10月22日、さいたま市北区の会場で、講演会「地元さいたまで活躍する女性企業人」が開催された。この日パネルディスカッションに登壇したのは、日本電鍍工業社長の伊藤麻美さんと、盆栽家の山田香織さん。コーディネーターは連載筆者の白河桃子さんが務めた。このパネルの様子を、2回に分けて紹介する。

白河 コーディネーターの白河桃子です。よろしくお願いします。今日は、「未来のさいたまを女性パワーで元気なまちに!」というテーマで、日本電鍍工業代表取締役の伊藤麻美さんと、清香園で「彩花」教室を主宰する山田香織さんにお話しいただきます。まず、お2人が家業を継いだ時期とその時の年齢を教えてください。

伊藤 私は今から8年前で、31歳の時です。

山田 私は22歳で、9年前です。

白河 お2人とも若手ながら10年目の経営者ですが、子供の頃から「跡取り娘」として家業を継ぐという覚悟はあったのでしょうか。伊藤さんはいかがですか。

伊藤麻美(いとう まみ)日本電鍍工業代表取締役。1967年東京生まれ。上智大学外国語学部比較文化学科卒業。FMラジオ、テレビなどのフリーランスDJとして活躍した後、98年に米国カリフォルニア州、宝石の学校GIA(Gemological Institute of America)にて宝石の鑑定士・鑑別士の資格を取得。帰国後、2000年3月、日本電鍍工業の代表取締役に就任(写真:山田 慎二)。

伊藤 私の場合、最初は家業を継ぐ予定はまったくなく、父も私を跡取りとしては育てませんでした。私は、大学卒業後ラジオの世界に飛び込み、ディスクジョッキーをしていました。好きだったR&Bやヒップホップなどの音楽を日本で紹介しながら、様々なアーティストにインタビューしたいと思ったのです。当時は非常に恵まれた環境で、父の大きな傘の下で育ったので、経営者の役割など考えずに育ちました。ディスクジョッキーを辞めた後は米国に留学して宝石の鑑定と鑑別士の資格を取り、あるパーティーで会った当時のカルティエ社長から誘いを受け、ほぼカルティエ就職が決まっていました。

白河 伊藤さんは「跡取り」としてのプレッシャーを感じずに育ったわけですが、盆栽家に一人娘として生まれた山田さんは、生まれた時から家業を身近に感じて育ったのではないでしょうか。

山田 はい。私は伊藤さんとは逆で、子供の頃から祖母も含め両親が、それとなく家業のことを私に伝えていました。本当に「刷り込まれていた」と思います。私が小学校へ上がる頃、父の日に描いた絵の横に「私が頑張って5代目を継ぎます」と書いたりしていました。

白河 ご両親の教育が、子供にも浸透していたのですね。


山田香織(やまだ かおり)1978年生まれ、盆栽家。「彩花」盆栽教室主宰。清香園4代目園主、山田登美男の一人娘として生まれる。立教大学経済学部卒業。盆栽の魅力を伝えるべ、雑誌、講習会、講演会などで精力的に活動している。2008年4月より、NHK教育テレビ「趣味の園芸」の司会を務める。主な著書に『山田香織の盆栽スタイル』(日本放送出版協会)、『モダン盆栽』(講談社)など(写真:花井 智子)。

山田 でも思春期の頃から、家業がものすごく嫌いになったのです。盆栽というのが古臭いイメージがして、高校でも恥ずかしくて家業のことを友人に話せませんでした。「何でこんな家に、しかも一人娘として生まれたんだろう」というコンプレックスに近い思いが、大学1年生ぐらいまで続きました。

白河 でもその考えが変わって、跡取りの道に入られるわけですが、家業を見つめなおすきっかけは何だったのでしょうか。

山田 18歳の時に、父が海外旅行に連れていってくれたのです。かなり奮発して、飛行機はファーストクラス、フランスの有名なホテルに泊まるという長期間の旅行を経験させてくれました。この時に、フランスの一流の文化に触れたのですが、感性的にとてもギャップを感じたんですよ。私が育った盆栽園の、和の文化の感性――いわば「引き算の美学」「余韻の美学」――とは正反対の世界だ、と思ったのです。その時初めて、自分の生まれた環境を客観的にとらえ、盆栽を「古臭い」と考えるだけではなく、日本文化の1つとして見られるようになりました。

