今、日本企業の8割が後継者問題に悩んでいる。2005年、東京の下町・墨田区の町工場である森川製作所でも、創業者の森川清さんが頭を痛めていた。2代目社長と頼みにしていた工場長が、土壇場で「やっぱりできません」と跡を継ぐことを断わってきたのだ。

 「困ったなぁ、誰か跡を継いでくれるヤツはいねえか?」。森川清さんは7人の従業員に、順に声をかけた。しかし全員が「やりたくない」という返事。困り果てた森川さんは、ついに2人の娘たちにも相談した。

 長女の沢子さん(1976年生まれ)は、最初から工場を継ぐつもりはない。そして、最後の最後に声をかけたのが、当時24歳だった次女の明子さんだった。「どうすっかなあ。もう工場をたたむしかねえぞ…」と頭を抱えてつぶやく父を見かねた明子さんが、「じゃあ、私がやろうか」と口にしたのだ。

森川製作所代表取締役社長の森川明子さん(写真:山田 愼二)

 「つい口がすべっちゃったんですよ」と、明子さんは当時を振り返る。「でも、その場で父に『じゃあ、お前が次の社長な』と言われてしまいました」。森川製作所2代目社長が決まった瞬間だった。…

 1年以上連載してきたこのコラムの中でも、森川製作所社長の森川明子さんは、現在26歳と最年少の跡取り娘である。

 森川製作所は明子さんの父である清さん(現会長、65歳)が、1974年にトノクラ医科工業から独立して立ち上げた。中央区日本橋箱崎町に、医療器具の部品加工をやる17坪ほどの工場を作ったのが始まりだ。1990年に墨田区に移転し、現在は従業員7人で、特殊金属や樹脂加工を行う町工場を経営する。旋盤やマシニングで金属を加工する45坪ほどの工場内は、ところ狭しと機械が並び、通りに止めてあるトラックの荷台は金属の削りくずでいっぱいだ。


 下町の町工場といえば、誰もが思い浮かべる「ものづくり」の現場である。「日本橋にあった頃は、工場の中を通らないと自宅に入れないような間取りでした。だから、子供の頃は毎日のように工場の仕事を見ていましたね。物心ついた頃から小さな部品を数えるのを手伝わされていました。でも工場は煙いし、汚いし、手も荒れる。絶対にやりたくない、と思っていた職業だったのです」と明子さんは言う。

 父も、娘に工場を継がせるつもりはなかった。姉妹どちらかの結婚相手が継いでくれたら…と思っていた。明子さんも、父から「婿を取れ」と耳にたこができるほど言われた、と笑う。

 明子さんは向島工業高校で機械科への入学を希望したが、「女子は1人もいないよ」と言われ、化学科に進む。ここで製図などは学んだが、当時の明子さんの将来の希望は調理師。卒業後は調理師学校に行きたいと思っていたそうだ。しかし苦労人の父は、「行きたいなら、自分の働いたお金で行くんだよ」。中学校を卒業しただけだった清さんは、どうしても高校に行きたくて、脱サラして独立した後の27歳から、夜間の学校に通い、若い学生たちと机を並べた経験がある。

 だが明子さんは、「じゃあ、頑張って学費を稼いで調理師学校に行こう」とまでは考えなかった。振り返ると「結局調理師になりたいというのも、そんなに強い気持ちではなかったのかもしれない」と思う。卒業後、2カ月ほどプータロー生活をしていた明子さんに父親のゲキが飛ぶ。「親が一生懸命老骨に鞭打って働いてんのに、お前は何だ、いつまで寝てるんだ!」。下町言葉がポンポン飛び出す父に、明子さんも負けてはいない。「分かったよ、うるさいなあ…」

 そんな親子喧嘩の末、2000年に明子さんは森川製作所に入社。最初は見習いとして働き、旋盤を回して部品も削った。しかし父の知り合いの社長がやってきて明子さんを見て驚き、父の清さんに説教をした。「お前、嫁入り前の娘にそんな危ない仕事をやらせてどうするんだよ」

 その後明子さんは、工場での見習いではなく姉の沢子さんと一緒に事務を手伝うようになった。

 工場の横には小さな事務室があり、明子さんと沢子さんはそこに事務机を置いて仕事をしている。事務室の壁に、面白いものを見つけた。ボードには「喫茶 宙」と看板がかかり、季節のお茶のメニューも書かれている。これは何かと聞くと、明子さんの父はお客様好きで、ここには取引先や同業者などがしょっちゅう出入りしていると言う。

