改革に成功し、業績を伸ばす企業が注目されるならば、私立の中高一貫校、品川女子学院はまさに、「注目の私学」である。一時は廃校寸前という危機もあったが、2008年の187人の卒業生の進路を見ると、4年制大学進学率83%。合格者数は早稲田、慶應、上智に32人、「MARCH」(明治、青山、立教、中央、法政)に106人、国公立大学に14人。改革の15年で、入学偏差値は20ポイント上昇した。

品川女子学院校長の漆紫穂子さん(写真:山田 愼二、以下同)

 品川女子学院という学校の名前を聞いて「山口百恵さんのいた学校?」と思いつく人は、多分40代以上だと思う。あの頃は決して進学校でなかった品川女子学院が、いまや偏差値や大学進学率の伸びで、“学校再生”の秘訣を注目される学校になったのだ。

 学校再生の中心となったのが、学園創業者の曾孫、品川女子学院校長6代目の漆紫穂子(うるし・しほこ)さんだ。漆さんが品川女子学院の教師になったのが1989年、その後わずか7年余りで次々に大胆な改革を行った。

 例えば「品川中学、高校」から「品川女子学院」へ校名変更、セーラー服からかわいらしいチェックのプリーツスカートの制服への転換、漆家が借金の個人保証をしたという校舎の全面改装。北品川駅前の校舎は茶色の壁で外界と隔てられ、セキュリティーも万全だ。構内にはおしゃれなカフェテリアもある。しかし、それらは少子化時代に生き残ろうとする私学なら、どこでも考えつきそうなことだ。


 「見た目の改革は、氷山の一角に過ぎません。1990年から、中と外の改革を7年ほどの間に一気に進めました」。中の改革とは、進路指導の充実などカリキュラムを変えることはもちろん、広報の見直し、教員採用の充実などを含む。現在、品川女子学院はTOEICを指標とした英語教育や、企業とのコラボレーション教育でも知られている。高校2年の時点でTOEIC990点中830点をマークした生徒もいるという。

校庭に並ぶ生徒たち

 例えば取材をした日の午後は「角川書店とのコラボレーション企画で、生徒が映画『DIVE!!』のプロモーションを企画し、その試写会があるのです」と言われた。角川書店からの依頼で、生徒がポスターや携帯サイト、書店でのプロモーションを行い、試写会には主演俳優の来校もあるという。ユニークなカリキュラムを打ち出すのも、志望者を増やす手段の1つとしてよく用いられる手法だ。しかしそれだけでは一時的な効果はあっても、継続的に成長することはできない。

 「改革当初は学校をつぶしてはいけないという焦りから、あれもこれもとやり過ぎて、ほかの教員から『改革の方向性が見えない』と指摘されました。おかげで、『捨てる勇気』を持つことが大切だと気づきました。お金や人材など、資源には限りがあります。どこを捨ててどこを生かすのか、改革の軸をぶらさずに決断していくことで、目標が明確になりました。これにより、皆のベクトルが合って、継続的な成長ができたのだと思います」と漆さんは言う。

リニューアルした制服

 改革の軸とは、「卒業生の母校を守る」「在校生を、社会に有為な人材に育てる」という学校の使命でもある。

 品川女子学院のユニークさは「28project」という教育方針に表れている。「大学進学をする18歳の時ではなく、28歳の時に社会で生き生きと活躍できる女性を育てることを目指し、未来から逆算してその土台づくりをしていく」というのが、学校の目指すところだ。そのライフプラン作りが「28project」である。

 なぜ28歳なのだろうか? 会社での仕事の責任も重くなり、また女性は結婚や出産を考えていくうえで、ライフプランの大事なターニングポイントになる年齢を28歳としているからだ。次代を産み出す母体でもある女性だからこそ、出産適齢期をかんがみての「28歳」。この思想には、はっとさせられた。

 この方針を見ても分かるように、中高一貫といっても、品川女子学院は決して「良妻賢母を育てるお嬢様学校」ではない。家庭と両立し、社会に貢献できる働く女性、働き続けられる女性を送り出す学校なのだ。その方針は、漆さんの曾祖母の設立当時から受け継がれている。

