ニューヨークのスターシェフ、ジャン・ジョルジュのフレンチレストランで、1人の日本女性が食事をしている。「お味はいかがでしたか?」とやって来たマネジャーに、彼女は流暢な英語で食材や料理の感想を述べる。その的確さに、相手は驚くかもしれない。いったいこの女性は何者なのか?

 頃合いを見て女性がおもむろに取り出すのは、「ソイソルト」というシーズニング。醤油からフリーズドライした自社製の粉末調味料だ。既にソイソースは全世界レベルの調味料として認知されているが、液体ではない醤油とはどんなものだろう。興味を覚えたシェフが、彼女をキッチンに招く…。

 海外の有名レストランで、そんな飛び込み営業をやってのける女性は、香川県の醤油屋かめびしの17代目、常務取締役の岡田佳苗さんである。

かめびしの17代目、常務取締役の岡田佳苗さん(写真:瓜生敏夫、以下同)

 「短時間でどれだけプレゼンできるかが勝負です。最初から面白いと思ってもらうために、顆粒という新しい形にこだわりました。醤油屋が液体の醤油を持っていっても、相手の興味をひくのは難しい。だから形を変える必要があったのです。開発に3年かかりましたが、海外を回っていると、一流のフレンチやイタリアンのシェフほどいい反応が返ってきます」と岡田さんは言う。

 かめびしはもともと高級醤油で知られているが、2年前から製品ラインアップにのせたソイソルトは、既にインターネットでの売り上げが社全体の1割に達している。米国では高級レストランで使われ、アルカンという会社から、西欧のプロの料理人に向けたブランド「かめびし屋 PETALE de SOJA(ペタル・ド・ソジャ)」として、2007年3月末よりフランスへ輸出開始した。日本でもレストラン「KIHACHI」の熊谷喜八さん、リストランテ「アルポルト」片岡護さんなど、ソイソルトのファンの料理人は多い。


ソイソルトは、三年醸造、うすくち、青唐辛子&ニンニク、オニオン&ニンニクの4種類。中央は、イタリアン「タツヤ・カワゴエ」とのコラボレート商品「バルサミコソイソルト」(限定発売)

 「世界でも醤油の評価は高いのです。でも日本人にとっては、お馴染みの調味料でしかない。水より値段は安いし、ワインのようにランク付けもない。いつも料理に使っているのに、醤油が何からできているかも知らない人も多いのです」と岡田さん。「家庭のキッチンの隅にあった“調味料”から、ソイソルトという形で食卓に登場することを1つの窓口として、醤油の認識自体を変えていきたいんです」

 今回の取材では、事前にかめびし醤油のプレゼン用DVDをもらっていた。かめびしにほれ込んだ、岩波映像の元監督、山口豊寧さんが1年かけて作った作品「むしろ麹~風の港のしょう油づくり)(問い合わせ先:教配)を、15分にまとめたものだ。英語版もある。営業マンとしての岡田さんは、このDVDとソイソルトを持って海外を駆け回る。


 10月、金木犀が香る季節に、香川県東かがわ市引田にあるかめびしを尋ねた。宝暦3(1753)年創業とあるように、讃岐に伝わる伝統的な「むしろ麹(こうじ)」という醤油の天然醸造を、250年以上頑固に守り続ける醤油屋だ。「むしろ麹製法」を使っているのは、今や全国でもかめびし1軒だけだという。

べんがら色のもろみ蔵は、引田の町並みのシンボルでもある

 高松空港から高速で1時間。引田は風情ある町並みが残る、風待ちの良港。赤く塗られた欄干の橋を渡ると、ひときわ目立つべんがら色に塗られた漆喰壁が、かめびしの「もろみ蔵」である。

 「敷地をぐるりと15のもろみ蔵が囲んでいます。100~200年は経つ蔵で、建て増ししていったので、動線がすごく使いづらいんですよ」と岡田さんが言うように、敷地内は複雑に入り組み、パイプが高い天井を走る。これが麹ともろみのパイプだ。


これが、もろみ蔵の中。一番古いもろみは、27年ものだ

 端の方では醤油のびん詰め作業の機械が稼働している。赤い壁に生えるようにところどころ花が咲き乱れる庭があり、手入れの行き届いた美しい屋敷だ。かめびしの人たちに、長年大切にされてきたことがよく分かる。

