丸信金属工業の看板(写真:山田 愼二、以下同)

 栃木県足利市には、アルミ金属工業の歴史がある。戦前戦中に日本軍の四式戦闘機「疾風」などを作っていた中島飛行機(群馬県太田市)に近く、下請けのアルミ部品を作る会社が多かった。

 戦後、下請け工場はアルミの家庭用厨房品である、なべ、やかん、きゅうすなどを作る会社に転じる。そういった会社が足利市には20数社あったと言うが、その1社が丸信金属工業の前身で、今回登場する跡取り娘坂本智美さん(旧姓小和田)の祖父、小和田信彦さんが立ち上げた会社だ。

 足利市の丸信金属工業を訪ねると、天井の高い工場の中で20人ほどの社員が働いている。プレス、旋盤などの機械が整然と並び、床にはチリひとつ落ちていない。現在、丸信金属工業の主力商品である空調用の部品(吹出し口)が、箱に入って出荷を待っている。


丸信金属工業3代目の坂本智美さん
工場の中で小さなアルミ製品を作る女性スタッフ

 工場の中央では、女性ばかり数人で作業している場所がある。手は忙しく動いているが、なにやら楽しげな気配だ。彼女たちの手元にあるのは、てのひらサイズの小さなアルミの製品。それに説明書をつけ、10センチほどのプラスチックの箱に入れるパッキング作業をしている。どう見ても、これは空調用の部品ではない。

 「これはMoMA(ニューヨーク近代美術館)デザインストア用に出荷するものです。5月から7月に開催されるデスティネーションジャパンという日本製品を集めたフェアで展示販売されます」と答えるのは、丸信金属工業の3代目を継ぐ、社長・小和田侑さんの次女である坂本智美さんだ。

 「日常使える日本のアート」を約80点集めて展示販売するMoMa Design Storeデスティネーションジャパンは、ニューヨークの3店舗と原宿店で同時開催される。そこに丸信金属工業が作る「TWIST」という商品が選ばれ、出品されるのだ。TWISTは、アルミで作った一輪挿しの花器である。台にリボン状のアルミをくるくると曲げたオブジェがついている。花を飾ると、植物の柔らかい質感とアルミという異素材が花とアルミのリボンが戯れているような不思議な風景が出現する。

 これが跡取り娘の坂本さんがデザインする、アルミを使ったアートオブジェブランド「アルアート(AL art)」の製品だ。現在では、丸信金属工業の売り上げのうち、アルアート製品は15%を占める。

花器「TWIST」に花を挿したところ

 「最初の製品は『花あそび』でした」と坂本さんは語る。オフィスにはアルアートの製品が展示してあり、その中の1つを坂本さんが手に取って説明してくれた。直径20センチほどの平たいリングが、手の中でくしゅくしゅと形を変えて丸められていく。自在に形を変えるアルミという金属の柔らかさに驚いた。リングをアルミ製の皿に置くだけで、花器の完成だ。「こうして自由に形を変え、それを花止めにして、花を挿すのです。剣山もオアシスも使わずに、花を生けることができます」

坂本さんが最初に作った、アルアートの花器『花あそび』ができるまで 1
坂本さんが最初に作った、アルアートの花器『花あそび』ができるまで 2
坂本さんが最初に作った、アルアートの花器『花あそび』ができるまで 3
坂本さんが最初に作った、アルアートの花器『花あそび』ができるまで 4

 ほかにもガラスとアルミを組み合わせたもの、アルミに色をつけたものなどいろいろな製品があるが、ほとんどは花器だ。アルミと植物という組み合わせは、モダンだがすっきりと和風な印象もあって、とても新鮮に見える。

1976年に父の社長が作った、エンドレスカレンダー(手前)とメモホルダー

 アルアートというブランドは、もともと坂本さんの父の小和田社長が、1976年に初の自社企画製品としてエンドレスカレンダーとメモホルダーを作った時に発足したブランドだった(当時は「al art」)。しかし長らく休眠状態になっていたのを、98年、22年ぶりに「AL art」として坂本さんが再興したのだ。

 なぜアルミ工場が花器を作るのか、アルミの可能性を最大限に生かしたデザインはどこから生まれたものなのか? それを知るには、会社と坂本さん本人の歴史を語ってもらわなくてはいけない。


跡取りとして父が期待していた「お転婆娘」

 「帰宅する時に、塀を乗り越えて帰ってくるような子供でした」と、父である社長は坂本さんを評する。4人姉妹の次女。跡取りの男の子を望んだが、ついに4人目までが女の子だった。

