六本木交差点にそびえる誠志堂ビル。読者の世代には、六本木で待ち合わせる時は、このビル1階にあった本屋を利用した人も多いのではないだろうか。携帯電話のないバブル時の六本木での待ち合わせ場所は、第1位がアマンド前、そして第2位が誠志堂書店で立ち読みしながら、というのが定番だった。その誠志堂書店が閉店したのは2003年。なんと、当時創業100年目だったという。

誠志堂ビルを背に、六本木交差点に立つ西石垣文江さん

 現在、誠志堂ビル4階の沖縄料理店「島唄楽園」と1階の万華鏡屋兼バーを営むのが、誠志堂マイヤーズ3代目、西石垣(旧姓今田)文江さんだ。「生まれも育ちも六本木。小学校6年まで、ここに住んでいました。本が大好きで本屋が遊び場。2軒隣の家の同級生と、このあたりで三輪車を乗り回していましたね」

 誠志堂のルーツは、西石垣さんの祖母の代に遡る。祖母の実家は、100年前から六本木で本屋を営んでいた。後に祖父が神田から震災で六本木に移ってきて、家が隣同士になったことで祖母と結婚した。祖父の今田家の方は、誠志堂喫茶部の餅菓子屋から、食堂、おもちゃ屋、輸入雑貨店など、時代とともに商売替えをしてきた。

 六本木交差点にいくつもの店舗を持ち、誠志堂という屋号で一族がそれぞれ好きな商売をするという基本のスタイルは、今も変わらない。六本木通りを挟んで誠志堂ビルの対面にあるビルにも、親族が営むたばこ屋や古本屋が入っている。1988年に親戚同士で一緒に建てたのが、誠志堂ビルである。

 「今運営しているのは、元は母がやっていた万華鏡専門店を改装したバーと、沖縄料理店を六本木と乃木坂で2店舗。楽天市場にもオンラインの万華鏡専門店を持っています」と西石垣さん。六本木のど真ん中で育った彼女が、なぜ「万華鏡」と「沖縄」なのか? そもそもなぜ、彼女の現在の名字は西石垣なのか? まずは、気になる名字について聞いてみた。


母の万華鏡専門店を改装した「万華鏡BAR」の入り口

 「1997年に、石垣島出身の夫と結婚したのです。私は大学生の頃に初めて沖縄に行って、すっかりハマってしまいました。特に石垣島の子供たちの目がとてもキレイだったので、こんなところで子育てしたらいいだろうなあ、石垣島の人と結婚したい…と漠然と思っていたのです」と西石垣さんは当時を振り返る。「1995年に誠志堂ビルに沖縄料理屋を開店して、3カ月目に石垣島出身の自衛隊員がお客さんとしてやってきた。それが今の夫です。夢って、かなうんですね」

 「Dreams Come True」は、西石垣さんの信条。今までの人生では、「夢見たことが実現できてきた」という。様々な夢を実現しつつ、行き着いたのが今の「沖縄」と「万華鏡」の仕事。「生まれ育った六本木に、大好きな沖縄がやってくるといいなあ」。…沖縄に魅せられた西石垣さんの夢が、実現するまでの道のりをたどってみた。


沖縄料理の専門店、「島唄楽園」の店内

 西石垣さんと沖縄の最初の関わりは、小学3年生の頃。当時人気絶頂だった沖縄出身の5人兄弟グループ、「フィンガー5」が大好きだった西石垣さんは、「彼らがうちの学校に転校してきたらいいなあ」と思っていたそうだ。すると通っていた麻布小学校に、本当にフィンガー5の紅一点、妙子が転校してきたのだ。西石垣さんの3歳年上の兄は、妙子と同級生に。南国に淡い憧れを抱き始めた、最初の出来事だった。

 その後中学校に進んだ西石垣さんは、写真部に入部。写真好きで、ロシアに写真留学に行ったという祖父の血を引いていたのかもしれない。家には、父のニコンのカメラなどがゴロゴロしている環境だった。


 1980年に日大桜丘高校に進み、アメフト部の写真を撮りにグランドに日参した。「フォトジャーナリストになりたい」という夢が、心の中でぐんぐん育っていったのは、この頃だ。

 夢を最短距離でかなえようと一度写真学校に入り、日本大学文理学部に入学し直した。写真の師匠に「アメフトの写真ばかり撮っているが、被写体への迫り方が足りない。もっと入り込め」と言われたからだ。

 当時日大のアメフトといえば篠竹幹夫監督率いる黄金期、3年連続日本一の「日大フェニックス」。頼み込んで、押しかけマネジャー兼専属カメラマンとして入部した。日大創立100年記念に公開されたアメフトファンには幻の名画「マイフェニックス」(監督:西河克己、1989東宝、主演:宍戸開)のヒロインのモデルは、なんと西石垣さん本人だ。

 「女性の目から見たアメフトがテーマで、私の役を富田靖子さんが演じたんですよ。新宿アルタの前に、私が撮った写真が大看板で飾られて…。学生ながらセミプロのカメラマンとして、けっこう稼いでいました」

 日大を卒業後、1988年に、アメフト雑誌「TOUCH DOWN」を発行するタッチダウン社に就職し、記者となる。「怖い人」と恐れられていた篠竹監督の「笑顔を撮れる」貴重なカメラマンとして、西石垣さんは既に有名だったのだ。

