このコラムの取材をしていると、跡取り娘たちのストーリーは産業再生のケースであると思うことが多い。例えば第2回のホッピービバレッジ副社長石渡美奈さん(参考記事はこちら)は、傾きかけたホッピーというブランドを再生したし、第4回のメッキ業3代目、日本電鍍工業代表取締役社長の伊藤麻美さん(参考記事はこちら)は、父の死後、赤字だった会社の年商をV字回復させた。

 そして現在、再生案件として注目を浴びているのが温泉旅館である。バブル時に団体客用の宴会場を備えたビルに改装した旅館は、現在はどこも赤字にあえいでいるし、老舗旅館も名前だけではお客が呼べない時代だ。

 家業の老舗「星野温泉」を「星野リゾート」として再生した星野リゾート代表取締役社長星野佳路さんが「旅館再生請負人」としてマスコミに登場し、旅館再生という事業はすっかりメジャーになった。筆者の知人にも、外資系企業と組んで旅館再生ファンドに取り組む人がいる。

 この連載でも、旅館を再生した跡取り娘を取材したいと考えていたところ、リクルート出身で西麻布でレストランを営む知人が、こんな話を持ってきてくれた。「数年前までは稼働率が悪かった家業の旅館を、『Dの食卓』で有名なゲームクリエーター飯野賢治さんをコンサルタントに迎えて大改革し、現在は予約が取れないほどの旅館に大変身させた女性がいますよ」

 ゲームデザイナーと組んで旅館を再生するという発想は、どこからきたものか? 早速その女性にコンタクトを取った。それが、米沢の湯の沢温泉に1軒だけの、源泉かけ流しの温泉旅館「時の宿すみれ」3代目の黄木綾子さんだ。現在、同旅館を経営する黄木コーポレーション代表取締役である。

木々の中に建つ「時の宿すみれ」
3代目の黄木綾子さん
(写真:エルスタジオ 尾苗 清、)

 米沢駅は、都内から新幹線で2時間10分。駅から車で約15分走ると、木々の緑の中の渓流沿いに「時の宿すみれ」のエントランスが現れる。宿は2階家で、全体の色調はブラウン。モダンですっきりした林の中の建物は、まるで軽井沢の瀟洒なホテルのようだ。

 「いらっしゃいませ」と現れた黄木さんは、スラリとした長身を黒いスーツに包んでいる。物静かに、しかしテキパキと働く彼女の物腰は、女将というよりは有能なホテルウーマンという感じである。

 「ここは28年前に祖母が始めた温泉旅館、すみれ荘でした。2年前の2月にいったん閉めて大改装し、10月に『時の宿すみれ』としてリニューアルオープンしたのです」。和室12室だった「すみれ荘」を、2人専用の10室の旅館に改装。和室が5室、布団を敷くタイプの洋室が2室、ベッドの部屋が3室で、部屋の内装はすべて異なる。以前は近隣の湯治客が多かったが、リニューアルしてからは首都圏からお客が来るようになった。

 「書院風、アジア風、茶室風と、部屋のコンセプトは1つずつ違います。『次はこの部屋で』とおっしゃる、リピーターのお客様もいらっしゃいます」と黄木さん。どれも、タイプは違うがそれぞれに落ち着いた心地いい部屋ばかりだ。

 改装旅館というと、有名デザイナーを起用して真っ赤な壁の和室を作ったり、内装が妙にゴージャス過ぎたり、イタリア製陶器などで作ったあまり趣味の良くない露天風呂を入れてみたりと、しっくりこないことも多いが、この宿に関してはそういう心配が全くない。

布団を敷くタイプの和室
ベッドタイプの洋室
(写真:エルスタジオ 尾苗 清、)

 部屋がリノベーションで綺麗でも、洗面台や照明器具、ポットなどが安っぽかったり、改装しきれない部分が残っていてがっかりするホテルもあるが、「時の宿すみれ」は外装、内装ともにデザインに妥協がない。建物の裏側の施設やクーラーの室外機などもすべて木の枠で囲っていて、驚くほどスキがないのだ。金属の配管や器具を隠すことで、「興ざめ」を誘わないような工夫がされている。

 ここまでにするにはかなり費用がかかったのでは、と聞くと「1億5000万円かけました」と黄木さん。前述の旅館再生コンサルタントの知人によれば、この規模の宿としてはかなり「思い切った」出費だという。

 思い切ったのは改装費ばかりではない。この旅館のコンセプトのユニークなところは、「おふたり様専用」ということだ。「3人で泊まりたいというお問い合わせもいただきますが、コンセプトをぶれさせないように、お断りしているんです」と黄木さん。

 「おふたり様専用」は、旅館のリニューアルの際にメインコンセプトとして打ち出したものだ。最初は周囲から、「連れ込み旅館のようだ」という反対の声もあった。「でも、おふたり様というのは必ずしも男女でなくてもいい。ご夫婦や恋人同士だけでなく、友人同士や親子など、あらゆるお2人が大切な時間を過ごしてもらう宿にしたかったのです」

