(前編から読む)

 1995年は、西石垣さんにとって大きな転機となる年だった。まず、ずっと応援していたアメフトのチーム「サンディエゴ・チャージャーズ」が全米2位になったこと。自らの出身校日本大学も、西石垣さんが応援している時期に連続日本一を成し遂げている。

誠志堂マイヤーズ 3代目 西石垣文江さん(写真:山田 愼二)

 弱小と言われたチームをずっと追いかけ、取材し、彼らの活躍を記事にしていた西石垣さんは、悲願を達成した後との一種の「抜け殻」状態にあった。そこに実家の危機――実家が管理しているビルからの、突然のテナントの撤退――という大事件が降りかかる。内装もそっくり残された居酒屋の跡。…居ぬき(店の外装や内装をそのまま使って、新サービスを始めること)で、自分がなんとかするしかない!

 西石垣さんは8年間勤めたタッチダウン社を、6月に退社。スポーツジャーナリスト生活に終止符を打つ。そしてお店をやる決意とともに、食品衛生責任者、調理師、バーテンダーの免許を取得することにした。しかし、ここをいったいどんなお店にしたらいいのか? コンセプトは? なるべく低予算で、何ができるのか? しかも場所は六本木のど真ん中の一等地である。

 「六本木には世界中の料理がある。今までにないものを求めて、タッチダウン退社後に海外を視察に行きました」。シンガポールやドイツにも足を伸ばした。ドイツではちょうど、ビール祭りに遭遇。よそ者も村人も、1万人入るテント会場で肩を組み、ビールを片手に大合唱している。国境も人種も超え、みなが豊穣を祝う様子を見て、「あれ、この光景はどこかで見たなぁ」と思った。「気がついたら、それは沖縄の野球場に何千人もが集まる『オリオンビール祭り』でした」

 海外まで行ったけれど、ヒントは意外に近いところにあった。

 そうだ、沖縄だ。沖縄料理、それも観光客が食べたことのない、本物の家庭の味の料理屋を作ろう。当時、東京にあった沖縄料理屋は、10~20人くらいしか入れないような家族的な店が多かった。そういった店は、常連の席まで決まっていて、新参の客は入れない。

 「一般の沖縄ファンも気軽に集まれる店、自分があったらいいなと思うような店をやればいいんだと思ったんです」

 幸いタッチダウン時代の知人が、ある沖縄の店を紹介してくれた。今では珍しくないが、当時は斬新だった「モダン沖縄」の店。ジャズが流れて泡盛が飲めるような店である。その店をプロデュースしたのが、ソムリエとして有名な田崎真也さんのいとこ、沖縄に移住していた田崎聡さん(1986年に沖縄移住。雑誌「うるま」「沖縄スタイル」の創刊編集長、飲食店プロデューサーとして多方面に活躍。現在、沖縄・奄美スローフード協会会長)だったのだ。またまた西石垣さんは運がいい。

 「ソフトはないが、ハコはあります。田崎さんにプロデュースをお願いしました。10月に沖縄に行き、田崎さんにこちらに来てもらって、11月22日にオープン。準備期間はわずか1カ月でした」

古酒と沖縄料理の店 島唄楽園の店内(写真:山田 愼二)

 そしてできたのが「古酒と沖縄料理の店 島唄楽園」である。名義は父親だが、西石垣さんは、初めて銀行との折衝に臨んだ。求人や店の清掃、ビールを入れる会社まで、すべてアメフト関係の先輩や後輩の縁で何とかなった。これまでに積み上げてきたものが、「素人でありながら1カ月で飲食店をオープン」という、無謀なスケジュールを可能にしたのだ。

 「料理は昔ながらの作り方の『お袋の味』にこだわりました。また、沖縄の店には音楽も欠かせません。店では大スターではなく、沖縄音楽界の若いミュージシャンがライブをやれるようにし、彼らの東京への登竜門にしたいと思いました」

 「ニーニーズ」というグループも、ここからデビュー。夏川りみも島唄楽園でライブをやっている。西石垣さんの頭にあったのは、博多で長渕剛ら数々のミュージシャンを生み出した伝説のライブハウス「照和」や六本木の「キャンティ」だった。


六本木に沖縄がやってきた

 「同級生のお父さんがキャンティの料理長だったのです。大人が、背伸びしている子供を引き上げてあげる場所、文化の交流拠点、キャンティに憧れていました。何気ない出会いが結びつく場所。東京に働きに来ている沖縄の人が、『これが沖縄料理だよ』とナイチャー(内地の人)に自慢できるような場所。私の店は、そんな存在でありたいと思ったんです」

 西石垣さんの夢、「大好きな沖縄が六本木に来たらいいなあ」という夢は、こうして現実になったのである。さらに店をオープンして3カ月後に、客としてやってきた石垣島出身の夫と店で出会うことになる。1995年は本当に、西石垣さんにとって新たなスタートの年になったのだ。

 しかし、店のオーナーとして起業したとはいえ、西石垣さんの頭の中にはまだ「経営」という2文字はなかった。経理は会計士に任せ、オーナーとしての仕事は、見せられた数字に「はいはい」とうなずくぐらい。しかし2001年、頼りにしていた母が亡くなるという出来事があり、2002年に西石垣さんは一念発起して、起業塾に入門する。

