カフェタナカ2代目の田中千尋さん(左)。店の前で、妹の千寿さんと一緒に (写真:早川俊昭)

 地方格差が問題になっている今、一番元気な地方都市は名古屋ではないかと、名古屋駅に降りるたびに思う。2007年3月には駅前に新しいランドマーク、地下6階、地上46階、トヨタ自動車のミッドランドスクエアが誕生したばかり。地方都市に行くと「元気ないなあ」と思うことが多いだけに、駅上に聳え立つJRセントラルタワーズ(高島屋、マリオットアソシアホテルなどが入っている)から始まり、駅前がどんどん高層化する名古屋の活気は貴重なものに感じる。


 元気な街には、やはり元気な跡取り娘がいる。

 ジェイアール名古屋タカシマヤのデパ地下には、東京の有名スイーツ店が軒を並べる。名古屋発信の洋菓子店は2店舗だけだが、その1軒「カフェタナカ」のパティシエール(女性パティシエ)が、今回の跡取り娘、カフェタナカ2代目の田中千尋さんだ。八丁味噌を練りこみ、名古屋土産としても有名になった焼き菓子「名古屋フィナンシェ」の生みの親でもある。

 カフェタナカ本店は、名古屋中心部からやや北東の北区上飯田の落ち着いた住宅地にある。オープンテラスのついたクラシックな佇まいが印象的だ。入口を入ると、広い菓子売り場になっている。3つのショーケースには、いちじくやベリー類など季節の果物をふんだんに使った鮮やかなタルトが目を引く。棚には焼き菓子、ジャム(コンフィチュール)が並び、車で買い物をしに来る客もいる。

店内は広い菓子売り場になっている (写真:早川俊昭)

 販売スタッフもホールスタッフもきびきびとして、感じがいい。スタッフは全部で40人ほどだそうだが、店も人も“旬”の活気がある。ここでパティシエールとして菓子を作り、経営者として店をひっぱっているのが、2代目の田中千尋さん。店では「シェフ」と呼ばれている。

 東京では、人気のスイーツ店は女性客に占拠されるものだが、カフェタナカでは、タバコを吸う男性も初老の夫婦も、昼下がりのおしゃべりに余念のない奥様グループもいる。常連も多いが、店の評判を聞いて遠方から来る人もいる。客層がバラエティーに富んでいるのは、もともとこの店は、ご近所に愛される喫茶店であったからだ。


 「1963年に、父母が自家焙煎のコーヒー店『コーヒータナカ』として始めたのです。当時は男性のお客様がタバコを吸いながら、コーヒーを飲むお店でした。店内は、いつもタバコの煙がモクモクしていましたよ」と田中さんは言う。

 名古屋の喫茶店といえば、なぜか盛りだくさんのモーニングセットが有名だ。ここには独自の“喫茶店文化”があると田中さんは言う。「名古屋の人にとって喫茶店は、自宅の応接間と同じなのです。朝ごはんは、喫茶店のモーニングを食べに行く。家にお客様が訪ねてくると、『じゃ、いこか?』と近所の喫茶店に行くんですよ」

田中さんの幼少の頃の「コーヒータナカ」

 これを聞いて、モーニングセットの謎が解けた。名古屋にはドトールやスターバックスなどの全国チェーン店よりも、いわゆる“普通の喫茶店”が多いことも納得がいく。そんな“喫茶店文化”全盛の名古屋市内で、1960年代、田中さんの父は数店の喫茶店を経営していた。

 「私も妹も、家の喫茶店が大好きでした。父母が経営する店を回る時は私たちもついていって、店の人たちに可愛がってもらったものです」と田中さん。田中さんには4つ下の妹、千寿さんがいる。「2人とも高校生の頃から店の手伝いをしていました。朝6時から店に出て、その後登校するのです。ウエートレス、店番、配達、カウンターと何でもやりました」


