7月7日~9日まで、北海道で開催された洞爺湖サミット。このサミットのオープニングの乾杯に使われた、「ドメイヌ・タケダ《キュベ・ヨシコ》2003」という日本産のスパークリングワインをご存じだろうか。タケダワイナリーという醸造所のワインを造ったのは、何を隠そう“跡取り娘”だったのだ。

タケダワイナリー代表取締役社長の岸平典子さん(写真:山田 愼二、以下同)

 「料理通信」という雑誌の8月号に、「タケダワイナリーのワイン2種類がサミットの推薦リストに挙がっており、選考の最中」という記事が掲載されていたが、私が取材をした当日は、まさにサミット開幕の7月7日。

 「最初のランチの乾杯にうちのワインが選ばれました。今日までは口外できなかったのですが、やっと解禁です」。タケダワイナリー5代目の跡取り娘、代表取締役社長で栽培醸造責任者の岸平(旧姓武田)典子さんははずんだ声で言う。


洞爺湖サミットで提供された幻のスパークリングワイン、ドメイヌ・タケダ《キュ ベ・ヨシコ》2003と、ドメイヌ・タケダ リースリング ヴァンダンジュ・タルディヴ 2005

 《キュベ・ヨシコ》は本場のシャンパーニュ地方と同じ手法で、手間隙かけて造られているスパークリングワインとして有名だが、確かもう、ワイナリーにも在庫がないと言われている「幻のワイン」ではなかっただろうか? 「そうなんです。私が自分用にしまっておいた10本を、サミットに提供させていただきました。名誉なことではありますが、泣く泣く、でした…(笑)」

 《キュベ・ヨシコ》のヨシコとは、岸平さんの母親良子さんの名前。ワインやシャンパンには、特に功績があった人の名前を冠する風習があるという。

 蔵王連峰と向かい合う日当たりのいい南向きの斜面に広がる15ヘクタールのブドウ畑と、隣接するワイナリー…。このタケダワイナリーのすべてを、岸平さんは2005年9月に父、重信さんから受け継いだ。


タケダワイナリーの広大なブドウ畑

 重信さんは有機農法を使った土壌改良、自然農法によるワイン造りの日本での先駆者。大手のメルシャンでも畑は20ヘクタールほどというから、個人経営のワイナリーとしてはかなりの規模である。父親も、共にワイナリーを支えた母良子さんも、今はすっかり娘夫婦にワイナリーを任せて引退している。岸平さんが社長になる時、公務員であった夫の和寛さんも家に入ってくれた。


日本では珍しい「垣根栽培」のブドウ畑(メルロとカベルネ・ソービニョン)

 まず岸平さんに、ブドウ畑に連れて行ってもらった。フランスと同じ「垣根栽培」という手法で、欧州系品種のブドウ、メルロやカベルネ・ソービニョンが植わっている。日本の「ブドウ棚」とは全く違う光景が広がる様子は、まるでフランスの地方にいるかのようだ。花の時期が終わり、木にはよく見ると小さなブドウが…。これが秋になり、熟して、収穫され、ワインとなるのだ。

 毎日東京ドーム3個分の畑を、3時間余りかけて「見回り」することも大事な作業。歩きながら岸平さんは、ブドウの木の幹の下の方に生えた若い葉をむしり取っていく。「この若葉を、“胴吹き”と言います。この葉を伸びるままにしておくと、秋には枝になり、そちらに栄養が行ってしまうので、今のうちに余計な葉を摘まなくてはいけないのです」と言う。1本のブドウの木からは、だいたい15房が取れるようにしています。実を少なくして、味が濃くなるように調整するのです」

 ブドウ畑には、驚くことに様々な花や雑草が生えている。たくさんのヒメジョオンが満開で、2メートルほどのブドウの木の下には、丈の高い雑草が元気いっぱいに生え放題だ。タケダワイナリーは父親の代から、土壌改良に有機農法を取り入れ、できるだけ低農薬で化学肥料を使用しない自然農法栽培で有名だが、雑草をここまで放置していいのだろうか?

