(前回から読む)

 伊香保温泉の、4人の跡取り娘が始めた「伊香保おかめ堂本舗」。今回はその1人である、ホテル松本楼の松本由起さんの物語から始めよう。


 「あたしが女将になって旅館を継ぐのよ」
 「あたしよ!」

 ホテル松本楼の3代目、常務取締役の松本由起さんは、小学3年生の時に妹と喧嘩をした。2人ともお母さんの仕事である旅館の女将に憧れ、自分が継ぐのだと言って譲らない。

ホテル松本楼常務取締役の松本由起さん(写真:山田 愼二、以下同)

 仕方がないのでジャンケンをした。妹に勝った松本さんはそれ以来、ずっと自分が旅館の女将として家業を継ぐのだと心に決めていた。女将として働く母親の姿は颯爽としていて、輝いていた。女性がこれほど活躍できる仕事はほかにない。

 「日本一の女将になれますように…」。七夕の短冊には、毎年そう書いた。それほど、女将は松本さんにとって「なりたい職業」だったのだ。

 普通女将というと、旅館にお嫁にきた女性というイメージがあるが、松本さんの母親は「家つき娘」である。

 もともとホテル松本楼は、洋食屋だった。大正時代に東京・日比谷の松本楼で修業した、松本さんの曾祖父母が伊香保に洋食店を開き、当時としてはハイカラなオムライスやハヤシライスを出して、旅館に出前もしていた。長逗留する文筆家に、「松本楼のハヤシライスはおいしい」と愛された洋食店だったのだ。

 1964年に伊香保が温泉地としてクローズアップされ、お客が増えたことを機に16室の小さな旅館に商売替えをした。しかし忙しさがたたったのか、祖母が急死。大学4年生だった松本さんの母が、急遽旅館を切り盛りすることになる。


女将として働くのが、子供の頃からの夢

 母はそのまま女将となり、大学の同級生を婿に迎えた。夫婦はフロントの裏に住み、旅館を盛り立てようと懸命に働いた。松本さん姉妹は、そんな父母の苦労を見ながら育ったのだ。スリッパを揃える、お皿を洗う、お客様と一人前に会話をする…。お手伝いもすべて、ゲーム感覚で楽しい。旅館は松本さんにとって、生活の場だった。

 大学に進学する時も、「旅館の経営を学ばなくては」と、東京の産業能率短期大学経営能率専攻、経営者二世コースを選ぶ。周囲は皆、跡取り娘や跡取り息子ばかり。その後松本さんは、産能大学に編入した。しかし就職活動の時期になると、クラスメートたちは次々に一流企業の内定を取っている。松本さんが就職活動をした1991年は、最後の「売り手市場」の年だったのだ。就職を希望せず、バイト三昧だった松本さんにも迷いが生じる。

 「このまま家に入って、一生この仕事でいいのだろうか? 何か経験した方がいいんじゃないかしら」。そんな彼女に祖父が「お前、ちょっと外の世界を見てきたらどうだ」と助言してくれた。洋食のシェフだった祖父は英国が好きで、よく渡欧していた。しかし松本さんは英語が苦手。どうせ旅館を継ぐのだから、とあまり勉強しなかったのだ。

 英語もできないし、このまま家業に入ることにも迷いがある。すべてが中途半端で自分に自信がない。迷った末、逃げるように英国ロンドンの語学学校に留学する。

 「実は私は、旅館の跡取りなんです。でも、今のままの自分でいいのか自信がなくて…」。つたない英語で担任の教師に訴えた。しかしこれが運命の転機となる。運のいいことに女性教師は、ホテルのマネジャー経験がある女性だった。

 「いい案があるわ。学校に通いながら、あなた、午後だけホテルで働いてみたら?」。やはり松本さんは、女将になるべく生まれついた女性なのかもしれない。ちょうど日本人スタッフを募集していたタワーシッスルホテル(The Tower Thistle Hotel)で、トレイニー(訓練生)として働く話が決まった。

 826室のホテルには、あらゆる国籍のスタッフがいる。日本人は松本さんのほかにもう1人女性がいた。修学旅行の団体の受け入れ、客からのクレーム処理、あらゆる経験をしながら、充実した1年半が過ぎた。

 留学の予定は2年。終わる頃に両親が訪ねてきた。父親はホテル研究にも熱心で、家族でコッツワルドという避暑地のホテルに泊まりに行った。

 「こんな素敵な宿は初めて」。400年の歴史があるサボイグループのホテル、リゴンアームズ(The Lygon Arms)のすべてに魅せられた。マナーハウス(領主館)のような小さなホテル。ジョージ1世が泊まった部屋もあり、現在でも王室から予約が入る。ターンダウンサービス(夕刻に、客室のベッドをしつらえ直すこと)では、チョコとシャンパンが配られる。