事務室の中を喫茶店に見立てた。メニューも手作り(写真:山田 愼二)

 「お客様が来るたびに『コーヒーいれて』と言われ、最初は面倒だなあと思っていました。でも逆にお客様にお茶を出すことを楽しもうと考え、モチベーションを上げるためにここを喫茶店に見立てて工夫したんです」と明子さん。「宙」(そら)は大好きな宝塚の「宙組」の名から取った。

 こうして明子さんが家業に入って6年目、冒頭の後継者問題が持ち上がり、明子さんは思いもかけず25歳の社長になる。「売り言葉に買い言葉」で社長を引き受けてから、生活は一変した。

 これまではいつも父と一緒に受注先に回っていたので、社長就任の挨拶回りはしなかった。父は現役の腕のいい熟練工であり、多くの人に好かれる“人間力”が工場の受注を支えている。明子さんに社長という肩書きがついたからといって、すぐに社長の仕事ができるようになるわけではない。変わったのは、自分の中身だ。


ビジネススクールの講義で目覚める

 墨田区は、区内の産業振興や後継者育成事業に手厚い。2004年には一橋大学大学院教授の関満博さんが塾頭となり、「フロンティアすみだ塾」という中小企業版のビジネススクールを開講している。1年間のコースで、月1回土曜日の午後1時半から6時までみっちり授業を受ける。明子さんはこの塾の2005年5月スタートの2期生となった。

 しかし、「初日から、もうやめたいと思いました(笑)」と明子さん。同期の8人のほとんどが、しっかり社会人経験を積んだ30代後半の男性で、20代女性は2人だけ。スクールの初日は、各自15分間自己紹介をすることになった。ほかの塾生は皆、自分の経歴や目標などをしっかりした口調で話すが、明子さんは緊張でうまく喋れない。これまで、人前でプレゼンしたことなどもなく、公衆の面前で話すのも苦手だったのだ。無我夢中のうちに15分が過ぎてしまった。

 「私には、とてもムリですよ」…。初日の講義が終わった帰り道、一緒になった墨田区の産業経済課長に思わず弱音を吐いた。「いやいや森川さん、最初はみんなそうなんだ。大丈夫だよ」。励まされたが、家に帰っても「やめたい、逃げ出したい」という気持ちが募った。

工場の中で機械の前に立つ森川さん(写真:山田 愼二)

 「社会人として働いているといっても、ずっと実家の工場の中。本当にのほほんと暮らしていた自分に気がつきました。取引先に行っても、父と一緒だし相手はほとんどが知り合い。結局このすみだ塾で初めて、大人の世界を体験したのだと思います」

 第2回の講義に向かう足取りは重かった。「やっぱり自分にはできない」というネガティブな気持ちを抑え込んで、とにかく出席した。この時の講義は、写真館の社長の話。すみだ塾では、経営術というよりは精神論を教えてくれるユニークな講師を招く。

 「仕事に対する思いを持つこと。それを貫けばいい」。熱く語る写真館の社長の話に引き込まれ、明子さんは決意する。「とにかく休まずに講義に出よう。絶対にその方が得になる」

 関さんの著書『二代目経営塾』(日経BP社)の中に、明子さんのことが「すみだ塾の講義を受けて、劇的に変わった」と書いてあるが、確かに塾生の誰もが「この1年間で鍛えられ、一番変わったのは森川さん」と口を揃える。

 「講義に出ることで、跡継ぎ同士の横のつながりができ、仲間が増えました。それから、人の会社はうまく回っているように見えるけれど、皆それなりに大変なのだとよく分かりました」と明子さんは言う。


 最初の頃は、「25歳で社長になるのはかわいそう」という周囲の声も大きかった。特に、創業期の工場を支えた明子さんの母は反対だった。しかし父の清さんが「じゃあ、40歳になったら急に社長ができるのか? こういうのは年齢じゃない。早く始めればキャリアも積める。俺の目が黒いうちに明子を仕込んでやる」と押し切った。