 「植生を見て年2回ぐらい刈るだけで、除草剤は使いません。こういった雑草が生えていることで、雑草の好きな虫はそちらに行きます。虫によってブドウの木だけが食い荒らされることがなくなるのです。雑草もそのままにすることで、自然の生態系が保たれるのです」


既にブドウの小さな実が生っている

 刈った雑草も放置しておくと、また土に返り養分となる。雑草の生え方を見て「このあたりはミネラルが足りない」「イネ科の植物が多く生えている土は酸性」など、ブドウの木にとって一番重要な土壌の状態も判断できるのだ。

 ブドウの木には蜘蛛の巣もからみついているし、時々鳥が畑の間から飛び立ったりする。「自然の生態系が保たれる環境が整っていれば、虫も大量発生したりしません。蜘蛛も鳥も虫を食べてくれるから、必要な存在です。そもそも、同じ場所に単一の植物しか生えないなんて、自然の状態としてはおかしいですから」

 こうした作り手の思いは、ワインの味に表れるのだろうか? 洞爺湖サミットの日本ワイン候補の選出は「ブラインド」、つまりワインのメーカー名などを秘した状態で行われたという。選者たちは、まさに今回の「環境サミット」にふさわしい逸品を「舌で」選んだということになる。

 ここまで徹底した自然農法は、その分、自然の脅威にも手間をかけて対処しなくてはいけない。「梅雨が過ぎると、もう秋の収穫まで息つく暇もないんです。土壌のバランスが悪くなって病気が発生しないか、虫が大量発生しないか、天候はどうか、収穫までハラハラドキドキ、神経が磨り減る日々が始まります。収穫してからも、うまく発酵しなかったらどうしようと、毎日ワインのことばかり考えて暮らします」


 ムクドリもブドウの実の大敵だ。ムクドリには、ネットを張ったり、いやがる音を流したりと、人の知恵を駆使して対抗する。「山の向こうが宅地開発されてから、大量の鳥が来るようになりました」。ワイナリーの畑だけを自然に保っても、周りの環境の変化は止められない。

 しかし、ムクドリの賢さにも驚くという。「ブドウの実が十分に熟すまで待って、『よし、今日こそ収穫しよう!』と私が決心した日の、日の出とともに大群がやって来て、あっという間に食べつくしてしまうんですよ」

 収穫の日を決めるのは、ワインの出来に関わる重大事。収穫が間近になると、毎日畑に行っては実を食べ、ほかのスタッフと相談し、天候をにらみ、オーナーが最後の決断をする。決断を間違えると、1日違いで台風が来たりして、大きな損失になることもある。ワイナリーのオーナーが考えに考え抜いた日を、ムクドリはなぜ察することができるのだろうか? 「普段は、虫を食べてくれるいい鳥なのですが…」。憎らしそうにムクドリのことを語りながらも、岸平さんはこの好敵手が嫌いではないらしい。

真夏でも20度の地下セラーには、フランス製のフレンチホワイトオークの樽に一年間 寝かされる赤ワイン50樽が

 自然農法といっても、ここまでこだわっている作り手は日本でも珍しいという。「父のこだわりが、私の代になってさらに進みました。私の代から除草剤を全廃したんです」、有機ワインを造りたいというこだわりの小さなワイナリーはあるが、まず土壌の改良から始めなければいけない。ワイナリーには莫大な初期投資が必要だ。「外から見るよりは、儲からない商売です」と岸平さんが言うように、玉村豊男さん(ヴィラデストガーデンファームアンドワイナリーのオーナー)は「里山ビジネス」にこう書いている。
「自家農園でブドウを栽培し、そのブドウでワインをつくる、という仕事を一から立ち上げるとすれば、最低でも向こう5年間は大赤字を覚悟しなくてはなりません」

 その点、岸平さんのワイナリーは既に5代目である。後継するということがこれほど強みを発揮するビジネスはないだろう。


 タケダワイナリーの歴史は、初代武田猪助さんが明治初期にこの地でブドウ栽培を行ったことに始まる。3代目の武田重三郎さんが1920年に果実酒醸造免許を取得し、ワイン造りを始めた。当時の家業は青果物商で、ワインは余ったブドウを使う片手間のビジネスにすぎなかった。

