(前回から読む)

千明仁泉亭23代目の千明恭子さん(写真:山田 愼二、以下同)

 さて、伊香保おかめ堂本舗のメンバー、4人の跡取り娘のうち、松本由起さんの次に伊香保に戻ってきたのは、千明仁泉亭(ちぎらじんせんてい)23代目の千明恭子(ちぎらきょうこ)さんである。

 「上州伊香保千明の三階の障子開きて、夕景色をながむる婦人。年は十八九…」。徳冨蘆花の『不如帰』の一説だが、この「千明の三階」は千明仁泉亭の部屋のことだ。明治の文豪、蘆花は1927(昭和2)年に伊香保で最期を迎えるまでに何回も伊香保を訪れ、名作『不如帰』はここで執筆された。

 千明仁泉亭は木造3階建ての純和風建築で、大正、昭和の面影を残す旅館だ。磨かれた廊下を歩くと、竹久夢二の描くような女性がカラリと唐紙(からかみ)を開けて現れてきそうだ。年輪を経た建物独特の空気がある。玄関には蘆花の直筆の書も飾ってある。

 1502年に連歌師の宗祇がこの地を訪れ、痛風の治療をしたという伝えの残るこの旅館。「仁泉亭」という名の由来も、宗祇が「仁(めぐみ)の湯だ」と称したことによる。その後湯治場として栄え、当時の統治者が湯元の管理人として指名したのが大家と呼ばれる12軒。それぞれには干支が割り当てられ、干支の年に関所の番をしていた。

 「現在大家で残っているのは、千明、木暮、岸の3軒だけです」と千明さんは言う。500年余りの歴史のある旅館に、一人娘として生まれた千明さん。ほかの3人の跡取り娘たちと同じ渋川女子高等学校を卒業し、その後帝京大学経済学部を経て、東京でいったんはアパレルメーカーに就職した。

千明仁泉亭の一室と、蘆花の直筆の書

 旅館を継ぐことは定められた道だったが、その前に「違うこともやってみたい」と、興味のあったアパレル業界に入ったのだ。ここに2年勤めた後、旅館を継ぐための経験を積むため、ホテルやレストランに派遣社員として勤務した。27歳で若女将として家業に戻り、今年で8年目を迎える。「家業に戻ったきっかけは、祖父母が立て続けに亡くなったことです」。

 老舗の娘らしい落ち着いた雰囲気の千明さんの傍らには、旅館の法被を着た夫の孝夫さん(34歳)がいる。孝夫さんは元自動車の販売会社の営業マンで、群馬県の出身だが伊香保の千明仁泉亭のことは知らなかった。つき合っている頃は、千明さんを「小さな旅館の娘さんだと思っていた」。

千明さんと夫の孝夫さん

 2人は5年交際し、孝夫さんが千明姓になって結婚。現在千明さんが常務で、夫が専務である。「夫の肩書きは専務ですが、部屋の布団敷きからやっています」。最初はスーツを着ていた孝夫さんも、今は旅館の修業の真っ最中なのだ。「主人は外から来た人。私が家に戻ったばかりの頃、私が母に言っていたのと同じようなことを、今は主人が私に言うのです。この前も『旅館というのは、休みがないね』と驚かれました」。

 一度は外の世界であるアパレルメーカーに勤務した千明さんも、8年前家業に戻った当時は、旅館では長年「当たり前」とされていることで、「これはおかしいんじゃないか?」と気になることが多かった。

 例えばこんなことがあった。従業員数は限られており、一人ひとりの役割が大切なのに、数人で同じ行動をした結果、その部署が手薄になる時があったのだ。知らぬ間に、お客の都合ではなく自分たちの都合で行動する習慣がついてしまっていたのである。これに気づいてからは、従業員同士声を掛け合うようにした。


 今、孝夫さんが「これはどうなの?」と言うたびに、千明さんは8年前の自分を思い出す。逆に「旅館の慣習に慣れてしまった」自分を反省し、夫の意見に教えられることもある。

 そんな中でも「長年やってきたから、このままでいい」と見過ごせない問題もある。それは、伊香保の客層の変化だ。「今、団体客から個人客へのシフトが起こっています。なのに、昔のよかった時代が戻ってくるといまだに思っている人も多いんです」。男性の団体客が、飲んで騒いでお金を落としていくという過去のビジネスモデルに固執して、個人客にまで目がいかないのは、伊香保のどの旅館も同じだ。これを変えなければいけないのではないか。

