合いにしつこくメールして情報をもらったりします」

 2003年、浅野屋の銀座松屋店がリニューアルした。その頃から浅野さんは、店のレイアウトなどほとんどの企画を決めるようになる。スペインやロンドンを視察して、商品のパッケージのアイデアを決めるなど熱心に取り組んだ。

浅野屋代表取締役社長の浅野まきさん

 「デパ地下には、ほかのパン屋さんもたくさんあります。うちだけにお客様が来るのではなく、『共存共栄』がモットー。魅力的な場所なら多くの人が足を運び、そのうち何回かに1回はうちで買ってくれるようになるでしょうから」。再開発が進む丸の内では、三菱地所の担当者が「点で勝つより面で勝て」と口にしているが、浅野さんも同じことに気づいているのだ。

 その頃から浅野さんの父親は、相談相手にはなってくれるがあくまでも浅野さんを見守る立場となった。浅野屋の世代交代は徐々に進み、2006年オープンの自由が丘店は、すべて浅野さんの企画によるものとなった。

 また2006年は、浅野さんにとって激動の時期だった。徹底的な経営改善の必要に迫られたからだ。「バブル崩壊後の不採算部門整理をやらなくてはならなくなりました。漫然と経営できる時代ではなくなったのです」

 父親は、不採算店でも頑張って存続しようとするタイプ。しかし浅野さんは、常に収支をチェックし、「感覚」では商売をしない。「父はロマンを求め、私は現実的に。親子でバランスが取れているんです。父を説得しつつ、不採算店は徐々に統廃合していきました」

 2006年10月には都内と軽井沢のレストランを閉店し、母校近くのブランジェ浅野屋四谷店も閉めた。

 そこには、「跡取り娘」ならではの強みがあったと浅野さんは言う。「父はカリスマ経営者でしたが、手放す時は潔かった。私を信頼して任せてくれました。これがもし息子だったら、対立したかもしれない。私が娘だったから、うまく父と調整ができたのだと思います。社員も、父の説得は私の役目と思っています」

 浅野さんより古い社員も、人一倍食への情熱がある元気な跡取り娘を、すんなりと受け入れてくれた。「みんな昔から知っている人ですし、浅野屋がよりよくなるために、時間をかけて一緒に変わっていこうという目的を共有しています。今が終着点でなく、祖父から父へ受け継がれたように、何十年先も愛され続けるパン屋でありたいのです」

 こうして2006年7月に社長に就任した、3代目浅野まきさん。後編は浅野屋のブランディングと経営改革について伺う。


浅野まき(あさの・まき)
1969年東京生まれ。浅野屋2代目、浅野耕太の長女として生まれる。清泉女子大学卒業後、丸紅に入社。紙パルプ部に勤務する。1998年、浅野屋に取締役として入社。2006年7月、代表取締役社長に就任。日本ソムリエ協会認定ワインアドバイザーの資格を持つ。

日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総研 HR人材開発センター長 大塚葉が担当した記事を再掲。