 その後農園を拡大し、本格的なワイン醸造に着手。岸平さんによれば、彼はかなりの「ハイカラさん」だったという。当時の従業員は30人。その頃植えたマスカットベリーA(日本の土壌に合うように新潟県の川上善兵衛さんが改良したワイン用のブドウ品種)という木、は現在70年の立派な老木になっている。

 しかし岸平さんの父重信さんがワイナリーを継いだのち、1974年にタケダワイナリーは大火事にみまわれる。8歳の岸平さんは昼日中、目の前の工場からメラメラと炎が上がるのをはっきりと覚えているという。工場は全焼したが、畑は残った。

 「後は頼む」と父は新しい工場の青写真を残して、あっという間にフランスに旅立ってしまった。このチャンスにフランスの土壌成分を研究し、日本でも欧州系のブドウを育てる研究をするためだ。

 残された母良子さんは、不安がる従業員を集めて頭を下げた。「ワイナリーは続けるので、大丈夫ですよ。でも辞めたい人は退職金を出しますから、申し出てくださいね」。結局約20人の従業員は全員辞めずについてきてくれた。「ありがとう…、ありがとうございます」。涙を流して頭を下げる母を見ながら、「経営者とは、なんて大変なものだ」と子供心に思ったという岸平さん。しかし長じてその苦労を自分が背負うとは、想像もしていなかったのだ。なぜなら岸平さんには4歳年上の兄、伸一さんがいたからだ。

父の代に作ったタケダワイナリーのシンボルマークはキジとブドウ。自然栽培の畑にはキジも来る

 岸平さんは子供の頃から植物好きで、ブドウ畑が遊び場。両親のブドウ作り作業を見ながら、「なんて面白そうな仕事なんだ。私もワインを造りたい」と思っていたという。しかし、兄がいるので自分には跡取りというプレッシャーはない。それに家族全員が楽しそうにワインを造っていた。

 子供の頃から岸平さんは、「ワインはおいしいもの」という刷り込みがあったという。両親が勉強のためといって、まだ若かった岸平さんや兄に高級なワインを飲ませていたのだ。ムートン、ラトゥール、ロマネコンティ…。兄と岸平さんはまさに、味の英才教育を受けていたのである。

 75年にフランスから戻った父は、新しい醸造機械を買い入れて工場を立ち上げ、仕入れた欧州系の品種を日本に根づかせる努力を怠らなかった。近隣の農家とは長いつき合いで、原料のブドウを調達することには困らない。火事の翌年からもう、新しい設備で造ったワインを出荷することができた。収穫してからすぐに出荷するワインと、寝かせて付加価値をつけるワインの2本立てがタケダワイナリーの方針だ。


 さらに父は、土壌改良にも化学肥料を使わない自然農法を理想とした。試行錯誤を重ねて新しい欧州系の品種、シャルドネ、カベルネ・ソービニョンなどがワインとして出荷できるのは、20年後の90年代となる。ワイナリーには投資と時間が必要なのだ。

 最近おいしくなった日本ワインが注目されているのは、やっと自家栽培のブドウでワインを造るメーカーが増えたせいだ。それまでは輸入果実で大手メーカーが大量生産するのが日本ワインの主流。なにしろ、投資が大変なワイン造りには、大手の資本が必要という背景があり、1970年代に自家栽培のワインを手がけたタケダワイナリーは、非常に先進的だったのである。

 そんな環境で育ち、1989年に玉川大学農学部農芸化学科に進んだ岸平さん。4歳年上の兄は先に大学を出てフランスに4年間留学し、跡取りとしての道を着々と歩いていた。

 「私もフランスでワインの勉強がしたい」。しかし父親は、進路に関しては何も言ってくれない。跡取りではない娘の自分は、取り残されたような気持ちがした。しかし兄が相談に乗ってくれ、岸平さんが留学できるように父に話をしてくれた。

 「留学には条件がある。日本に戻ったら家に戻って、兄さんと一緒にまじめに家業に励みなさい」。こうして父親の許可が出て、フランスでの後見人に自ら手紙を書き、実際に会って頭を下げ、やっと夢にまで見たフランス留学が実現する。女性がワインのために留学することは、当時は珍しかった。