 「うちはもともと、男性ではなく女性が仕切る家系。夫も兄も帳簿を見ない人。母が亡くなり、じゃあ、私しかやる人がいない、ということに気がついたんです」

 西石垣さんが入門したのは、マーケティング会社トレンダーズの社長、経沢香保子さんの運営する「女性起業塾」だ。妊娠3カ月の時から、5期生として3カ月通った。起業塾で出会った仲間が、「借金? 私なんか5億あるわよ」「私は1億あるわ」とあっけらかんという女性ばかり。

 「妊娠中で大丈夫かしら」と心配した西石垣さんだが、隣の席の女性も妊婦で入塾し、3カ月後に出産と同時に起業している。「バブルのツケを親に回された」と語る跡取り娘もいた。前向きな彼女たちを見て「あなたは、恵まれてる方よ」と言われて、目が覚めた。

 「今までは会計士が帳簿を持ってきてくれてもよく分からなかったので、これではダメだと思ったのです。会社の数字を見られるようにならなくてはと、本を手当たり次第読んで猛勉強しました」

本格的に経営に携わる

 続いて、2004年に父も亡くなる。臨終の床の父に「お前の店だぞ」と後を託され、社長になることの本当の意味に向き合い始めたのだ。

 「父と母を相次いで亡くしましたが、自分も出産して小さな子供がいた。両親の死を悲しんで泣いている暇もなく、オムツを替える生活でした。そんな中、小さな子供を連れて米国の万華鏡のコンベンションにも参加しました。万華鏡の店は閉める話もあったのですが、閉めずにバーとして再出発。父母とつながったものを何か残したかったのです」

 相続を終えると、父が10年で返済する予定の借金も残された。父は店を経営する時に「赤が出るぐらいでちょうどいい」と考えていたが、西石垣さんは数字を出そうと決意する。

 「売り上げを意識していなかった頃は、ずっと5000万円の現状維持でよしと思っていた。父母が亡くなって、経営を考えるようになってからは、年商が年々アップして1億を超えるようになりました。残された借金も期間を短縮して完済できました」

 年商2倍のポイントは、起業塾で教わったIT(情報技術)戦略。2002年、塾に入ってすぐにウェブサイトを立ち上げ楽天日記をつけ、ぐるなびサイトにも登録した。島唄楽園では、昼の時間も人材を有効活用。「ランチタイム」も始め、800円のランチが好評となった。

 2003年には、わずか100万円の初期投資で乃木坂の2号店をオープン。保育園のママ友達の店だったが、やる人がいなくなって困っていたのを、借り受けた。西石垣さんは、あるものをうまく使うのが上手なのだ。

2007年9月に島唄楽園で行ったライブ、「ぱにぱに」

 「ライブも、前は集客をうるさく言わなかったのですが、今は出演バンドには『○人くらいは呼んできてね』と言って、集客意識を持ってやってもらっています。最近では。有名バンドも出演してくれるようになり、予約だけですぐに満席になることもありますね。家族経営だった店に外部から店長を雇い、スタッフには目標の売り上げを決めて、レジ閉めまでやってもらいます。みんな目標ができると意識が変わります。今日は目標に届かないから、もう少し開けて頑張ろう、という意識を持ってくれるのです」


 1995年のスタート時は、沖縄の空気そのままにのんびりと営業していた店が、目的意識を持つと売り上げもアップした。開店当時から週1回、三線(さんしん)教室を開いていたが、今は土日も入れて週4回の教室を開いている。文化交流のコミュニティーが、また集客につながる。沖縄好きの生徒が口コミで店を宣伝してくれるからだ。

 「今までは私は、お金を使う側の人でした。今は管理する側になった。普通の店が当たり前のようにやっている売り上げ管理を、当たり前にやるようになったということですけれどね(笑)」

 六本木もヒルズができて、ミッドタウンがオープンし、昔の活気が戻ってきた。人の流れは変わっても、六本木交差点だけは、昔ながらの店が多いのが不思議なぐらいだ。

 今後の目標を尋ねると、「親の代からのこの場所を、これからも守っていきたいです」という西石垣さん。今は別の企画があって、料理の勉強中だという。本屋の一族だった癖で、手当たり次第に料理本を集めている。

 そして4歳、7歳、9歳の3人の子供の母親業も忙しい。今まで取材した跡取り娘の中では一番の子だくさんだ。

 「東京では、子供3人というのは驚かれることもありますが、石垣のお父さんたちは『あたりまえサァ』と言うんですよ。今までいろいろなことをやってきましたが、六本木というこの場所があるから、すべてがつながっていく。また次の子供たちの代へと、つながったものを残していきたいですね」

 六本木と沖縄の「ハーフ」でもある、3人の子供たち。彼らが大人になる頃には、六本木はどんな町になっているのだろうか? 多分その時代も、誠志堂一族は、様々に商売の形を変えながら、やっぱりこの六本木交差点に根を張っているに違いない。西石垣さんを見ていると、本当にそう思えるのだ。


西石垣文江(にしいしがき・ふみえ)
1965年、東京生まれ。日本大学文理学部卒業。日大フェニックス専属カメラマン兼マネジャーから、卒業後1988年に、アメフト専門誌「TOUCH DOWN」記者に。1995年に誠志堂マイヤーズに入社。六本木交差点のビルで商売を営む、誠志堂マイヤーズの3代目。現在は、父母が開いた日本最初の万華鏡店と沖縄料理店など3店舗を経営している。

日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総研 HR人材開発センター長 大塚葉が担当した記事を再掲。