白河 山田さんのように、海外に出てから自分の家業を見直した跡取り娘さんは多いですね。醤油屋の「かめびし」の岡田佳苗さんも最初は家業が大嫌いでしたが、海外に留学している時、友人に「このおいしい料理で使っている調味料は何?」と言われ、初めて家業を見直したそうです。会場の皆さんの中で、息子さんや娘さんがなかなか跡を継いでくれない場合は、1回海外留学を進めてみるといいかもしれません。


家業を継ぐと決意した瞬間

白河 では、お2人が実際に家業を継ぐ決意をしたきっかけをお聞きしましょう。伊藤さんは、米国でカルティエ入社がほとんど決まっていたのに、突然実家から呼び戻されたのですよね。

伊藤 はい。1999年夏、31歳の時に日本から「会社が非常に危険な状態だ」と連絡が入りました。父はその10年前に亡くなっており、別の人が会社を継いでいました。ただ、私が呼び戻されたのは継ぐためではありませんでした。当時住んでいた家は父が買ったものでしたが会社名義で、金融機関の担保に入っていたのです。会社がなくなり家も売らなければならないから、引っ越す準備のために戻ってこいということだったのです。

白河 日本に帰ってみると、会社は大変なことになっていた…。

伊藤 帰国した翌日から弁護士、税理士から会社の状況を聞いて、どれだけ経営が悪化しているのか分かったのです。よく、モノづくりに関わるお宅は家と工場が隣接していて、小さい頃から工場の敷地内で遊んでいたという話を耳にします。でも私は東京で生まれ育ったので、幼い頃に工場に足を運んだのは1~2回でした。メッキ工場でどういう人がどんな風に働いているかは、帰国して現場を見て初めて知ったのです。工場や、社員の姿を見るようになって初めて、会社と自分との距離の近さを感じ始めました。

白河 お父様の会社で働く従業員の方を見て、「会社とは生きているものだ」と初めて思われたのですね。

伊藤 そうなのです。会社に行くたびに、「自分がどうやってここまで大きくなれたか、学校に通ってちゃんと食事もさせてもらえたのか」という原点に戻ることができました。この会社があり、たくさんの社員が一生懸命働いてくれているからこそ今の自分があるのだと、明確に見えてきたんです。すると、会社への愛情がわいてきて、「これをなくしてはいけない」と思うようになりました。当時は知識がなかったのですが、閉鎖か倒産か分からないけれど、とにかくそれは避けなければいけない、この会社を継続したい、と思いました。

白河 その時、家を継ごうと思ったのですか。

伊藤 いえ、最初は自分にできるとは考えてもいませんでした。優秀な経営者が、どこかから王子様のように現れて会社を救ってくれないかと、いろいろな方にお願いをしました。でもメッキ業という不況業種でしかも借金をたくさん抱えている会社ですから、そんな物好きはいません。結局誰も手を挙げてくれない。

 なぜ誰も手伝ってくれないのか。弁護士さんに聞くと、個人保証の問題だと言う。会社が倒産すると、借金取りに追われる身になる。返せなかったら自己破産しかない…。でもそれを聞いた時、「自己破産してすべてを失っても、命は残るかな」と怖いもの知らずの考えが浮かびました。人生一度しかないなら、チャレンジしてみよう。やってみて失敗しても、「チャレンジしてよかった」と、そして将来おばあちゃんになって死ぬ時に「いい人生だったな」と言って死ねるだろう、と思った。そこで、会社を継ぐことを決意しました。

白河 伊藤さんのお父様はいろいろな企業を創業されたので、背負うものも非常に大きかったでしょう。31歳で米国から帰国し、経営経験のない伊藤さんが、重たい責任を引き受けたことに、私は驚くとともに感動しました。「失敗しても命まで取られるわけじゃない」という前向きさは、跡取り娘の方たちに学ぶところだと思います。

伊藤 でも当時、専門家の方たちは数字を見て「やめておけ」「無謀だ」と口々に言いました。誰の答えを信じていいのか、自分でも分からないのです。何しろ、決算書を見るのも初めてです。経営というのは、「やりたい」と思ったからできるというものではない。そこで、何人かの信頼できる経営者に相談しました。多くの人に反対されましたが、ある人(友人の父)だけが、「麻美ならできるよ。やってこい。3年地獄を見てこい」と言ってくれたんです。それを聞いて「3年地獄なら、4年目からは天国かな」と思って、やってみようと思いました。