 フランス語の語学研修を3カ月受け、ブルゴーニュ地方のワインの技術者を養成する学校に留学。同級生は、地元の歴史ある醸造所の子弟が多い。

 フランスでは、日常の中にワインがある…。その光景は衝撃的だった。有名なシャトーでなくても、みな祖父の代から受け継いだ自分の畑のワイン造りに誇りを持っている。シャトーのお金持ちではなく、普通のおじいさんたちが畑に出て造るワイン。シャトーの多いボルドー地方と違い、ブルゴーニュ地方には「自分で栽培したブドウで、自分たちなりのワインを造って売る」という人たちがつむぐ歴史があった。彼らを「ヴィニュロン」と呼ぶ。

 「私もこんな生活がしたい。その土地だからこそ造れるワインを造りたい」…。ブドウ畑の中で育った岸平さんなりの、理想のワイン造りの方向は定まった。さらに当時盛んになり始めた「ビオロジック(有機)」や「ビオディナミ農法」(注1)でワインを造る人たちにも惹かれた。

 もともと岸平さんの父は、子供たちに有機栽培の玄米しか食べさせなかったという、こだわりの人。学校で添加物が入った給食が出てきた時は、「からだが受け付けなかった」という岸平さんにとって、「自然農法」との出合いは必然だった。

 フランスにいた4年間は、まさにワインだけと向かい合う生活。「だから、日本から友だちが遊びに来て、『パリを案内して』と言われても、どこに行ったらいいのか分からない。実は、初めてシャンゼリゼ通りを歩いたのは、留学から帰って2年後の新婚旅行の時なのです」と笑う。

 1994年、日本に帰るとすぐにタケダワイナリーで家族とともにワインに関わる生活が始まる。1996年にはお見合いで、役所に勤める岸平和寛さんと結婚。理系の工学修士で物静かな和寛さんとは、最初から波長が合った。「父の後の経営者は兄。私は畑とワイン造りの現場で一生を終える、“作り手”でいたい」…。

タケダワイナリーのワイン樽

 しかし、ワインの造り方についてはよく父と対立した。技術者として、“自分のワイン”を作れなければ、フランスでの勉強は何のためだったのか?「世界に出て行けるような“タケダノリコ”のワインを造るんだ」。そんな気負いがあって、肩肘を張っていた。そんな時に兄はいつも、岸平さんを諭した。

 「ノリコ、お前なあ、ボルドーのシャトーが何百年続いてるか、知ってっか? みんなが自分のことばかり考えないで、次の世代に繋げようと、石垣を積むような思いを続けてきたから、何百年も続いてきたんだぞ」

 どうしても父と意見が合わず、一時期家を離れたこともある。フランス語の翻訳の勉強をしながらも、心は空しかった。「畑から離れた私は、まるで体の一部分を失ったような気がしました」

 既に岸平さんは立派なヴィニュロン…、畑とともにある、自然の変化を体で感じる、その生活を失った日々は耐え難い。そんな岸平さんを呼び戻してくれたのは、兄だった。「俺の右腕になってくれ。お前には、ここにいてもらいたいんだ」。嬉しかった。またブドウ畑に立てる。生活の一部としてワインに関わることができるのだ。

 しかし家に戻ってすぐに、タケダワイナリーに思いもかけない事件が起こる。跡取りである兄、伸一さんの急死であった。


(注1)ビオディナミ農法:化学合成剤を使わず、天体のリズムも取り入れた栽培法


岸平 典子(きしだいら・のりこ)
1966年山形県生まれ。1989年、玉川大学農学部農芸化学科卒(応用微生物学専攻)。三菱化学総合化学研究所に1年間勤務した後、1990~1994年までワイン研修のため渡仏。国立のワイン技術者学校で研修。1994年、帰国後タケダワイナリーのセラーマスターに。2000年、取締役専務兼栽培・醸造責任者、2005年、国内では女性初の栽培・醸造責任者兼代表取締役社長に就任する。

日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総研 HR人材開発センター長 大塚葉が担当した記事を再掲。