沖縄に魅せられた日々

 カメラマンになるという夢は順調にかなえられていく。その一方で、沖縄への思いも着実に育っていった。大学生の頃の西石垣さんは、「リゾート」としての沖縄をミーハーに楽しむ「バリバリの観光客」だった。しかし八重山4島(石垣、竹富、小浜、西表)や沖縄本島に行った時に、「ぐぐっと心臓をわしづかみにされてしまったんです」。

 漁船で島を巡り、民宿に泊まり、リゾートホテル用ではない沖縄の家庭の味や泡盛を初めて知った。島の人が唄い、踊り、三線や笛の音とともに、夜は深けていく。バブル期の大学のサークル仲間たちにはピンとこなかったようだが、六本木の真ん中で育った西石垣さんには、その空気が何よりもかけがえのないものに映った。

 アメフト専門誌で日本と米国を行ったり来たりしながら、夜も昼もない生活をしている間、心のよすがとなったのはやはり沖縄。徹夜明けで、心の洗濯をしに沖縄に飛んだ。最南端に位置する八重山諸島の人々に惹かれた。

 椎名誠の映画「うみそらさんごのいいつたえ」(1992年)の舞台にもなった石垣島で、映画のロケに協力してくれた島の人々に感謝の念をこめた星空上映会があった。映画関係者のツアーに交じって参加。星空の下の白い砂浜で、椎名誠さんや、音楽家の高橋ユキヒロさんといった著名人が、島のおじいさんたちと酒を酌み交わす。誰が有名だとか、島の人だとかいったことは関係なく、すべての人同士の隔たりが、降るような星空に吸い込まれていく。その光景は彼女の心に深く棲みつき、後の起業の原点となっていくのだ。

 「その時に一緒に行った仲間たちの1人は、今、石垣で民宿のおかみさんをやっています。ツアーで出会って添乗員と結婚して沖縄に移住した人もいるし、会社を辞めてダイビングの道に進んだ人もいる。この旅行をきっかけに、人生の新しい選択肢として『沖縄』を選んだ人がたくさんいました」

 この頃、西石垣さんの父母は健在だった。2人ともボーイスカウト、ガールスカウトの経験がある。特に父は、戦後のボーイスカウト活動でも最古の団を立ち上げた功労者。会社員の傍ら、ボランティア活動に貢献していた。母親は誠志堂ビルの1階、本屋の隣で、輸入雑貨の店を営んでいた。3歳上の兄は、西石垣さん以上に沖縄にのめり込み、現地のミュージシャンと交流もしていた。

バブル崩壊前、母の仕事も順調だったが…

 西石垣さんと母親の仕事が、ある時点で交錯することがあった。それが「万華鏡」だ。「取材に行った米国で、万華鏡の資料を買ってきてと母に言われたんです」。輸入雑貨の店のメイン商品を探していた母親が、ギフトショーで米国人に見せてもらった万華鏡にはまってしまったのだ。「その瞬間、『恋に落ちた』と母は言うんです」。惚れ込んだら、一直線。エネルギッシュな性格は、娘と母は似ているかもしれない。

店内の棚に並ぶ輸入品の万華鏡。手作りの一点ものばかりで、高いものは10万円以上する

 西石垣さんの母が経営していた店内の万華鏡を見せてもらって驚いたのだが、輸入の作家もの万華鏡は、上は18万円もする芸術品だ。子供の頃遊んだような、千代紙が筒の中で舞うようなおもちゃの万華鏡とはレベルが違う。手吹きガラスや木目の美しいものなど、インテリアとしても素晴らしいのだが、実際に覗いてみると、その華麗な世界に魅了される。有名な万華鏡作家もいて、日本にもわずかながらコレクターがいるそうだ。

 「サンフランシスコでたまたま行ったギャラリーで万華鏡の本を買ったら、専門店やイベントの情報などがすべて分かりました。アメフト記者の頃培った情報収集のノウハウを母親に伝授して、母は1990年に米国の万華鏡コンベンションに初の万華鏡専門ギャラリーのオーナーとして参加しています」。母親は日本初の万華鏡専門店オーナーとなり、1993年には日本で「万華鏡倶楽部」を立ち上げ、万華鏡愛好家の中心人物として活躍していく。

 しかしバブルもはじけた1995年、西石垣さんがタッチダウンに就職して8年目に、誠志堂ビルと一家に大きな出来事が起きる。テナントの撤退だ。それも夜逃げ同然だった。内装がそっくり残された、チェーンの大皿総菜屋の後をどうするか? 一家は、テナントオーナーとしての大問題に直面。西石垣さんはアメフト誌の仕事を辞め、誠志堂マイヤーズに就職することになる…。



西石垣文江(にしいしがき・ふみえ)
1965年、東京生まれ。日本大学文理学部卒業。日大フェニックス専属カメラマン兼マネジャーから、卒業後1988年に、アメフト専門誌「TOUCH DOWN」記者に。1995年に誠志堂マイヤーズに入社。六本木交差点のビルで商売を営む、誠志堂マイヤーズの3代目。現在は、父母が開いた日本最初の万華鏡店と沖縄料理店など3店舗を経営している。

日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総研 HR人材開発センター長 大塚葉が担当した記事を再掲。