 「これが麹室です。外気の温度が30度以下になると仕込みができるので、秋から春にかけてが仕込みの季節です。温暖化で、作業ができる時期は年々短くなっています」


麹室では、14段重ねしたむしろの上で麹を熟成させる。天井や窓の開閉で温度や湿度を調整

 168枚のむしろに、蒸した大豆と炒った小麦を丁寧に広げる。14段に積み重ねて、あとは4日間寝ずの番で育てられた麹は、4日目の朝、真っ白いふわふわの玉となって熟成する。その作業は4日ずつ、春まで淡々と繰り返されるのだ。

 その麹を塩水と一緒に100年以上使っている杉桶に仕込むともろみとなる。納得のいく醸造には、最低2年。時には10年の時間をかける。その間に、築200年の蔵の壁に棲みついた230種類の酵母や微生物が、深いうまみを作り出すのだ。それを絞って漆黒の醤油ができる。

 DVDで予習して頭では分かっていたが、実際に現場に立つと圧倒される。特に圧巻だったのはもろみ蔵だ。天井の低い部屋に杉の板の床が張られ、2メートルほどの丸く深い穴がいくつも穿たれている…、そんなイメージだ。


 杉桶は埋め込まれているので全容は見えないが、漆黒のもろみを抱いた桶は2メートル半の深さがあるという。ここに落ちたら…と思うと、桶と桶の間の30センチほどの足場を渡るのも足がすくむ。

 「私も3歳の頃に落ちて、一番古い職人さんに助け上げられたことがあるんですよ。塩分があるので最初は浮いているのですが、もがくほどずぶずぶはまっていくんです」

 切り立った桶の内側は、落ちたら1人では登れない。作業はチームで行うという。天井から下がる2メートルほどのステンレスの棒にエアーが通っていて、それを桶に突っ込むと、重みのあるもろみがボコッボコッと盛り上がって攪拌されるのだ。夏になるともろみ蔵の温度は40度にもなるので、夏の攪拌作業は2時間が限度。それ以上続けると、大の男でも倒れるほどだ。

 「これも大変な力作業です。昔は鉄の棒を使っていたのをステンレスに代えてだいぶ軽くしましたが、エアーの量を間違えると飛び散るし、少ないと混ざらない。私も最初のうちは、棒を桶に入れていても『そんなのは混ぜているうちに入らない』と、古い職人さんに怒られていました」

 家業を継ぐと決めた13年前、岡田さんは3年かけて、すべての工程を職人たちと一緒に行った。大豆の袋を背負い、冬場の寒い時期、麹の寝ずの番をし、杉桶を混ぜ、醸造したもろみを布に広げて絞り、屈強な40、50代の男性に交じって立ち働いた。いくら手袋をしても、塩分で手の皮がペロリと剥ける。それでやっと一人前、という過酷な現場だ。

 「女性には蔵の跡取りはできないと、誰もが言いました。同じレベルで全部の仕事をできないと、職人さんは納得しない。すべての作業をすることは、跡取りとして必須だったんです。その頃は、スカートは一切はきませんでした。男に伍して弱みを見せまいと、本当に突っ張っていたんですよ」

 その頃の岡田さんは、どんな顔をしていたのだろうか。事前の取材で、東京で会った時の岡田さんと、引田での岡田さんは、少し顔が違う。東京でビジネススーツ姿だった岡田さんは、キリリと有能なキャリアウーマン。引田では、語尾の優しい讃岐弁も出て、表情も柔らかい。

 「朝全部の蔵に入って、どの桶を攪拌するか決めるのも当主の仕事です。朝蔵に1人で入ると、この蔵には何か、神様がいるなあ、と思うんです。思わず『おはよう』と言いたくなってしまう雰囲気があるんですね。夏場は、プチプチともろみが発酵する音があちこちで聴こえます。ほら、今もプチッて言ったでしょう?」

もろみを攪拌しているところ。かなりの力が必要だ

 深い桶の脇に膝をついて、もろみの声を聴こうとする岡田さん。四季折々の空気や温度、微生物や時間、自然と一体となってものづくりをする彼女は、「自分たちの力はほんのわずかな手助けに過ぎない」という。シンとした蔵は、声をはばかるような荘重な雰囲気すらある。この感じは何かに似ている、と思ったら、西欧で訪れた小さな街の教会や、お寺のお堂の雰囲気だった。この蔵に確かにあるものを、岡田さんは日々肌身で感じているのかもしれない。

 そんな岡田さんも、小さい頃は家業がイヤで仕方がなかったという。「我が家はいつも、醤油の匂いがぷんぷんしていました。父の車にも醤油の匂いが染み付いて、作業着の洗濯物も茶色い。『私の下着をお父さんの洗濯物と一緒に洗わないで』と言って、母に叱られたこともありました」