 「ここで働きたい、こんな宿を私もやりたい」。心動かされるまま、松本さんはロンドンに戻ってからThe Lygon Arms宛てに就職希望の手紙を送る。熱意が認められたのか、全く日本人の姿を見ない避暑地のホテルに就職することができ、ハウスキーピングからフロントまで半年修業して帰国した。

 「いつかThe Lygon Armsのような宿を自分でやりたい」。そんな夢を抱き、やる気満々で家業の旅館に戻ったが、ここでは大嵐が待っていた。跡取りの誰もが経験する“対立”を松本さんも経験している。

歯に衣着せぬ物言いが、周囲との距離を広げた

 「私がいたホテルでは…」。何かと英国での経験を引き合いに出す跡取り娘に、従業員皆が反発した。松本楼は1991年にビルに建て替えて54室の旅館になり、100人以上のスタッフを雇っている。納得できないことははっきりと主張し、根回しもせず会議でも唐突に大胆な提案をする英国帰りの25歳は、全従業員を敵に回してしまったのだ。

 「若女将が…」。悪口を言われていると思って、はっと立ち止まる。「若女将」が「バカ女将」に聞こえてしまうほど、当時の自分はピリピリしていたと松本さんは振り返る。自分は正論を言っている。旅館のためになることをしたいだけなのに、なぜみんな邪魔をするの…?

 「今思えば生意気でした。従業員の中には、私のおしめを替えてくれた人もいるのに。日本での経験もないのに、英国では、ホテルではと二言目に言っていた。結果を出そうとあせって、気合いが入りすぎていたんです」。今は笑って話せるが、当時の松本さんはストレスからアトピー性皮膚炎になり、夜中に体をかきむしって血だらけになったこともある。

 支配人に「ホテルは知っていても旅館のことも知らないんだから、旅館に修業に行けばいい」とアドバイスされ、福島県の旅館に修業に出た。ところが、ひと月もしないうちにO-157による食中毒騒ぎで、レストランや旅館、ホテルも営業停止処分を受けるところが出た。実家の旅館も、3日間営業停止になった。

 「よそで働いている場合じゃない」。1995年、急遽松本楼に戻り、危機の中で初めて従業員たちと心を合わせて働く経験をした。

1997年オープンの洋風旅館「ぴのん」の前で

 「営業停止処分が解けてから、初めて迎えるお客様を送り出して頭を下げた時、どれほどありがたいと思ったか。『ありがとうございました』と、初めて心から言えました。それまでは、お客様が来ることは、どこか当たり前のことと思っていたんです」

 旅館育ちの娘が初めて感じた、「お客様がいらしてくれる」ことのありがたみ。この経験は松本さんを一段と成長させた。

 しかし跡取り娘には、更なる課題が待っていた。「何か新しいことをやってみなさい。留学中に、新しく作りたい旅館について手紙を送ってくれていたじゃないか」。そう父に言われた。O157騒ぎで松本楼の再建が危ういという噂も出ていた。そんな噂を払拭するためにも、起死回生の策を跡取り娘にやらせようという大胆な提案だ。社員寮とゲートボール場だった場所をつぶしたので、土地はある。

 こうして、新しい旅館のオープンをすべて任された松本さん。開業予定まで、1年もない。英国で得たことをすべて生かし、力を振り絞る時が来たのだ。


 「洋風旅館にしよう。旅館の良さとホテルの良さを兼ね備えた宿にしよう」。漠然とした構想はあった。しかし「洋風旅館」というアイデアに、支配人以下社員は大反対。

 だが父母は、松本さんを見守ってくれた。和風旅館の良さは浴衣でくつろげるところ。でも部屋に仲居さんや布団を敷く従業員が入ってくるため、プライバシーが確保できない。松本さんは、英国でプライバシーの大切さを学んだ。

 「布団を敷かなくてもいいように、ベッドにしよう」。今でこそ、旅館にベッドの部屋は珍しくないが、1996年では画期的な発想だった。英国風の建物にし、食事は曾祖父の時代への原点回帰で、洋食に。それも、和食器で洋食を出そう。

 でも、お客が食事をするのに着替えなければいけないのは、マイナスだ。せっかくの「浴衣でくつろげる旅館」の良さがなくなってしまう。それなら、浴衣のままで食事ができるようにしたい。英国で異文化に接して、初めて日本旅館の接客の良さに気がついた。それを自分らしい形で表現したかった。

夜の「ぴのん」

 こうして1997年にオープンした「ぴのん」は、洋風建築のユニークな旅館として伊香保温泉で話題になった。ペンションでもプチホテルでもない。安普請でなく、しっかりした建築。バブル後期で高級旅館がはやっていたが、値段はビジネスホテル並みにした。