 1925年に荏原女子技芸伝習所として開設した学校は、戦後の学校改革により品川中学校となる。「曾祖母が学校を設立した時から、女性の手に職をつけることを考えてきました。いずれ政治や経済にも女性が参加する時がくる。その時のために、健全で明るく凛とした女性を育てたいというのが曾祖母の言葉です」


学校の歴代の校長・副校長たち

 曾祖母の代からずっと、一家は教育者。漆家から出る校長は、2006年4月に6代目校長に就任した漆さんで4代目である。祖母も、父も母も教育者という家庭に育った漆さんだが、意外にも本人は品川中学の卒業生ではない。

 「教師は本当に大変な仕事なのです。父も母も品川中学に勤めていましたが、常に“自分の学校の生徒が第一”。私が生徒として入ると、仕事に集中できないと思ったのかもしれません。私も弟2人も、父母からはいつも“学校の次”。私は両親から『勉強しろ』と言われた記憶もありません」

 だが、漆さんは決して孤独な子供だったわけではない。小学校の頃は「学校という大きなファミリー」の子供のようだった。日曜も、父の引率するクラブの試合についていって品川中学、高校の「お姉さんたち」に遊んでもらった。公立中学から都立日比谷高校に進んだ漆さんは、卒業生ではなくても品川中学、高校が「我が家」も同然だったのだ。

 「学校経営とは儲かる仕事ではありません。生徒を社会に送り出すために身を削るぐらいの気持ちでなくてはやっていけない。家族や家に来る先生たちが、常に生徒一人ひとりのこと、学校のことを熱心に話しているのを見て、子供の頃からそう思っていました」

 「品川ファミリー」と漆さんは言うが、どの先生も「骨をうずめる覚悟」で、全力で教育に当たっている。そんな気風があったのだ。そんな周囲の先生たちの背中を見て育った漆さんにとって、教師になるのは自然な道。

 漆さんが教師になる決意をしたのは、早くも保育園の頃だという。4歳の時、昼食時に肉が嫌いだった漆さんは、肉を床に落として、先生に怒られた。その次は、知恵がついて、落とした肉を見つからないように足で遠ざけた。すると、今度は隣の子供が肉を落としたといって、怒られてしまった。

 後で事情が分かった先生が「人のせいにするなんて」と漆さんを叱ったのだが、「当時の私は、隣の子のせいにするつもりで肉を押しやったのではなかったのです」と漆さん。「この一件があった時、もし私が先生になったら、子供からちゃんと理由を聞いてから怒る先生になろう、と思ったのです」

 早稲田大学の専攻科を修了後3年間、都内の私立一貫校に中高の国語教師として勤める。最初から品川中学に就職しなかったのは、「経営者一族ではなく純粋な教師」として働きたかったからだ。勤め先は進学校で、ちょうど反抗期にさしかかる中3の生徒の授業担当になった。

 若い新任教師というのは、生徒から手痛いいじめの洗礼を受けることが多い。ちょっとでも言い間違えると、「先生、こんなことも知らないの?」と嘲笑が起こることもある。新米教師が進学校の反抗期の生徒を受け持ったのだから、さぞや大変だったに違いない。

  しかし、漆さんは筋金入りの教育者一家の血筋。しかも、学生時代は体育会系のバスケット部で、上下関係の厳しい環境で鍛えられている。黙ってやられているわけがない。

  着任した最初の日、自己紹介の代わりに「授業中の“内職”禁止」「おしゃべり禁止」などのルールを黒板に書いた。1クラス全員に向かい合うと、数では生徒が強い。おしゃべりをする生徒がいると、教壇から注意するのではなく、その生徒のところに行って目を見て「どうしてしゃべっているの?」と1対1で話した。

  「自分が間違えた時は、さっぱりとすぐに謝る。その一方で、生徒に迎合しない厳しい教員だったと思います」と漆さん。「厳しく叱っても、本当に生徒のことを思っていると、それが生徒には伝わります。ちゃんと向かい合えば、反抗期の子でも心を開いてくれる。今思うと、落ち着いた教育環境の学校だったことに助けられた面も大きかったです」。