 そもそも岡田さんの子供時代、醤油業界は1970年代初めの「大変換期」を迎えていた。麹作りの機械化が促進され、冬場しかできなかった麹の仕込みが通年できるようになった。設備投資が高コストなので、醤油屋は組合をつくって機械を購入し、協業化が進む。中には、醤油づくり自体をやめる蔵も増え、業界の集約化が起きた。さらに、もろみの天然醸造も機械化された。屋外の発酵タンクで温度調整が容易にできる、大量生産の時代となったのだ。


 「父も一度は単独で機械化にトライしました。でもやはり、これまでのかめびしと同じ味ができなかった。小粒でも個性を発揮して生き残るには、独自性を持つこと。麹の生産をやめてはダメだと思ったそうです」

 こうしてかめびしは、日本で唯一の「むしろ麹の製法を守る醤油屋」として業界の集約化に巻き込まれなかった。周りからは「間違った選択だ。岡田さん、つぶれるよ」と言われたが、父は頑として大手に飲み込まれず、業界再編に生き残った。独自路線のおかげで高級醤油ブランドとして特化したが、醤油の消費量自体が減り、経営は厳しかったという。

かめびし伝統の高級醤油、「三年醸造醤油」「古醤油十歳造(ととせづくり)」「もろみ醤油」など

 「当時の食卓では、家業をどうするかという深刻な話し合いがいつも行われていました。両親の苦労を横で見ていた私には、醤油づくりは楽しい仕事とは思えなかった。自分の職業選択には全く入っていなかったのです」

 上智大学に進んだ岡田さんは、国際交流の仕事に魅せられた。当時の上智は緒方貞子さんも教壇に立っており、キャンパスの雰囲気に触発されるところは大きかったという。

 大学4年生の時にカンザスに1年間留学し、寮生活をした時のこと。岡田さんが自分の家の醤油で料理を作って友人にふるまうと、皆誉めてくれた。家業について話すと、「あなたの家は230年も歴史があるの? 米国よりも古いね。そんな家に生まれたことは宝物じゃない?」と、米国人の同級生は目を丸くする。

 「それまでマイナスのイメージしかなかった自分の家業に、初めて別の光が当たった瞬間でした。自分の生まれ育った環境が外からはそう見えるんだ、と認識したんです」。しかしこの時はまだ外の世界への興味が勝っており、家業を継ぐことは考えなかった。


 しかし卒業式の日に祖母が入院。岡田さんは実家の引田に戻り、家業の経理を手伝いながら、2年間祖母の看病をする。幸い祖母は回復し、志半ばだった岡田さんは再び東京に戻った。特殊法人国際交流基金の中途採用に合格し、事業部展示課に配属される。

 「配属先で、カルチャーショックを受けました。私はアートは好きでしたが、ずぶの素人。なのにほかの人は皆、歌舞伎の通、相撲のオタク、キュレーター上がりや5カ国語の達人など、すごいメンバーばかりだったのです」

 最初の仕事はベネチア・ビエンナーレの建築展の撤収作業。建築家の磯崎新さんなど、一流のプロフェッショナルたちと直接やり取りする仕事だ。「私は中途だから、それなりのスキルがあると思われていました。でも自分は、日本文化をどれだけ知っているのか…。食文化展示の企画をしたのですが、家業である醤油のことすら全く語れなかったのです。ただの“語学屋”の自分が恥ずかしく、コンプレックスで落ち込みました。同時に、持って生まれた家業を放り投げてしまって本当にいいのか、と悩むようになりました」

 基金に就職して3年目。結婚して子供が生まれ、育休中に考える時間もできた。岡田さんはついに、引田に戻る決意をする。

 「子供ができて、自分はこの子に何を伝えられるのかと思った時、家に戻る決心がついたのです。これから家業の醤油づくりにチャレンジするのは大変なことだとは思いましたが、トライしないで諦めるのはイヤだ。ベストを尽くせば、悔いも残らないと思ったんです」

 1994年、岡田さんは引田に戻ることになった。娘が0歳の頃である。


岡田佳苗(おかだ・かなえ)
香川県生まれ。上智大学国文学科卒。大学4年で米国カンザス州セントメアリーカレッジへ交換留学。1991年に国際交流基金に就職。94年に退職し、父の跡を継ぐべく実家に戻り、かめびし17代目修行中。伝統のむしろ麹製法を守りつつ、革新的な提案も行う。

日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総研 HR人材開発センター長 大塚葉が担当した記事を再掲。