 それまでは、のんびり屋で根気がないと言われ続けてきた次女の明子さんは、父の期待に応えて変わりだしたのだ。若者は経験もなく未熟だが、その分変化も速い。

 会社のウェブサイトは、早稲田ビジネスパートナーズという、墨田区が費用負担し派遣してくれるビジネスコンサルタントと一緒に改良を重ねた。ピンク色のポップな書体で「AccoTech(アッコテック)」というブランド名が目立つサイトは、明子さんの顔がトップページに載る華やかなデザイン。女性経営者ということを前面に出そうという試みだ。

  スクールで「ブログで経営戦略」という講義を聴くと、さっそく「今度社長になります」という修業日記のブログも立ち上げ、毎日の更新を心がけている。同時期にブログを立ち上げた塾仲間たちが、互いに書き込み励まし合いながら続けている。

 「ウェブサイトを見て受注も少しずつ来るようになりました。小さな個人の会社から、車の改造の部品など、ウチが得意な手作りの良さを生かせるような注文が多いですね」。大量生産できる仕事は、ほとんど中国に持っていかれている。手作業で作るもの、試作品やオーダーメード、医療機器など精度が厳密な仕事が、森川製作所の得意分野だ。

 今は加工以外のほとんどの仕事が明子さんの担当だ。大きな受注が入ると夜遅くまで梱包作業に追われる。車を運転して納品にも行く。毎日8時25分の朝礼があり、そこで話をすることもある。現場は忙しいので、時々は社員とご飯を食べにいき、会長である父には言えない愚痴を聞くのも明子さんの仕事の1つだ。

工場で社員と話をする森川さん(写真:山田 愼二)

 「ただ、私が社長になって自分で取ったお客さんはまだいません。会長である父の営業力はすごい。人に対して壁を作らず、ぐんぐん入り込んでいくタイプ。どんな仕事でも嫌がらずにやり、人を大事にしてきたから、森川製作所の今があるんだと思います」

 父の清さんは、30年来の友人でもその日初めて会った人でも、「コーヒー飲んでいってくださいよ」と分け隔てなく接する。この父のキャラクターは、なかなかマネできないものだ。「私も、自分らしいキャラクターを育てていかないといけない。今は若くて女で社長だから珍しいと言われますが、いずれそれだけではやっていけなくなりますから」

 どちらかというと「もじもじ型」だと自分を分析する明子さん。元気のいい塾生仲間に比べると落ち込むこともあるが、それでも下町っ子らしい威勢のよさがこの跡取り娘の最大の力だ。

 「大きな注文が来て納期に追われ、大変な思いをしても、それを乗り越えると大変じゃなくなる。注文がなくなって困っていると、次に大きな発注があったりする…。仕事をしていると、落ち込んでいる暇もないんです」

 「前向きな子ですね。明子が社長になったら、危なくなっていた会社が生き返った」。明子さんは森川製作所の福の神だと、父の清さんは言う。「これまで毎年、『この1年、乗り切れないのでは』と思っていた。原材料も値上がりして、この業界は厳しいんです。そんな危機の時に、甘えっ子だった次女が『絶対に会社はつぶさないから、大丈夫」と言ってくれた」…。


 その後は偶然か、何年も前に一緒に仕事をした人から発注があったりして、今では捌ききれないほど仕事が来るようになった、と清さん。売り上げも上がり、会社の状態はどんどんよくなった。

 人のやる気を起こさせること、それが会社の再生の基本だ。跡取りが決まるというのは社員のモチベーションを上げる要因の1つ。ほかの誰でもなく、「創業者の娘」というブランドが会社を引っ張るというケースは、日本電鍍工業の伊藤麻美さんの例もある。そして、娘が跡を継いだことで一番やる気を起こしたのは、当の父親かもしれない。明子さんを「社長」と呼ぶ時の清さんは、本当に誇らしげだ。

 ペシミストで現実的な父親と楽観的で前向きな跡取り娘は、絶妙のコンビでもある。清さんが「つぶれるかもしれない」と愚痴を漏らすと、明子さんが怒って「そんなにつぶれるつぶれると言うなら、一人でつぶせばいいじゃん!」と言い合いになることもある。「しょっちゅう喧嘩していますよ。せっかく跡を継いだのに、つぶれると思ってやりたくないですから」と明子さん。

