(前編から読む)

 1995年、「コーヒータナカ」を「カフェタナカ」にリニューアルする際、田中千尋さんは、名古屋ではまだ珍しかったオープンテラスを作った。イメージはもちろん、パリのカフェの姿だ。ふわふわしたケーキが苦手な男性客にも喜んでもらえるような、焼き菓子を出した。

カフェタナカ2代目の田中千尋さん (写真:早川 俊昭)

 気がつくと、いつの間にかお菓子が目当てのお客が増えていた。誰が座るのだろうと思っていたテラスも、近所の人が来て新聞を読んでいたり、常連の男性客が妻や子供を連れてきて座っていたりする。これまでの顧客を失わずに、父親が始めた「コーヒータナカ」は、徐々に娘の「カフェタナカ」に変わっていった。

 「ケーキを焼くのは私1人でしたが、父が店を見てくれて、母と妹が売ってくれる。とても心強かった。私たち家族は、本当にこの店が大好きなんです」


田中さんが焼いた菓子を、母と妹が売っていた頃

 店内には、クラシックな家具や絵はそのまま飾り、レトロな雰囲気を残した。父と娘の趣味をバランスよく採用しつつ、改装を重ねていった。

 売り場スペースも広げ、15種類のタルトを中心にした焼き菓子を並べた。タルトは、素材となる果物や欧州から輸入するアーモンド粉など、原材料にこだわって作る。このため、菓子としては採算が取りにくい。しかし「長く続けていくために、いいもの、おいしいものにこだわって作っていきたい」という田中さんの信念は、パリで初めて感動を受けた時のまま、揺るがない。

 カフェタナカをリニューアルして5年が経つと、百貨店のケーキフェアの催事に呼ばれるようになった。当時女性のパティシエは珍しく、実演販売をしてほしいというリクエストも入る。

 「製造担当者も少しずつ増やし、ホールスタッフのアルバイトも増やしました。でも、1週間のケーキフェアに出ると、朝から晩までデパートで実演しなければいけません。この店もあるし、明らかにキャパオーバーになってしまいました」


 ケーキフェアの間は店に泊まり込み、仮眠を取りながら菓子を焼く日々が続いた。しかし催事をこなしたことが実績となり、2003年にJR名古屋駅の高島屋から「ぜひ、地元の洋菓子を入れたい」と出店の話をもらった。「正直言って、迷いました。個人店で作って売るのとデパートに出るのは、全く違う世界なのです」

 デパートへの出店について、他のパティシエ仲間の多くは反対した。量産は利かないが、良質なのが手作り菓子の売りなのだ。こうした店が百貨店に進出した途端に味が落ちる、という話をよく聞く。田中さんの、これまでの菓子へのこだわりが貫き通せなくなるのでは、と親身になって忠告してくれた人もあったのだろう。

 「でもチャンスは自分たちでつかんでいくしかない。これまで、家族で一緒に店をやってきたのだから、もう一回皆で頑張ってみよう、と出店を決めました」

 高島屋の話が持ち上がる少し前、田中家は闘病中の母を失っている。父は妻を亡くしてから、第一線を退いた。店の行く末は、跡取り娘である田中さんと妹の肩にかかっていたのだ。

 とはいえ、高島屋に出店を決めた当初は本当に厳しかった、と田中さんは振り返る。「朝5時半から夜中の12時、1時まで、8人のスタッフがフル稼働しないと間に合わないのです。小さなラボで作っていた生産量が2~3倍になりました」

パリでレシピを教わったショコラ・ド・パリは、定番メニュー (写真:早川 俊昭、以下同)
名古屋ロール。しっとりしたコーヒー生地に生クリームとアズキの絶妙のマッチング

 毎朝5時前に起きると、田中さんはまずスタッフを電話で起こし、真っ先に店に来てオーブンに火を入れる。そんな日常がしばらく続いた。あまりの大変さについてこられないスタッフは、どんどん辞めていった。

 「今はスタッフが育ってくれて、だいぶ楽になりました。ラボには常に7~8人が製造担当として働いています」。菓子作りは店によって手法が違うので、中途採用はあまりなく、新人を一から育てる場合が多い。「うちのような手作りのお菓子は工場生産とは違い、人の力、職人の力が要なんです」と田中さんは言う。

 カフェタナカのラボで働いているのは、ほとんどが女性だ。「でも、よほどやる気のある人でないと勤まらないんです」と田中さんは言う。また、菓子職人を志す人でも、カフェタナカに入るとまずは販売の仕事を任される。「最初からお菓子作りではなく、販売やホールスタッフの仕事から始めてもらうのは、カフェタナカの“ものづくり”のスタンスを理解してもらうためです」