ロビーからテラスを臨む(写真:エルスタジオ 尾苗 清、)

 よく見れば、ロビーの椅子も「お食事処」の個室も2人用と徹底している。驚くほどプライバシーが確保されていて、2人ずつ心地よい距離が取れる設計になっているのだ。一方、木の厚い板を削って作ったバーカウンターには、何人か並んで腰掛けられるようになっているので、ここでは他の客と交流を持つこともできる。

 黄木さんのコンセプトは当たり、改装2年を待たずに稼働率90%を達成し、年商も1億5000万円に迫る勢いだ。予約は3カ月先までしか取れないが、常に満室の状態が続いている。


 結果的に改装は成功だったが、そこまでの道のりは平坦ではなかった。どこのファンドも入らず、自社でこれだけの改装をやってのけたのである。「旅館を継ぐなんて、本当に一大決心ですよ。リニューアルを決める前、採算の取れない旅館なんてやめてしまう方が簡単だ、と皆が言いました」と黄木さんは振り返る。

 「でも祖父母がかつてこの源泉の所有権を買い、お湯をひいてつくった宿です。春には、渓流沿いの桜並木が美しい花を咲かせます。私自身幼い頃から馴染んでいて、ほっとできる場所。祖父母がつくったその場所を全部捨ててしまうなんて、私にはできませんでした」

 リニューアル前の「健康の宿すみれ荘」という旅館の名前は、黄木さんの祖母の黄木ハルさんが興したタクシー業に由来する。ハルさんは18歳の時、県内で女性で初めてドライバーの試験に合格した「モダン少女」。1930年に「すみれタクシー」を開業し、女性ドライバーとしてT型フォードを駆った。

 ハルさん自身は、1923年に精肉店を創業した黄木義政さんの娘である。黄木家はもともと、「米沢牛黄木」という80年の歴史を誇る米沢牛のブランドを持っていた。現在「米沢牛黄木」という会社は、黄木さんの弟が4代目を継いでいる。

 1981年、黄木さんの祖父母は湯ノ沢温泉の所有権を購入し、旅館業を始めた。「最初は、リューマチを病む祖母の隠居所として、温泉つきの家を建てるつもりだったようです」と黄木さん。しかし結局は旅館「健康の宿すみれ荘」を始めることになる。「祖父母ともに根っからの商売人。温泉があり渓流も桜もあるこの地に、『老人のユートピア』をつくりたかったのだそうです」

 祖母ハルさんを、黄木さんはこう評する。「おてんばで活発な女性でした。64歳で旅館を始めたバイタリティーはすごいですね。私は祖母が大好きでしたし、仕事の上では祖母の血をひいているのかもしれません」

「健康の宿すみれ荘」の外観
「健康の宿すみれ荘」の部屋

 中学生の頃から黄木さんは、祖父母が住んでいる旅館によく泊まりにいき、おさんどんや布団の上げ下ろしの手伝いをするようになった。「祖父母がいるこの場所が、大好きだったんですね。この頃のおかげで、今では旅館の仕事は、料理以外は全部できますよ」。商売をしている家にありがちなのは、忙しい父母の代わりに祖父母が孫の面倒を見てくれるというものだが、黄木さんも大の「おじいちゃん・おばあちゃんっ子」だった。

 県内の高校を卒業後、ホテル学科のある東京観光専門学校に行ったのも、物心ついた時から「やがてはすみれ荘の跡取りに」という自覚があったのと、家族にもそれを望まれていたからだ。卒業後は米沢の家に戻り、すみれ荘で働くことになる。「でも、それですんなり跡取りになったわけではないんです。20代だった私は、もう一度東京で働きたいという気持ちがわいてきたのです」

 黄木さんが再度東京を目指したのは、バブルの盛りの1980年代後半。一度東京を経験した20代の女性が、米沢の温泉地に引っ込んではいられないのも、よく分かる。また、当時のすみれ荘は県内の高齢層が顧客の中心で、静かな宿だった。幸い祖父母の跡継ぎとして、黄木さんの叔母が旅館を切り盛りしていた。

 思い立ったら自分の道を進むのは、祖母譲り。黄木さんは1人で東京に移り住み、就職先も決めた。当時両親は、「あなたの気持ちは分からない」とため息をついたという。1986年から渋谷の東急リロケーションに勤め、営業アシスタントから5年間勤めた。「この頃は本当にいい時期でした。仕事も遊びもたくさんして、楽しい思い出が多くあります」。跡取りの義務感から解放され、自分で働き自分で消費する東京の日々は、それほど楽しかったのだろう。