 「27歳の私が泊まりたい宿にしたかった。3万円の宿よりも、8000円で3回来られるような宿にしたかったんです」

 ぴのんでは、チェックインの時に浴衣を渡される。仲居さんが部屋に来ることもない。若い人に好まれるスタイルだ。しかし温泉でゆったりした後は浴衣のまま、館内のレストランで食事ができる。食事にもこだわった。伊香保にはレストランがなかったので、外からも食事に来られるレストラン「夢味亭」を作った。

「ぴのん」の食堂「夢味亭」で出る洋食のコース。箸で食べられるのが特徴

 面白いのは、1人部屋を6室作ったことだ。「いつも、伊香保にないものを作りたいんです」。最初はお客が入らなかったが、今は1人客の需要が多い。私が取材に行った時も、レストランで1人客が静かに食事をする光景も見られた。このため、1人部屋をもっと増やす計画もしている。

 ぴのんは4年間で、当初の目的であった年商5500万円の2倍の売上げを出し、4年連続毎日満館という実績を作った。

ホテル松本楼もリニューアルオープン

 ぴのんオープン後、1999年には本館の松本楼の改装にも着手した。宴会場を1つつぶして、当時は珍しかったエステルームを作った。英国ではどこのホテルにもエステルームがあったから、日本でも絶対にはやると確信していた。旅館の中には誰もやる人がいないので、松本さん自身が学校に行き、自らセラピストとしてエステの施術もした。思いついたことはどんどん実行に移すのが、松本さんのやり方だ。改装の際は、今は流行の貸切風呂も作った。

 バリアフリーの客室も2部屋作った。欧米では当たり前のユニバーサルデザインを早くから取り入れたのだ。また「板前さんの離乳食」や「刻み食」もメニューに入れ、障害のある人や子供連れも楽しめる宿にした。適度なプライバシーがあり、それでいてどんなお客様も居心地がいいようにさりげない気配りが行き届いている。

当時としては珍しいエステルームを作った

 「宴会場をつぶすことにも、大反対がありました。でも、もう大人数の宴会の時代ではないと思ったんです」

 跡取り娘は、時代を読んでいる。次第にほかの地方からも視察が相次ぐようになり、周囲の見る目も変わった。自分の意見が通るようになった。「認めてほしいと言えば言うほど、みんな離れていく。黙って一生懸命やって、結果を残せばみんなついてきてくれる」

 やるしかない。評価は後からついてくる。ぶつかって、孤立して、苦しんで、やっと学んだことだ。しかしその間に、松本さんと対立して辞めてしまった人もいる。16年間勤務してくれた支配人と大喧嘩をして、「あなたとは一緒にやっていけない」とはっきり言われた。父母はどちらの味方にもつかなかったが、大切な支配人だ。「悪いところは言ってください。直しますから」と松本さんは慰留したが、彼は結局旅館を去ることになる。

 「でも2年後、祖父のお葬式の時に、彼が来てくれたんです」

 その時に、元支配人に言われた。「あんたは言うことも言うけれど、やることはちゃんとやるからね。ほかの若女将も見てきたけれど、あんたみたいな人はなかなかいないよ」

 何よりの賛辞だった。「困ったことがあったら、言ってください」と元支配人は言い残していったが、本当にそのすぐ後に人手が足りなくて困ったことがあった。すると元支配人は妻を派遣してくれた。今もその女性は、松本楼で働いてくれている。

 「祖父が、彼ともう一度引き合わせてくれたのだと思います」

 働きに働いて、自分の夢だった旅館を作り、松本楼でも跡取りとして認められるようになった。しかし伊香保温泉全体は、バブル崩壊後、かつての華やぎを取り戻せない。ある時、松本さんは地域再生で有名な温泉地、湯布院の関係者に会った。「これからは一旅館の時代じゃないよ。街作りから考えなさいよ」。

伊香保おかめ堂本舗を作った、4人の跡取り娘たち

 伊香保全体でお客を呼ばなくてはいけない。でも、街作りのような大きなことは、1人ではできない。どうすればいいんだろう…。

 そんな頃伊香保温泉では、外に出ていたほかの旅館の跡取り娘たちも徐々に帰ってきていた。松本さんはある時、伊香保の3人の跡取り娘たちと出会い、10年間胸に秘めていた熱い思いを打ち明け、みなで協力して「伊香保おかめ堂本舗」を設立することになるのである。

(次回に続く)



松本 由起(まつもと ゆき)
ホテル松本楼常務取締役。1969年、群馬県生まれ。県立渋川女子高等学校卒業、産業能率短期大学で経営能率を専攻(経営者二世コース)、産能大学経営情報学部経営学科編入。英国ウエストミンスターカレッジに語学留学。1993~95年までロンドンのThe Tower Thistle Hotel、コッツワルドのThe Lygon Armsで研修を終えたのち、95年から家業のホテル松本楼に若女将として勤務。

日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総研 HR人材開発センター長 大塚葉が担当した記事を再掲。