  扱いにくい、何を考えているかわからないと評される最近の子供たちだが、生徒はむしろ純粋で驚くほど素直だ、と漆さんは言う。人を見抜く目も持っている。

 着任して3カ月くらいで生徒との信頼関係もでき、本当に充実した3年間を過ごした。…しかし同じ業界である、実家の学校、品川中学の様子は自然に耳に入ってくる。「私がいずれ学校を継ぐ身だと思っている先生がたも多く、心配して情報をくれる人もいました。ある時都議会の資料らしきものを見せられ、実家の経営する学校が廃校危険度ランクの上位に入っていることを知ったんです」

 品川中学、高校は当時、まだ中高一貫を打ち出していなかった。中高一貫教育ブームに乗り遅れていたので、中学募集が弱く、高校は7~8クラスでも中学の生徒が5人という年もあった。女性の大学進学が一般化する中、進学する生徒は1ケタで9割が就職。外部から見た時学校の人気の基準となる、偏差値や大学進学率も低い。学校は生徒募集に奔走し、決して楽ではない状態なのは知っていたが、ここまで経営が悪化していたとは…。

 初めて知る、家業の危機。さらに経理担当として手腕を発揮していた母がガンであるという宣告を受ける。

 自分にとって、最初に勤めた中学校の生徒たちはかわいい。「このままずっとこの学校の一教師として生徒と向かい合えたら、幸せだろうなあ」…そんな思いがよぎったこともある。

 だが漆さんは大好きな生徒たちに別れを告げ、家に戻る決意をする。学校を辞める決意を表明したときは、漆さんも生徒たちも泣いた。

 「でも、自分だけが幸せになってもきっと後悔する。多くの人の思いを受け継いできた品川中学、高校を、ここでなくしてしまうわけにはいかない」

 1989年、漆さんは品川中学、高校に教師として着任することになり、学校改革を決意する。

 産業再生の専門家によれば、企業再生はまず「強み」と「弱み」を精査することから始まる。漆さんは品川中学、高校の強みを「熱心で、危機感をきちんと共有できている先生たち」と言う。品川ファミリーと呼ばれるほどの、先生たちの一体感や学校や生徒への思いは、伝統ある私立校ならではの強みだ。

仲良し同士で

 1974年頃、校内で規律が乱れるという危機があった。しかし、教師たちがクラブ活動や行事を強化して規律を取り戻したという「改革」があった。しかしその成功体験が、同時に弱みにもなっていることに、外部にいた漆さんは気づいた。生徒によかれと思って、先生が先回りして指導してしまう。学園祭もクラブも、先生が細かくお膳立てして仕切っていた。

 「一番の問題は、生徒を思いやるあまり、生徒の立場に立つ視点が欠けていたことです。面倒見がよい学校として、何でも細かく先生が指導してしまうと、生徒の自主性が育たない面もあるのではないでしょうか」

 どうしたら、生徒がもっと生き生きとしてくるのだろうか? 本当に生徒のためになることは、何なのだろう? 漆さんは必死に考えた。3年目の若い教師ではあったが、「漆家」の名を持つ漆さんに、生徒や先生、多くの人たちが期待を込めていろいろな訴えを持ってきた。


構内のカフェテリア

 「ヒアリングしなくても、シャワーのように様々な情報が入ってきました」と漆さんは言う。「それまで、この学校の卒業生の主な就職先は銀行やデパート。この学校が、躾に軸足を置き、3年間で社会人として恥ずかしくない子を育てていることは確かです。でもいまや、女性も大学に進学し、その後社会に出て一生仕事を続ける時代。その時代の変わり目に、学校の方針がついていっていなかったのです」

 漆さんの改革は、まず進学塾まわりから始まった。


校門の前で。右上に見えるのは、与謝野晶子の作詞した品川女子学院の校歌

漆 紫穂子(うるし・しほこ)
1961年東京都生まれ。1925年に荏原女子技芸伝習所(現品川女子学院)を設立した漆雅子さんの曾孫。中央大学文学部卒業、早稲田大学国語国文学専攻科修了後、都内の私立中高一貫校の教師を経て、89年に品川女子学院へ。学校改革に参加し、7年間で中等部入学希望者数が60倍に。2006年4月、父の跡を継ぎ、第6代校長に就任。趣味はトライアスロン。産経新聞の教育コラム「解答乱麻」で執筆中。

日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総研 HR人材開発センター長 大塚葉が担当した記事を再掲。