 しかし、運命がさらに黄木さんを米沢から遠ざける。「27歳で結婚し、すぐに主人の転勤で米国に住むことになりました。ボストンとニューハンプシャーで暮らし、息子を2人授かりました」。この結婚は事実上、「米沢には帰らない」という意味もあった。親は娘の結婚を喜んでくれたが、ずっと「跡取りになる」と思われていたのにそれを捨ててしまう後ろめたさは、結婚式の直前まで尾を引いたという。

 結婚して初めて黄木さんは「もう跡を継がなくてもいいんだ」と思った。幼い頃から心の片隅にあった「跡取り」の自覚が、ぽろりと抜け落ちたのだ。その時に感じたのは解放感か、一抹の寂しさか。当時はとにかく目前の新しい生活で、頭がいっぱいだった。

 上の子が4歳になる前の1995年に、日本に帰国。しかしまもなく夫婦の間はぎくしゃくし、離婚した黄木さんは東京でシングルマザー生活を始める。「子供を預けて働くため、保育園の近くの職場を求めてパートの仕事を変わったり、住む場所も転々としました」

 90年代は保育園制度が充実しておらず、長く預かってくれる延長保育もない。小さな子供を抱え、米沢の旧家のお嬢さんはさぞや苦労したのではと思うが、当時を振り返る黄木さんの表情は明るい。「親子3人の生活は、けっこう充実していて楽しかったんですよ。今から思うと強がりかもしれませんが、自立することに燃えていて、このままずっと東京でやっていこうと思っていました。私って本当に、めちゃくちゃ前向きなんです」

 しかし、97年にショッキングな知らせがあった。父親が「ガンで余命半年」と宣告され、急遽米沢に帰ることになる。半年ほど看病し、父は他界。父亡きあとの「米沢牛黄木」は弟が4代目を継いだ。祖父母は既に94年に亡くなり、すみれ荘は叔母の代になっていた。あれほど祖父母を慕っていた黄木さんだが、相次いで2人が亡くなったのは米国で次男を出産した時だったので、日本には帰れなかったのだ。

「米沢牛黄木」が1960年代に経営していたレストランと結婚式場。現在は「グルメプラザ金剛閣」にリニューアル

 米沢に戻った黄木さんは、「米沢牛黄木」の経営する「金剛閣」という3つのレストランの入っているグルメプラザで働くことになった。子育てしながらのレストランの仕事は、経理、受付、レジ、フロントなど。ここで接客業のすべてを学んだ。

 「2002年ぐらいから、すみれ荘をなんとかしないと…という話し合いが、家族の中で行われるようになりました」。すみれ荘は当時客単価約8000円で、近県の長逗留の湯治客はいるが、稼働率が悪く経営は苦しかった。他県からの観光客は、1軒しか宿のない湯の沢温泉ではなく近くの白布温泉や小野川温泉に行ってしまう。


 「すみれ荘を閉じようという意見も出ました。でも弟と私は、せっかく祖父母がつくったこの旅館をやめるのに忍びなかった。祖父母の想いを引き継ぎたかったのです」。黄木さんと弟を中心に、すみれ荘の支配人や「米沢牛黄木」のブレーンなど5人のメンバーで、すみれ荘をリニューアルするための「すみれプロジェクト」が始まった。黄木さんは2003年、すみれ荘のマネジャーに就任した。

 「すみれプロジェクト」での話し合いは二転三転した。「最初は旅館ではなく、渓流沿いに小さな風呂をたくさんつくり、日帰り温泉施設にしては、と思いました。不思議なことに、弟も同じことを考えていたのです」

 しかし新しい「すみれ」を立ち上がるために、現在のすみれ荘の強い点、弱い点を見極めなければいけない。強みは「素朴なロケーション、良質な源泉かけ流しの湯、米沢牛の料理」である。しかし観光地としては、近隣の温泉街に比べて弱い。観光としてではなく「『すみれ』がいい」と来てくれるお客のために、どんなコンセプトを打ち出せばいいのか? 

 迷う黄木さんに、「米沢牛黄木」の役員がコンサルタントを紹介してくれた。それが「Dの食卓」のゲームクリエーター、飯野賢治さんだったのだ。飯野さんとの出会いで、黄木さんはすみれ荘を全く新しい宿として再生することになる。


黄木綾子(おうき・あやこ)
1965年、山形県米沢市生まれ。80年以上の歴史を持つ「米沢牛黄木」を営む黄木昭夫さんの次女として生まれる。1985年に東京観光専門学校を卒業後、実家の旅館「すみれ荘」で働いた後、上京し、東急リロケーションに勤務。結婚後米国在住を経て、2003年に米沢に戻り「米沢牛黄木」のレストラン「金剛閣」を経て「すみれ荘」で再び働く。2005年3月、黄木コーポレーション代表取締役に就任。同年10月「時の宿すみれ」をリニューアルオープン。

日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総研 HR人材開発センター長 大塚葉が担当した記事を再掲。