 依頼された仕事だけでは、いつまでも「明日は仕事がなくなるかもしれない」という不安がつきまとう。森川製作所として、新しい商品を展開していきたい。企業の自社製品づくりの支援を受け、姉の沢子さんがオリジナル商品をデザインした。これが、ステンレスを加工した「はしおき」だ。

姉の沢子さんがデザインしたステンレス製の「はしおき」。メール、ファックスで注文できる

 流線型の花弁の形をした「はしおき」は、5つ組み合わせるとコースターにもなる。沢子さんのデザインを、熟練工たちが丁寧に手作りしたフォルムが美しい。

 社長としての失敗もあった。ものづくりという家業に目覚めた明子さんは、この気持ちを大勢の人に伝えようと、2007年9月、新卒・転職者のためのイベント「適職フェア」に50万円で自社ブースを出した。「学生の中には、自分が何かやりたくても見つけられない人が多い。私も、もし社長にならなかったら社会人になっても務まらなかったかもしれません。私に、自宅の工場やすみだ塾があったのと同じように、働く場所を見つけるために誰かが背中を押してくれることが必要なのです」と明子さん。今度は自分がそういう場所を提供しようと、周囲の反対を押し切ってブースを出店した。

 しかし残念ながら、新たな従業員獲得には結びつかなかった。ものづくりをやりたい人はいても、現場の話をするとかなりイメージが違う。3K(「危険」「汚い」「きつい」)と言われる職場を志望する若い人は激減していると感じた。小さな町工場にとって、50万円の出費は大きい。明子さんは「これが、社長になって以来一番の大暴走でした」と笑う。

 「来年はCAD/CAM(コンピューターによる設計)を入れて、エコアクション21というISO(国際標準化機構)規格を取りたい。環境問題も気になります。お客様が多いので、事務所も建て直して大きくしたい」と、跡取りの夢は大きい。

 しかし、現実派の父親は渋い顔をする。「夢は持ってもいいが、最小限確実なものを大事にやらないとダメだ。まず自分が修業して技術を身につけないといけないよ」と清さんは言う。

森川製作所の社員たちと。前列右から明子さん、姉の沢子さん。2列目右端が父の清さん(写真:山田 愼二)

 今回の取材では、初めて父娘の両方の話が聞けた。しかし実際のところ、父娘双方の話を同時に聞くのは難しいとも実感した。父親が語りだすと、娘は黙ってしまう。跡取りとして頑張ってくれる娘には感謝の気持ちもあるが、父から見ればまだまだ未熟だ。娘の耳が痛むことも、たくさん言いたい…。父も娘も、どちらも真剣なだけに、行き違いも多いのだ。跡取り娘が乗り越えるべき父親の背中は、大きい。

 明子さんが、父のいないところでそっと語ってくれたのは、「父はまだ“婿”に未練があるようなのです」とのこと。明子さんのボーイフレンドが工場に入り、父の自分は彼に技術を伝える。…そんなことをよく口にするという。技術者の父親は、社長には技術者であってほしい、と思うものなのかもしれない。

 「でも、私は私でやっていきたいんです」。明子さんはきっぱりと言い切る。跡取り娘として、既に腹をくくっているのだ。サラリーマンと違い、リスクを取れること。それが跡取りの最大の力だ。


 次期社長と見込まれた熟練のベテランでも、今はリスクを取ることにしり込みする時代だ。関さんも『二代目経営塾』で、「社員から優秀な後継者候補を選んでも、結局断られてしまうケースがここ数年目立つ」と紹介している。サラリーマンはリスクを取りたがらないが、中小企業の娘や息子には、知らず知らずに「経営者とは毎月決まった給料を支払い、手元にお金のなくなる人」という刷り込みがされている、と関さんは指摘している。一族以外の後継者を選ぶ場合は、「家が小さな商売をやっている人」を選ぶように助言している。

 周囲の人に暖かく見守られながら、当分は親子の二人三脚が続きそうだが、清会長が“跡取り娘力”を認めてくれる日もそう遠くないに違いない。


森川明子(もりかわ あきこ)
1981年、東京・日本橋生まれ。森川製作所創業者、森川清さんの次女。向島工業高校卒業後家業に入り、2006年、25歳で社長に就任。

日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総研 HR人材開発センター長 大塚葉が担当した記事を再掲。