 中でも一番活発だった坂本さんは、小学生の頃から父親が監督するソフトボールチームに入り、父親とキャッチボールをして遊んだ。高校生の時は、自分でソフトボール部を設立してしまった。「性格が積極的で、仕事には向いているかなと思っていました」と社長が言うように、元気な次女は実は跡取りとして期待されていたのだ。

 坂本さんは東京の青山学院短期大学を卒業後、90年にNECに入社。半導体の全盛期、国際資材部に勤務し、毎日深夜まで残業するような忙しいOL生活を送る。傍ら、94年頃からフラワーアレンジメントに興味を持つようになる。花が好きだったのだ。いつかはフラワーコーディネーターを仕事にしたい、という漠然とした気持ちがあった。

 当時のOLは、キャリアウーマンというより、「今の自分は仮の姿。いずれは好きな仕事に就きたい」という意識が強く、様々なお稽古事に励んだものだ。坂本さんもそんな東京のOLの1人。当時は今ほどフラワーアレンジメントの教室もなかったので、平日はOLとして、土日は花屋で働きながら勉強することにしたのが、坂本さんが普通のOLと一味違うところだ。小さい頃から現場である工場を見て育ったから、現場第一主義だったのかもしれない。

 「東京でのOL生活も仕事も楽しくて、NECに6年間勤めました。このまま結婚して、家に戻らなくてもいいな、と思った時期もありましたね。父も家業に戻れ、というプレッシャーもかけてこなかったんです」。しかし坂本さんがバブル期のOL生活を満喫している間、父は会社の重大な転換期を迎えていた。

 2008年5月から52期を迎える同社は、これまでも何度か危機に直面した。最初は、石油ショックの頃だ。前述のように丸信金属工業の主製品は家庭用厨房品だったが、大半の注文を受けていた富山県のアルミ会社からの注文がなくなったことだ。

坂本さんの父、小和田侑社長

 日本が豊かになるにつれ、アルミのきゅうす、やかんは、どんどん姿を消した。ステンレス製品の台頭も大きな打撃だった。アルミ製品がキッチンの主役ではなくなり、アルミ家庭製品全体が、斜陽産業となっていったのである。

 問屋が在庫を抱えられなくなり、足利市のアルミ家庭製品の工場は次々に廃業していく。丸信も当然家庭製品だけではやっていけなくなり、82年頃~87年には事業の転換も考えた。10社あった元請けの会社は10年の間に1社になっていたが、ついに82年にその1社からの注文も絶えた。

 当時高校生だった智美さんは、「父や母が大変だという話はしていましたが、娘4人を大学にやるために、お金がかかるのだと思っていました」と言う。当時、父母は娘たちには経営の苦労を語らなかった。まだまだのんきな跡取り娘だったのである。


現在は丸信金属工業を支えている、空調用部品の吹出し口

 「今の工場の設備を生かし、少しの設備投資で、業種転換できるものを…」。模索していた小和田社長にとって、ヒントは意外なところにあった。PTA仲間で景気がいい父親の話を聞いたら、空調関係の仕事をしているという。空調になら、アルミ部品がある!

 86年、父が私財を投じて設備投資をし、アルミ家庭用品から空調部品に転換した丸信金属は、やがて危機を脱却することができた。 かつて足利市に30社あったアルミ工場が今は10社で、家庭製品に特化している工場は2社しかない。アルミ工場の存続の難しさがよく分かる。しかし、当時高校生だった坂本さんには、会社の大変さはよく分かっていなかった。

 今思えば、バブルで世の中が景気のいい時に丸信は大変な時期を迎えたが、余力のある時期に業種転換したのがよかったのだろう。父の小和田社長には、「1社に頼る下請けは怖い」という思いが染み付いた。

 空調部品に転換し、事業が軌道に乗ってきた96年。ある出来事がきっかけで坂本さんは、勤めていたNECを退社し、家に戻ることになる。それは、かわいがってくれた祖母の死だった。



坂本智美(さかもと・ともみ)
1970年、栃木県足利市生まれ。青山学院短期大学卒業後、1990年、NEC国際資材部に入社。1996年、NECを退社し、丸信金属工業に入社。1997年に結婚し98年に第1子誕生。同年、「AL art」で最初の製品を世に出す。

日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総研 HR人材開発センター長 大塚葉が担当した記事を再掲。