  母が嫁いできた頃、他の旅館が団体客で賑わっていた時に、仁泉亭はお客がゼロの日が続いていた。このままではいけないと、価格帯を変えて団体の受け入れを始めたことで、現在の千明仁泉亭がある。これは「流行に乗る」というのではなく、できるところから変え、残すべきものは受け継いでいく、という老舗ならではの感覚だと千明さんは思う。千明さんの母は、祖父から「この建物は大事に残してほしい」と言われ、それを守ってきた。

 このような経緯ののち、千明さんは旅館の一部の改装を考えたが、それを主張しすぎると親と衝突してしまう。親がこれまでやってきたことを否定したくない。でも自分に何ができるのか、自分らしい個性をどうしたら出せるのか。

5年前に旅館内に作ったカフェバー

 結局、団体客向けのホールを作ろうとしていた母と支配人を何とか説得し、千明さんは5年前、旅館の1階に外の石段街からも入れるカフェバーを作った。朝9時から夜11時まで営業。若い人やカップルが、いつでもお茶やお酒を楽しめる。「カラオケでもなく、クラブでもなく、自分たちの世代が行ける場所が欲しかったのです」。

 北欧調のアンティーク家具、茶色の革張りのソファがゆったりと並び、取材時はフェルト作家の企画展をやっていた。年に1回アーティストを呼んだライブもやる。代々木上原にある「Fireking cafe(ファイヤーキングカフェ)」を思い出させる、しゃれた空間。創業500年の大正ロマンの香りが漂う館内にあるが、不思議と違和感はない。お土産コーナーのオリジナル商品のパッケージも、スッキリとしたデザインで統一されている。


 「リピーターのお客様が多い旅館なので、お泊まりの方も夜コーヒーやお酒を楽しめるし、ふらりと外から立ち寄る方もいます。地元の若い人の集合するスペースでもあり、皆さんに楽しんでいただいています」

 現女将の62歳の母、佳寿子副社長はまだ元気だが、日に日に頼もしくなっていく跡取り娘を見て「任せたいような、でも寂しいような気もします」と、いつの日か来る代替わりの日を語った。

土産物屋の跡取り娘も、客層の変化に敏感

 次に訪ねたのは石段街の土産物屋、民芸の山白屋3代目の真淵智子さんだ。伊香保名物の石段街は、伊香保神社まで続く長い石段の横に小さな土産物屋や旅館やらが並ぶ風情ある景色だ。

民芸の山白屋3代目の真淵智子さん

 「神社はまだですか?」。100段ぐらい階段を上って疲れた人が尋ねると、店番をしている真淵さんが、「あと2、3分ですよ。行っていらっしゃいませ」と朗らかに答える。店の前にはベンチもあり、ちょうど一休みしたい場所なのだ。

 小さな間口の店の中には、小物がぎっしり詰まっている。アイテム数は約1000。取引先は50社以上だ。商品に売れ筋ランキングをつけると効果的と分かってからは、まめにランキング表示をするようにした。「売れ残り品はないんです。何年もかかってひょいと売れるものがあるから、不思議です」。今は真淵さんがパソコンで在庫管理をしている。

 もともとここには、100年以上小さな旅館があった。大家から温泉と土地の権利を借りる、店子の立場の旅館である。しかし真淵さんの祖父は体が弱く、また小規模な旅館の経営に限界を感じたため、土産物屋に商売替えをした。真淵さんの子供の頃から、祖母と母で店をやっている。

 渋川女子高等学校のあと群馬大学工学部建設工学科(当時)を卒業後、1988年にSE(システムエンジニア)としてNTTに入社。その後にNTTから分社独立したNTTデータに異動した。

 就職して結婚し、子供も生まれるが、5年目に離婚。当時は既に仕事をやめていた。「縁もゆかりもない土地で、子供と2人どうしよう?」。そんな時、母のふみさんに相談すると、「家業があるじゃない」と言われたのだった。