地元の文化交流の場であった「コーヒータナカ」

 喫茶店を経営する前、父は画廊で働いていた。現在のカフェタナカ本店の2階はもとはギャラリーで、画家の卵たちが出入りしたり、画家の個展を開催したりと、地元の文化交流の場所であったという。今でも店内に、本物のビュッフェがさりげなく飾ってあるが、これらの絵は皆、父が集めたものだ。

 しかしこうした雰囲気は、スイーツ目当ての女性客で賑わう現在のカフェタナカとは縁遠い。そもそも田中さんは、なぜ菓子職人を志したのか。

 「子供の頃、あんこが嫌いで食べられなかったのです。父や妹は、お饅頭を何個も平気で食べる“和菓子党”でしたが…」と田中さん。和菓子よりも洋菓子が好きだったのだ。しかし、名古屋は和菓子文化という土地柄、普段家族でコーヒーを飲む時は、饅頭が出てくる。そんな田中さんにとって、ケーキは「栄のデパートに行くと買ってもらえる、貴重なお菓子」だった。

 しかし家族でお茶を飲むのは、子供心にも楽しい時間だった。10代の終わり頃、「父のコーヒーに合うケーキを自分で作ろう」と思い始めた。東京に行った時、「オーボンヴュータン」のケーキと出合い、衝撃を受けた。「うわぁ、フランスのお菓子ってこういうものなんだ、と思いました」

 思い立ったらすぐに行動するという田中さん。「20歳になった時には、お菓子の勉強をしにフランスに行きたい、と口に出していました」。しかし、娘が大好きな父は、わが子を遠くにやりたくない。

 短大で食物を専攻し卒業した後、1990年から東京のフランス料理学校「ル・コルドン・ブルー」日本校の製菓コースに1年間通うことになった。名古屋からなら通える距離だ。新幹線を使ったり友人の家に泊まったりして通学した。

 当時「ル・コルドン・ブルー」はブームで、私の友人にも「花嫁修業のため」と通っていた人も多かったが、田中さんの場合は花嫁修業では終わらない。この学校は、プロを目指す道の途上だったのだ。

 「東京もパリも、名古屋から出るなら一緒」というかなり強引な理由で、1992年、誰にも相談せずにパリ行きを決めた。資金はアルバイトでためた貯金だけ。妹の千寿さんは、当時を振り返って笑う。「姉がフランスに行くと決めた時、家族が何か言う前に、家からいなくなっていましたね」。「思い立ったら一直線」なタイプだ。

 フランス語の勉強を始めたのも、渡仏を決めてから。「マスターする時間もなく、行きの飛行機で『アン・ドゥ・トロア』…と数の復習をしていたほどです」と田中さん。パリに着いて1カ月語学学校に通った後、製菓学校「リッツ・エスコフィエ」に学ぶ。授業は全部フランス語で、製菓についても一定レベル以上の技術のある生徒しか取らない学校だ。

 「パリに行ったら、どんどん楽しくなっていきました。フランスにはお菓子の歴史と伝統があり、それが時代とともに進化しているのです。パリにはそのすべてがありました」

 フランスには、味はもちろん素材、食感、美しさ、そして伝統が加味された、完成度の高い菓子文化がある。それこそ、マリー・アントワネットが食べたケーキのレシピが受け継がれているかと思えば、地方の素朴な伝統菓子もある。様々な菓子との出合いと発見、そして興奮の連続だった。

 特に感動したのは、モンブランだ。実は田中さんは、日本の「黄色のクリームのモンブラン」が嫌いだった。しかしパリのモンブランは、全く違う。「南仏やイタリアの栗を使った、茶色いモンブランでした。ベースは柔らかいスポンジケーキではなく、メレンゲなのです」

 フランスでは、メレンゲ菓子を食べる習慣がある。「あちこちのパン屋やお菓子屋には、メレンゲが無造作に積んであり、皆おいしそうにかじっているんです。パリで初めてメレンゲはおいしい!と思いました」