 カフェタナカのコーヒーは自家焙煎、お菓子も手作り、紅茶もフランスのメーカーから直輸入だ。すべては、お店に来たお客がいかに喜んでくれるか、くつろぎ、楽しんでくれるか、それが原点にある。販売やホールの仕事を通じてお客の顔を直接見ることで、スタッフはそれを学んでいくのだ。

 「お客様にも素材の生産者にも感謝の心を持って、お菓子を作っていきたいのです。大切に作り上げられた素材を、大切にお菓子にしていく。衛生面の管理も学んでほしいので、パッキング作業は全員でやります」

 日本では、田中さんのパリ修業時代のように「見習いは無給」というわけにはいかない。給料も出すし、遠方から来るスタッフには寮も用意しないといけない。また、パリの店の親方のように厳しくしていたら、最近の日本人のスタッフはついてきてくれない。

 だが田中さんは、商品である菓子作りに妥協はしない。「人それぞれ習熟度が違うので、1人ずつ教えます。手作業なので、素材の混ぜ方や合わせるタイミング、温度などによっても、出来は全く違ってくる。量産をしない手仕事です。たとえ15年経験のあるスタッフに対してでも、カフェタナカの商品として出せない出来だったら、はっきりと言います」

 そんな田中さんについてきてくれるスタッフは、正社員だけで25人以上いる。彼らへの給与を確保するためにも、安定した販売収入が不可欠だ。「お菓子は季節の商売です。お歳暮、お正月、ひな祭り、バレンタインデー、母の日など、イベントが続く冬から春までが忙しく、夏は暇になります。デパートの仕事に慣れてからは、年間の収益が安定するように、結婚式のお菓子を引き受けたり、ネット販売も始めました」

 特別仕様のバースデーケーキやウエディングケーキは人気がある。「子供の頃、2段、3段重ねのケーキに憧れましたよね。百貨店の仕事が一段落してから、お客様の立場で『こんなものがあったら…』という特別なケーキを始めてみました」

 焼き菓子を全国に配信する千趣会の仕事も引き受けた。人気のお菓子教室も、安定した収益源になっている。最初の頃は夕方までに仕事を終わらせて、小さなラボで週1回教えていた。今はカフェの3階をアトリエに改装し、週3日、昼夜のクラスで教えている。1回の生徒数は10人で、現在の生徒数は100人。生徒を連れてフランスに行くこともあるという。

 キッチンスタジオの横はグランドピアノを置いたリビングスペースで、ジャズからクラシックまで幅広いジャンルのアーティストによる月1回のコンサートも開催する。父のギャラリーを閉めてしまった代わりに、文化イベントとして始めたのだ。3000円のチケットはすぐに完売となり、お菓子教室同様、店を中心に人と人の交流の源になっている。

 「最初はオーブン1台で始めましたが、今では4段のオーブンが3台あります。設備投資も大変です。ミキサーも、いいものを買うと1台300万円。機械を1台買うごとに、あと何年働いたら返せるのか…と思うこともあります」と田中さんは言う。「実は、お菓子作りをするよりも、余分なコストがかからない分、普通の喫茶店の方がずっと収益率はいいんです」

 しかし、同じ業態を続けていくのは限界がある。現在のタナカの年商は3億円。12年前、カフェに改装した当初の2倍になっている。「この店は44年目。時代のニーズに合わせて付加価値をつけ、まだまだ変化していかなくてはなりません」

 今は空前のスイーツブームだ。今のように、海外のパティシエが次々日本に出店するような状況は、12年前では考えられなかった。駅前のトヨタ自動車のミッドランドスクエアにも、銀座の人気ショコラティエ、ピエール・マルコリーニが出店して話題になった。

 「今は、すごい勢いでお菓子屋が増えていますね。パティシエもメディアへの露出が先行して、ブームになると現場が回らなくなったりします。現地で地味にやっている人たちが、スターとして消費されていってしまう。…でも、いずれは淘汰されていくと思います」

 生き残っていくには、何が必要なのか? デパートは半年先の提案を要求するので、常に新商品を検討している。12年前、小さなショーケース1つで始めた菓子が、今は3つのショ―ケースにいっぱいだ。

 カフェタナカの菓子は、果物を中心にしていることもあり、季節性の強いラインアップだ。秋しか出ないモンブランは、遠くから食べに来る人もいるほどの人気商品。お土産需要が増え、「名古屋フィナンシェ」に加え、コーヒー味のロールケーキにアズキを隠し味にした「名古屋ロール」も開発した。

