(前編から読む)

 1999年、岸平典子さんの兄であり、タケダワイナリー5代目社長になるはずだった伸一さんが、事故で突然亡くなった。かけがえのない人の死は家族に打撃を与え、「一生ワインの造り手でいたい」という岸平さんの運命を大きく変えることになる。

タケダワイナリー代表取締役社長の岸平典子さん(写真:山田 愼二)

 今までは何でも兄と相談し、「兄の考えを具現化するのが私」というのが岸平さんのワイナリーでの立ち位置だった。ブドウ畑とワイン造りの現場が好きで、学者肌でワインのための研究室にこもりがちな岸平さんも、営業や経営と向き合わざるを得なくなった。

 さらに大変だったのは、今まで兄が“緩衝材”になってくれていた「父との対立」だった。

 「何をしてるんだ!」。ある日、近隣の農家から仕入れたブドウを選別していた岸平さんに父の怒号が響いた。タケダワイナリーは自家栽培のブドウを使った「ドメイヌ・タケダ」と、山形県の近隣の農家から買い入れるブドウで造るワインの「タケダワイナリーシリーズ」の2ブランドを持っている。

 仕入れたブドウの劣化した実を岸平さんがはじいていた時、父の怒りが降ってきたのだ。「代々一緒にやってきた農家が作ってくれたブドウを捨てるとは、何ごとだ!」。それでも選別をやめない岸平さんに、父は彼女が捨てたブドウを頭からかけた。「帰れ! 明日から来んでいい!」、スタッフ全員の前で言われた。

 しかし岸平さんは次の日も朝一番で来て、一人黙々とブドウの選別を続けた。原料から選別しないとブドウの個性が出せない、という信念だったのだ。


畑に出る時の岸平さんのスタイル。仏エーグル製ブーツと、腰には愛用の剪定ハサミ(写真:山田 愼二)

 今は醸造所に入る前に、白い作業用長靴に履き替え、消毒液の水槽に足をひたすように習慣づけているが、これも岸平さんが始めたことだ。衛生管理の徹底、農家を回って「こういうブドウを作ってほしい」とお願いすること。…父から見ればすべて「自分に対する反抗」と思えたのだろう。古くからの従業員が岸平さんの新しいやり方について来られないという面もあった。

 しかし実際には、岸平さんが実を選別して造った「蔵王スターワイン」は出来がよかった。「私の選果したタンクだけ、よくできていたんです」と岸平さん。ついに4年後、父親は根負けしてワイン造りに口を挟まなくなった。

 畑の方も、ブドウの木の剪定、管理の仕方、特に岸平さんが進める「除草剤の全廃」や「農薬をどれくらい減らせるか」という課題に対しては、相変わらず父と対立した。「私は女なので、“根回し”ができない。男の世界が分からないんです。言うべきことははっきりと口に出し、すぐに行動する。だから真っ向から父とぶつかってしまう…」

 兄の死後、父と対立して悩んだ時にはいつも兄のことを思い出した。兄も、父とぶつかることはあった。男同士だとプライドとプライドのぶつかり合いだけに、難しい。はっきりと言い合えない分、「お兄ちゃんは、もっと苦労したんだろうなあ」と思う。真っ向から父とやり合える分、自分は幸せなのかもしれない。

約70年前、マスカットベリーAの収穫の時の記念写真

 しかし母は岸平さんに協力してくれた。「俺の背中を見て覚えろ」と、何も言ってくれない父とは違い、世代交代の時期とばかり、岸平さんに経理のすべてを教えてくれた。

 そして2004年、父は現場のことに全く口出しをしなくなった。岸平さんの粘り勝ちである。「好きにしろ」と娘の実力を認めてくれたのだろうか?

 しかし社長はあくまで父。農家の人も取引先も、経営面で何かあれば父に話を持ってくる。実際に会社を仕切っている自分としては、やりにくいことこのうえない。もし「私が男だったら、“跡取りの専務さん”のままでもよかったかもしれない」と思いながらも、岸平さんはなんと、父に退陣要求を突きつけたのだ。

 「このままではやりづらい。社長を辞めてください」

 プライドからでも、名誉心からでもなかった。跡取り娘はただ、「仕事がスムーズにいくために必要なこと」を、あっさり父に要求したのだ。根回しも何もなく、実質的な効率だけを重んじる。女性のビジネスパーソンにはよくある、ストレートさだ。