 カフェタナカではイチゴ、ミント、アーモンド味などの菓子「ムラング」が袋入りで売られている。秋しか味わえないカフェタナカの人気商品であるモンブランも、メレンゲをベースにしている。カフェタナカのメレンゲは本場パリと同様、オーブンで6時間乾燥させるという製法だ。オーブンをメレンゲだけで数時間占領するのは、当然効率が良くないが、ここにも田中さんのこだわりがある。

フランスで、フルーツと焼き菓子に目覚める

カフェタナカの人気菓子、イチジクのタルトや色とりどりのケーキ (写真:早川俊昭)

 「マルシェ(市場)に行けば、色とりどりのフルーツが山のように積んであります。フランスでは、フルーツそのものがとても力強いんですよ。そういった季節の素材を生かしたタルトが、またおいしい。当時の日本では、素材を生かしたお菓子作りが弱い、と感じました」

 今はブームになった「マカロン」も、90年代のパリで初めて知った。アーモンドの粉を使うのが新鮮だった。日本ではアーモンド粉といえばカリフォルニア産が主流だったが、スペイン産のアーモンド粉を使うと、少しビターな大人っぽい味が出る。そして、焼きこむほど「うま味」が増すという。

 「粉、卵、バターなどの乳製品、そしてフルーツと、素材が日本とは全く違う。特に焼き菓子は、しっかり焼きこむほどに、口に入れた時に素材のハーモニーが広がるのです」と田中さん。

 「タルトのおいしさは、焼きこむほど季節のフルーツの個性とアーモンドが一体となっていくところ。本当に、お菓子を作っているだけでうれしくなってきてしまうんですよ」。情熱的に語る田中さんの顔も、満面の笑顔だ。20代だった頃の田中さんが、初めて訪れた海外でまるでスポンジのようにフランス文化を吸収していく様子が、目に浮かぶようだ。


 1年で卒業すると、トゥール・ダルジャンなどのレストランや、フォションや町の菓子屋で、修業の日々が始まる。つても知り合いもいないパリ。最初は半年で帰国する予定だったが、もっと勉強したい一心で賢明に道を探した。徐々に知り合いもできた。日本人は真面目なので、雇ってくれる店も見つけやすい。

 しかし、毎日早朝5時から始まる厳しい仕事だ。3食賄い付きだが、大抵は無給かお小遣い程度の給料しかもらえない。

 今でこそ女性の菓子職人も増えたが、そもそも男性中心の世界である。日本人の女性が修業をするのは、並大抵のことではなかったのではないか?

仕事では“女”を感じさせないよう努力

パリの店「オテル・ド・クリヨン」のシェフパティシエと

 「厨房に入る時は、“女”を忘れるべきですね。女であることを相手に感じさせないようにしていました」と田中さんは言う。30キロの粉の袋、巨大なバターの塊、ずっしり重い果物のケース…。重いものも率先して運んだ。女性だからと躊躇していては、先に進めない。トイレも更衣室も、女性専用はなく男性と一緒だった。

 体つきが、渡仏前の2倍くらいたくましくなったという田中さん。パリでの修業の日々が、彼女を体から作り変えたのだ。


 そして職人の世界は、先輩を見て覚えるのが基本。言葉の壁もある。常に食らいつくように先輩の手元を見て、ひとつでも多くを学ぼうと努力した。おかげで注意力と集中力がアップしたという。

 日本への無理解や偏見も、なくはなかった。今でこそ日本食が世界的ブームになったが、当時はそうもいかない。「働いていた店で、賄いで日本料理を作ってみろと言われていなり寿司を作ったら、『何、この甘いの?』『料理に砂糖を使うなんて』と呆れられてしまいました」

 卵を割っていたら、黄色の卵黄を指差して「ほら、お前だよ」と嫌味を言う人もいた。しかし、そんなことは全く気にならないほど、田中さんにとってパリでの日々は濃密だった。