白河 そういうところも ポジティブでいいですよね。山田さん、どうでしょう。経営者というのは、ポジティブさが必要でしょうか。

山田 私が今感じているのは、「鈍感力」という言葉もありますが、そういうものが経営者には必要なのではないかということです。全部まじめに真正面から考えてしまうと、自分の精神力はそれほど強くないので、なかなか難しいです。いろいろなものをいい方に解釈するというバイタリティーのようなものがないと、経営というのは10年、20年…とは続かない、と感じています。

白河 企業というのは1回引き受けたら責任があります。山田さんの場合、盆栽という商品自体が100年、200年といった単位で生きている。それをずっと継いで守っていかなければならないわけですよね。伊藤さんも山田さんも、引き返せないところにおられる。でもその大変さを、ポジティブさに変えていく力のようなものがあると思うのです。さて山田さんの話に移りますが、家業が嫌いだったのに、跡取りになると決意したきっかけは何だったのでしょう。

山田 大学時代マーケティングを専攻していた時、ゼミの先生がおっしゃったのです。「山田のように自分の家業をポジティブに考えられない先輩がいたぞ」と。それは葬儀屋さんで、恥ずかしくて友人には言えなかったとか。でもその先輩も家業を継がれたそうです。先生は、「山田にとって家業の存在は、1つの選択肢なんだよ」とおっしゃいました。「1度しっかり自分の家業がどんな業界で、どういう位置に置かれているのかを分析してみなさい。活路は必ずある」。それはその通りだと思い、大学在学中かなり真剣に考えました。

 最終的には就職活動をして、ある会社の内定をいただいたのが大学4年の4月でした。でもその頃は就職氷河期で、ほとんどの女子学生は希望職種に就けなかったのです。私も同じで、内定をもらった業種は特に行きたいところではなかった。その時、考えたのです。自分の適さない世界に身を投じて出せる結果と、家業に入った時に自分が与えられるインパクトではどちらが大きいか。するとやはり、家業で自分が何か社会的にも役に立って、自分の家も存続できる方法があるのではないかと思い至り、とうとう大学4年の5月に家業に入る決断をしたのです。

 この時は本当に、悩み抜きました。でもその時私が思ったのは、自分がずっと悩んでいた「盆栽への固定観念」でした。「古臭い、おじいちゃんの趣味」という、盆栽に対するイメージを崩せるような活動がもし自分にできるなら、やってみたい。「若い女の子が盆栽をやっている」ということが、インパクトを与えるのではないかと思ったのです。

白河 その間、お父様は何も言わなかったのですか。

山田 父は、何も言いませんでした。でも内心、家業を継いでほしいと思っていたと思います。最初のうちは「お前、3年ぐらいは社会に出なさい」「すぐに家業に入らずに世間様を見てくるべきだ」とも言っていたのです。たまたま父と一緒に電車に乗っている時、何気なく「やっぱり就職をやめてうちに入るよ」と伝えました。その時父は「ああ、そうか」で終わっちゃったんですが。たぶんうれし過ぎて、照れくさかったのでしょう。

女性であることのマイナスをプラスに

白河 次に、継ぐことを決めてからについてお聞きします。年若い女性の経営者は非常に少ないですし、伊藤さんのようなモノづくり産業では珍しい存在ですから、風当たりも強かったのではないでしょうか。伊藤さんは社長になられた時に社員の前でスピーチをなさったそうですが、社員の反応はどうでしたか。

伊藤 私が代表取締役に就任する話は、一部の社員しか知らなかったと思います。当時、取締役部長(現在は取締役工場長)だった方が、「生産のことは任せてください」と言ってくださったので、心強くはありました。ただ、私自身はメッキのことも分かりませんし、会社経営をしたこともないどころか、会社組織で働いたこともないのです。社員の反応はとても心配でした。場合によっては全員辞めてしまうんじゃないかという心配がありましたね。就任の前日お風呂に入りながら、明日は何をしゃべろうか練習したんですよ。でも経営用語も分からないし、かっこよく決めることもできない…。