 母は娘の味方になった。結局父は「やめてやる!」と会長の座に退き、すっぱり引退した。その時から一切ワイナリーの仕事には関わらないようになり、今は趣味の野菜作りのため、自分の小さな畑の世話をしている。

 父は以前から「船頭は1人でいい」と言っていた。そして、本当にそれを実践してくれたのだ。…後になって岸平さんは父の潔さに気がついた。

 こうしてタケダワイナリー5代目社長になった岸平さんが受け継いだのは、15ヘクタールの畑に実る先祖代々のブドウの木、ヨーロッパ品種のカベルネ・ソービニョン、メルロ、シャルドネ、リースリングと、祖父の代からの国産品種ブラッククイーンとマスカットベリーA、醸造所、そして出荷される日を待つヴィンテージワイン。

 最初に案内された巨大なセラーには、フレンチホワイトオークの樽に眠る赤ワインが50樽、ラベルが張られていない出荷待ちのボトルなどが積み上げられている。もう1つの古いセラーには、ほの暗い電灯の光の中にもっと古いヴィンテージワインが見える。「1920年創業ですが、一度大火に遭っているので一番古いワインは1990年ものです」

古いワインを置いてあるセラー。1990年ものもある(写真:山田 愼二)

 火事の後のガレキから、焼けたワインの瓶がたくさん出てきた。火が入ってダメになったから、と手伝いに来た近隣の人に全部あげてしまったが、今でも「あのボトル、まだ持っていますよ」と言う人もいる。「気前よくあげてしまったのは、惜しかったかもしれません」と岸平さんは笑う。

 グッドヴィンテージ、つまり出来のいい年のワインは寝かせる。昔は国産の高額ワインの需要があまりなかったので、悠長に寝かせておくことができた。父が見て「飲み頃だな」と判断して売るだけの余裕があったのだが、今は市場のニーズが増え、「最低3年は寝かせたい」と思っても、すぐに出荷せざるを得ない。食の安全が問われる今、国産ワインは人気なのだ。

 岸平さんの戦略は「輸入物の安いワインと、人件費のかかる国産ワインとでは競合できない。そこでタケダワイナリーでは、フラッグシップの高価格帯のワインと、1000円台後半のワインを強化していきたい」。

 フラッグシップとは、自家農園収穫ブドウのみを使ったドメイヌ・タケダのワイン、洞爺湖サミットでも提供されたドメイヌ・タケダ《キュベ・ヨシコ》などで、価格も1万円以上。フラッグシップのイメージを高めることで、「同じワイナリーだから、1000円台のワインもモノがいい」と、ほかのシリーズの売り上げにも貢献する仕組みだ。タケダワイナリーのスタンダード商品である「蔵王スターワイン」は、飲みやすいと評判の値頃感のあるワインである。

スタンダード商品である「蔵王スターワイン」の樽(写真:山田 愼二)

 現在はドメイヌシリーズが3割、タケダワイナリースタンダードシリーズが7割だが、ドメイヌシリーズの比率が増している。「自然農法栽培、ビオディナミ、高級」というフラッグシップのイメージを崩さないために、量販店に流れないように管理をすることも怠らない。

 そんな岸平さんには心強い応援団がついている。東京麻布の二期倶楽部や帝国ホテルのワインリストにも、タケダワイナリーのワインは載っている。

 かつて「日本一のフランス料理店が山形にある」と開高健、丸谷才一らをうならせた「ル・ポットフー」の佐藤久一(1997年没)は、「庄内浜の魚、山形の肉と一緒に味わうワインは山形産がベスト」とタケダワイナリーのワインを愛した。

 同じように、地場イタリアンを掲げる若きシェフ奥田政行の「予約の取れない地方レストラン」として有名な「アル・ケッチァーノ」。地場の材料で「ここだけの一皿」を目指すこの店のワインリストには、タケダワイナリーのワインがずらりと並ぶ。先日会ったワイン通の若い経営者は、大変な秘密を打ち明けるように「ウチのセラーにはキュベ・ヨシコの93年から、ずらりと揃っているんですよ」と自慢げに教えてくれた。