 「やる気があれば、任せてくれる」という実力本位の世界。チャンスは誰にも平等だった。借りていた部屋には寝に帰るだけという生活だったが、これ以上ないほど充実していた。

 喫茶店の娘だった田中さんは、パリのカフェ文化にも魅せられた。「日常の中にカフェがあることも、私がパリに親しみを感じた理由の1つでした。パリでは多くの人が、長い時間をカフェで過ごします。様々な人がいろいろな目的でやってきて、出会いがあり文化が生まれる。…父が喫茶店でやろうとしていたことと、似ていたのです」

 94年、23歳で帰国。店を継ぐか否かの選択をする時期にきていたからだ。バブルが崩壊し、名古屋も喫茶店が激減、ファストフードのカフェが進出してきた。父の持つ店も、いくつかは人に任せるようになった。「コーヒータナカ」は、“昔ながらの喫茶店”という業態を変えざるを得なくなっていた。

カフェタナカ本店の入口。テラス席も心地よい (写真:早川俊昭)

 東京で1年ほど働いた後、96年に名古屋に戻った田中さんは、「コーヒータナカ」を「カフェタナカ」へとリニューアルする仕事に着手した。まず、昔ながらの面影を残しつつ店内にテラス席を作った。パリのカフェでよく見かけたテラス席も、当時の名古屋ではまだ“走り”だった。

 さらに、店舗の2階にラボ(菓子工房)を作った。田中さんはここで、オリジナルの菓子を作って売ろうと考えたのだ。パリで五感を精いっぱい使って吸収したことを、今こそ家業に生かす時が来たのである。


「菓子を出すと決めたら、休みは許されない。365日きっちりやりなさい」

 この時から田中さんはラボにこもって、菓子作りに熱中した。「後になって父に聞くと、ラボを作ったことを激しく後悔していたそうです」。娘の求めるまま、半信半疑で菓子作りを許した父。しかし娘は1日中ラボから出てこない。何時間も座って考えているかと思えば、突然立ち上がり、麺棒で生地をたたき伸ばし始める…。試行錯誤の日々が続いた。周りで見守る家族も、さぞ心配だっただろう。

 「当時父が言ったのは、一言だけでした。『菓子を出すのは自由だが、店は年中無休だ。今日は出すが明日は出さない、というのは許されない。自分がおいしいと思う菓子を、365日きっちり作りなさい。お客様の信用を失うまねだけはするな』…」

 客はコーヒーとタバコが目当ての男性ばかり。どんな菓子を出せば焙煎コーヒーに合うのか、お客様が喜んでくれるのか…。考えた末、田中さんが最初に選んだのは、ふわふわしたスポンジのクリームケーキではなかった。

 「焼き菓子と果物のタルトなら、コーヒーに合う」。…何よりこの2つは、パリで田中さんを最初に魅了した菓子だった。

 ケーキ用ショーケースの規格サイズは、最小で1500センチ。それでもまだ大きくて、1200センチの小さなケースを注文した。最初に作って並べたのは、5種類の焼き菓子(タルト・オ・フリュイ、ショコラ・ド・パリ、タルト・オ・ポワール、フロマージュ、ズコット)だ。跡取り娘がたった1人で焼き始めた菓子で、カフェタナカの新時代が始まった。


田中千尋(たなか・ちひろ)
1971年、名古屋生まれ。喫茶店「珈琲田中」を創業した田中寿夫氏の長女。短大卒業後20歳で渡仏し、パリの製菓学校「リッツ・エスコフィエ」でフランス菓子を学ぶ。有名ホテル、3ツ星レストランなどで2年間の修業を経て帰国。東京のパティスリーマディを経て、実家の「コーヒータナカ」をカフェタナカとしてリニューアルオープンし、シェフパティシエールに就任。2003年、ジェイアール名古屋タカシマヤ店をオープン。現在は、タナカ取締役。愛知県洋菓子協会理事、名古屋製菓専門学校非常勤講師。

日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総研 HR人材開発センター長 大塚葉が担当した記事を再掲。