 それなら素直に自分の気持ちを伝えようと思いました。会社の業績悪化の要因はいくつかありました。不景気も1つの理由ではありましたが、業績悪化を景気のせいだけにはしたくなかったのです。また、自分がなぜ会社を継ごうと思ったかも、話しました。会社は私より少し年上でしたが、自分にとって姉妹のような存在であること。それを失うことはしたくない、ということ。そして、とても大変な状態ではあるけれど、他界した両親が築き上げたこの会社をずっと継続していきたい、と話したのです。

 当然、経営手腕も何もないので、私1人では無理です。ですから、皆さんぜひお力を貸してくださいと言いました。その時、実は辞めようと思っていた社員が、辞表を取りやめて涙を流し「一緒にやりましょう」と言ってくれました。「あなたのお父さんには世話になったから、お嬢さんに恩返しがしたい。一緒に頑張りましょう」と温かい言葉を掛けてくれた方もいました。それを受けて、「何とか頑張ってみよう」と思ったのです。

白河 社員の方が娘に力を貸してやろうと思ってくれるのは、やはりお父様のお力が大きかったのでしょうね。

伊藤 そうですね。父が元気だった頃はあまり仕事のことを知らなかった。でも後になって、ようやく創業者というのはすごいな、とあらためて父の偉大さを感じました。

白河 そんな伊藤さんを見て、工場の人も皆さんついていこうと言ってくれたわけですよね。ただ、30代で未経験の女性経営者に、世間の目は冷たかったのではないでしょうか。

伊藤 特に金融機関は冷たかったです。今はそんなことはないですが。当時私は30代で未経験、そのうえ業績の悪い会社の経営者ですから、「このたび就任しました」と挨拶に伺うと、「あなたじゃ話にならないから、本物の社長を連れておいでよ」と。ほとんどの金融機関の担当者にこう言われて、ショックというよりも悔しさを感じました。「今に見ていろ、いつかは借りてくださいと言わせてみせる」という気持ちがバネになりました。

白河 今は起業される女性も多いですが、伊藤さんは既にある企業、それも赤字の会社を継ぐという意味では、ご苦労があったと思います。しかしその大変さをプラスのパワーに変えていく、という姿勢に勇気付けられます。一方山田さんは、お父さんもご存命なのでそのような苦労はないかもしれませんが、盆栽という伝統的で古い、しかも男ばかりの世界で、女性としてどうでしたか。

山田さんと伊藤さん

山田 我が家は、3代目である私の祖父には、私の母しか子供がいませんでした。母の時代から、「清香園は女しかいないから、今につぶれるよ」と言われていました。母が婿を取って父が4代目になりましたが、子供は私1人だったので、「もう、あそこは時間の問題だ」と言う人もいました。そういうことが、小さい頃から耳に入ってしまうんです。

 そういううわさ話や業界の体質など、子供の私も何となく感じていて、伊藤さんが銀行で感じたように、悔しさのような感情が自分の中で育っていたのです。だから、ここを継ごうと決めた時には「清香園という看板を失いたくない。私が守って発展させるんだ」という気持ちがあったのは事実です。

白河 跡取り娘さんを取材して思うのは、皆さん芯に強さを秘めていますね。逆境の時に奮起するパワーを持っていると思います。女性というのは、何か守るものがある時にすごい強さを発揮できるのではないかと思いますが、どうでしょうか。

伊藤 私にとって、守りたいのは社員です。皆さん本当によくサポートしてくださったので、彼らの生活をおかしくしたくないという気持ちがとてもあります。社員に私も助けられていますし、私も力になりたいと思います。これが自分のことだけだったら、「まあ、いいか」と思ってしまうかもしれませんが。

白河 山田さんは、守るべきものというと、どうですか。

山田 いろいろありますが、私の場合は会社が扱っている盆栽という商品自体が「生き物」で、命があるというのが大きなところです。単に在庫をして倉庫に入れておけばいいというものではなく、毎日手を掛けないといけないものですから。幼い時から、盆栽は誰かが水をやらないと枯れてしまうんだ、と肌で感じていました。ですから、会社を存続させるということイコール、命を次の世代に渡すという役割を担っている、ということを最近思います。


(次回に続く)

日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総研 HR人材開発センター長 大塚葉が担当した記事を再掲。