 フラッグシップのワインの付加価値は、顔の見える生産者の手で丁寧に作られたことだ。例えばスパークリングワインのドメイヌ・タケダ《キュベ・ヨシコ》。

 《キュベ・ヨシコ》を造るためだけに、常時10度に温度設定された部屋を見せてもらった。国産ではさきがけの、本場シャンパーニュ地方の方式で造られたスパークリングワイン。普通の発泡ワインは白ワインに炭酸ガスを充填した簡単な方法で造られるが、《キュベ・ヨシコ》は専用の白ワインにシャンパン用酵母と糖分を加え、瓶詰めにして「瓶内2次発酵」させる。瓶にはビールのような王冠をかぶせ、10度の部屋で3年間発酵させると、発酵して行き場のなくなった炭酸がガスがゆっくりゆっくりワインに溶け込んでいくのだ。それが「細かく美しく、3日たっても消えない泡」の秘密だ。

《キュベ・ヨシコ》を造る装置。父がフランスから仕入れた(写真:山田 愼二)

 3年後にたまった澱を取り除き、コルクで栓をして出来上がるが、その澱の除き方が面白い。フランスで父が仕入れてきた専用の穴の空いた厚板に瓶を逆さにして斜めに立てる。1日1回90度回転させ、そのたびに角度も変わる仕組みだ。1カ月後、瓶は垂直に立ち、ボトルの口の部分には澱がたまっている。1年で最も寒い時期に、ついに澱引きの作業となる。澱がたまった瓶の口の部分を自家製の不凍液につけて、マイナス25度で凍結させ、一瞬で澱ごとキャップを飛ばすのだ。

 「6気圧になっているので、一瞬でポンッと飛びます」。目減りした分は、甘いリキュールなどを香りつけに足す(ドサージュ)場合が多いのだが、《キュベ・ヨシコ》はあくまでシャルドネの味わいを大切にするため、同じ製品を足している。

 こうして手作業で3年間かけ、グッドヴィンテージの年にだけ造られるのが《キュベ・ヨシコ》となるのだ。試飲すると、よくある甘いシャンパンとは違う、キリリとした味わい。何よりもグラスの底から、黄金の細かな気泡が次から次へと立ち上るさまが美しい。飲んでしまいたいが、そのグラスの中の光景をいつまでも見ていたい気持ちにもさせるデリケートなワインだ。

 梅雨が明けると、岸平さんにとって大変な季節がやってくる。畑に関わるスタッフ8人で無事にブドウの実を収穫する日まで、神経をすり減らす日々の始まりだ。普通は10アールのブドウ畑から2トンを収穫するそうだが、タケダワイナリーでは1トンは採らない。1本の木から採る実が少ないほど、凝縮され味が濃いブドウになるからだ。

 「五感のすべてを使うのがワイン造りです。仕込みが始まると日に7回ぐらいはタンクを上からのぞいて、匂いを嗅ぎ、様子を見て、チェック。冷やしたり、暖めたり、発酵の具合をコントロールします」

 小さな失敗はよくあるが、取り返しのつかない失敗はしない。タンク1本失敗すると、ワインボトル1万2000本分の利益がふいになる。経営者である自分に、そうした失敗は許されない。収穫は白ワイン用のものから始まり、その仕込みが終わると赤ワインになる。その境目の1日だけは収穫祭として、知り合いを呼んで今年の豊穣を祝うのだ。

 「柔らかくてバランスのいいワインができるようになった」「優しい味になった」と最近人に言われるようになった。父や兄がいる頃は、「インパクトのあるワインで世界に名を知られたい」と肩肘を張っていた。今は自分の畑の個性が最大限に出せる、山形の地で造るから意味のあるワインという姿勢が、自然体で味に現れるようになったのかもしれない。

 「昔は私のワインにケチをつけていた父が、おいしいと飲んでくれるようになったのが、何よりも嬉しいです」。しかし岸平さんにとって本当に怖いのは母、良子さんの評価だ。素封家育ちで舌が肥え、味にうるさい母に、ブレンドに迷った時は相談することもある。ワイナリーに嫁いで、財務を担当し、PRや見学コースを作るなど近代化を進めたのが母の良子さん。そんな妻の名を《キュベ・ヨシコ》と発泡ワインに冠したのは、父重信さんである。

醸造用タンク。これは白ワインを入れるもの(写真:山田 愼二)

 そして今岸平さんを支えてくれるのは、2006年4月から会社に入ってくれた夫の和寛さんの存在だ。工学修士で市役所勤めの夫に「うちに入ってほしい」と頼み込んだ。「同じ技術者同士なので、通じるものがあるんです。バランス感覚がいい。私は経営者ですが、根っからの技術者なので、ワインに夢中で周りが見えなくなってしまうこともある。そんな私にとって、スタッフにも人望があり、緩衝材になってくれるのが夫です」