 真淵さんには弟がいたが、2人とも幼い頃から、両親に家業を継ぐよう言われたことは一度もなかった。伊香保で100年以上続いている家業を大切に思いながらも、それよりも子供たちの描く自由な進路を望んでくれていたのだ、と真淵さんは思う。「私の離婚をきっかけに、母が家業に入ることを勧めたのも『家業を守る』という意識よりは、私と子供にとっての最善の道の1つを提案してくれたのだと思います」と真淵さんは言う。

 弟も今はサラリーマンになっている。そうだ、家に帰ろう。地元に戻って再就職することも考えたが、母の一言で土産物屋を継ぐ気になった。祖母も母もやってきた仕事は女性にも適しているし、毎日子供といられる時間も長い。

 そういえば自分も弟も、「ただいま」と学校から店に帰ってきていたのだ。「生活と仕事が一緒。子供の顔を見ながらできる究極の仕事だ」、そう思った真淵さんは、7年前の2001年、家業に戻る。

母と一緒に店を切り盛りする
男性客の増加に合わせ、男性用和雑貨も充実させた

 それでも10年東京で過ごしたブランクは大きく、母親とケンカをすることもある。戸惑うことも多かったが、勇気づけられた出来事もあった。東京で離婚したことで、伊香保の狭い社会では肩身が狭い思いをするかと思いきや、少子化の現代では状況が違った。「孫を連れてお嬢さんが戻ってくるなんて、山白屋さんは運がいい」「しかも男の子だよ。でかしたね」と励ましてくれる人も多かったのだ。

 母と2人で、土産物屋を切り回す日々。小さな店でも、日々お客さんに接している最前線の現場だ。お客の変化も敏感に感じている。

 「最近はお客様の若返りで、人気商品が変わってきました。ほかの人にではなく、自分へのお土産を買う人が多くなってきています。それから、男性にも“和”のブームが来ていますね」。若いカップルが店に来て、和風の巾着や、着物地のスニーカーの紐などを買っていく。男性客が自分用の小物を選んでいるのを見て、慌てて男性用の和雑貨を強化した。やはり、客層は確実に若い層へとシフトしている。

 「また、中国、台湾からの観光客は必ず梅のお菓子を買っていくんです」。伊香保温泉に泊まらず、バスツアーで寄っていく海外の観光客たちのために、真淵さんの母は中国語の勉強も始めた。

 以前は、旅行雑誌の取材があっても店としてアピールするものもなかったが、真淵さんが戻ってからは、「店のお薦めアイテム」をはじめとして、毎年「今年の売りを何にするか」を決めるようにした。おかめ堂本舗のオリジナル商品(参考記事はこちら)もその一環だ。話題があればメディアにも取り上げられるので、宣伝効果は大きい。

手ぬぐいと、人気のお守りミニ下駄

 「仕入れ品でも、オリジナリティーを出したい。こちらから発注して作ってもらうこともあります」。伊香保温泉の源泉を使用した「いかほろ染め」の手ぬぐいは、地元のお母さんたちの手作り。間伐材を利用した栞(しおり)とブックカバーは、障害者支援のNPO法人(特定非営利活動法人)の製品だ。普通の土産物屋のルートにない新規の商品を、自ら開拓している。

 「子供のことを考えると、街が元気で住む人たちが幸せでないと、この場所で子育てはできません。子供と一緒に伊香保に戻ってきて、何百年も続いてきた街や歴史を、自分の代で終わらせてはいけない、と真剣に考えています。おかめ堂本舗の仕事は、自分の仕事にも直結しているのです」。子供を持つ真淵さんだからこそ、街作りにかける思いも深いのだ。


(次回に続く)


千明 恭子(ちぎら きょうこ)
千明仁泉亭常務取締役。1974年、群馬県生まれ。県立渋川女子高等学校卒業、帝京大学経済学部を卒業後、アパレルメーカーに勤務。その後、派遣でホテル、レストランに勤務し、1999年より家業に戻る。

真淵 智子(まぶち ともこ)
1965年、群馬県生まれ。県立渋川女子高等学校卒業、群馬大学工学部建設工学科(当時)を卒業後、1988年NTTに入社。1989年、NTTデータに異動。1999年退社し、2001年に家業の山白屋商店に戻る。

日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総研 HR人材開発センター長 大塚葉が担当した記事を再掲。