モンブランは秋限定商品だが、これはパルフェにした夏バージョン

 しかし、菓子作りの基本はいつも変わらない。「まず、素材ありきなんです。塩尻の洋ナシ、小布施のアンズ、安曇野のリンゴ…。どれも生産者と実際に会い、素材を目で確かめてから仕入れます」

 田中さんがフランスに毎年行くのも、現地で素材を探すためだ。今年はブルターニュの塩田、栗のペースト工場、ピュレの生産工場を見てきた。塩バターキャラメルで有名なアンリ・ルルーさんに会った。「もともとブルターニュの塩が好きで使っていたのですが、塩田を見て塩の力を再認識しました」。外側に粒塩のついた塩キャラメルのケーキや、塩バターガレットは、カフェタナカの人気商品だ。

 いい素材へのこだわりは、田中さんの菓子作りのベースである。地球温暖化の影響で原料費も高騰しているが、これだけは譲れない。

 菓子に対する情熱と愛情で突き進むシェフの、ちょうどいいストッパーになってくれるのが、経理担当の妹の千寿さんだ。「姉は進む道をこうと決めたら、後から周りに相談するタイプです」と姉を評する。

 「姉は本当にタフで健康。のめりこむと情熱も人一倍ですが、周りが見えなくなってしまうこともあるので、私が『お客様は、こちらの方が好みじゃない?』とアドバイスすることもあります」

 デパート出店の頃はほとんど寝る時間もなく、千寿さんも心配していたという田中さん。やっと最近落ち着いてきたが、ここにきて大きな決断をした。新たな出店である。


入口にはフランス修業時代の友人、スカラ氏が経営するジョルジュ・キャノン社から直輸入の紅茶の缶が並ぶ

 三重県にある日本最大のアウトレット、ジャズドリーム長島が、カフェタナカへの出店を依頼してきたのだ。9月オープンの新店のためにスタッフを増やし、体制を整えている。

 「今の厨房は、本来ではあり得ないくらい狭いので、今度の店は大きな厨房を造り、10枚出しのオーブンを入れました。アイスクリームにも力を入れて、おやつのようなデザートも出していきます」


 5年前に結婚した田中さんのパートナーも、もとは会社員だったが、この出店でカフェタナカを手伝うことになった。

 決断をする時は家族に相談するが、田中さんの父は「お前は、相談してくる時にはもう決意を固めているんだから、聞きたくない」と言うそうだ。「そこを捕まえて、聞いて納得してもらえるように話をするんです。私が動くと家族を巻き込むことになるから、家族は運命共同体ですね」。田中さんがいったん決断したら、家族全員がサポートし、一丸となって進む体制ができている。

 女性経営者の取材をしていると、儲けより「これがやりたい」「こんな商品を作りたい」という気持ちが先行している場合が多い。田中さんの場合も、やりたいことに一途に注ぐ情熱が、周りを巻き込み動かすパワーとなっている。そして、周りが支えればそのパワーは何倍にもなる。田中さんには家業というベースがあり、家族という支えがあるのだ。

 「いつか父が理想としたようなカフェを作りたいですね。いろいろな人が思い思いに集まってきて、交流して、文化が生まれる。ビルや商業施設の中ではなくて、山の中のような自然に触れられる環境の中で、いいものを作っていきたいです」

 そこには田中さんの作ったお菓子を食べて、笑顔になる人たちがいる。カフェが大きくなるにつれ、経営や人材育成など、菓子作り以外の問題が跡取り娘の肩にかかってくる。しかし田中さんの道がぶれないのは、その根底に「楽しかった家族のティータイム」の思い出があり、小さい頃から喫茶店でいつも見ていた、「お客様が喜ぶ顔」があるからなのだろう。


田中千尋(たなか・ちひろ)
1971年、名古屋生まれ。喫茶店「コーヒータナカ」を創業した田中寿夫氏の長女。短大卒業後20歳で渡仏し、パリの製菓学校「リッツ・エスコフィエ」でフランス菓子を学ぶ。有名ホテル、3ツ星レストランなどで2年間の修業を経て帰国。東京のパティスリーマディを経て、実家の「コーヒータナカ」をカフェタナカとしてリニューアルオープンし、シェフパティシエールに就任。2003年、ジェイアール名古屋タカシマヤ店をオープン。現在は、タナカ取締役。愛知県洋菓子協会理事、名古屋製菓専門学校非常勤講師。

日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総研 HR人材開発センター長 大塚葉が担当した記事を再掲。