 仕込み中は現場を離れられない岸平さんの代わりの営業から輸入機械の整備まで、幅広くフォローしてくれる。「もっと、もっと自然なワイン造りをしたいという気持ちが、昔より強くなっています」

 大胆な挑戦をしたい自分もいるが、いつも引き止めてくれるのは兄の言葉だ。「守りながら攻める」。それが今の自分にふさわしい立ち位置だと、岸平さんは知っている。サミットのワインに選ばれたことは嬉しい。しかし人を驚かせるとか、海外で広く名前を売るつもりはない。あくまで、山形の土地の個性を生かすために最大の努力をしたい。


 今後の展望を尋ねると意外な答えが返ってきた。「実は、経営面ではもう少し縮小してもいいと思っています」。岸平さんにとって、「広げてナンボ」の経営の時代はもう終わったと思っている。

 一昨年シャンパーニュ地方を訪ねた時、ワイナリーのオーナーが「新調した機械」と見せてくれたのは、祖父の代に買い入れたものだったという。「こういう経営なら、続けられる」と思った。

 「量より質。付加価値や物語があること、真面目にコツコツと地味にやってきたことが、武器になる時代です。これからは各商品のクオリティーを高めることを重視したい」

 岸平さんの父は、フランスのワインに負けないワインを造ることに情熱を燃やした。ボルドーやブルゴーニュの土壌を分析し、20年かけて自家農園をフランスの名産地の土壌と同じ成分に変え、畑を広げてきた。

 「男の人は、拡大していきたいのが本能かもしれない。でも私は女だからそうじゃない、と言い切れる。私がなりたいのは銀座の和菓子屋、『空也』なんです。銀座の一等地でもあのような経営が成り立つんだと励まされました」

 甘いものが好きではない岸平さんが唯一食べられるのが、「空也」のもなかだという。明治17年に創業し、現在も銀座並木通りの一角でこぢんまりと営業している和菓子屋だ。配送やデパートへの出店は一切なく、毎日決まった量の餡子を作り、売り切れ御免。予約しない限りはほとんど手に入らない東京銘菓として、全国に知られている。頑固に同じものを作り続け、拡大もしないが縮小もしない。まさに持続する日本の100年企業、ブランド経営のお手本である。

タケダワイナリーのスタッフたちと。岸平さんの左横が夫の和寛さん(写真:山田 愼二)

 「幸い夫も賛成してくれています。夫が入ったのに会社が縮小したと言われては申し訳ないと思いましたが、夫も理系でロジカルに物事を考える人。やはり拡大主義には疑問を持っていました」

 「日経ビジネス オンラインの記事なのに、拡大主義に疑問だなんて言ってはそぐわないかもしれませんね」と岸平さんは微笑む。それどころか、私はこういうことを言ってくれる跡取り娘に会うのではないかと願っていたのだ。まさにこうではないか、と考えていた「老舗経営」のひとつの手法が、彼女の口から出たことに感動すら覚えた。

 「バカみたいに儲からなくてもいい。スタッフにお給料が払えて、おいしいワインをお客様に飲んでもらえればいい。昼夜なく働く時期もありますが、ヒマな時は5時半に仕事が終わる。そんな時は早く家に帰って、フランスで覚えた煮込み料理をして本を読みます。必要以上に環境も壊さない。これでいいんじゃないか、と思います」

 この跡取り娘の章を結ぶのに、タケダワイナリーのウェブサイトに載っていた、岸平さんの今は亡き兄、伸一さんの言葉を引かせていただきたい。

 「だまっていても葡萄は毎年毎年実る、ワイナリーは繋げて行くことが大切なのだ、我々は歴史の礎にすぎない」


岸平 典子(きしだいら・のりこ)
1966年山形県生まれ。1989年、玉川大学農学部農芸化学科卒(応用微生物学専攻)。三菱化学総合化学研究所に1年間勤務した後、1990~1994年までワイン研修のため渡仏。国立のワイン技術者学校で研修。1994年、帰国後タケダワイナリーのセラーマスターに。2000年、取締役専務兼栽培・醸造責任者、2005年、国内では女性初の栽培・醸造責任者兼代表取締役社長に就任する。

※参考文献:『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか』(岡田芳郎、講談社)

日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総研 HR人材開発センター長 大塚葉が担当した記事を再掲。